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1章
18
しおりを挟む「カグくん」
僅かに腰を浮かせて、ニールは困惑したようにペアの名を呼んだ。
殴りかかって来そうな勢いで向かって来る彼に対して、怯えた様子はない。
ニールにしてみれば管理員に呼び出されて面談を受けていただけで、何ら問題があるとは思わないのだろう。
けれどその場にユーグレイとアトリがいて、自身のペアと何か話し込んでいる様子を見たカグはどう感じただろうか。
ここまで一貫して傍観を決め込んでいたユーグレイが、珍しく額を押さえる。
そりゃあそうだ。
当然、良い予感がするはずもない。
「カグ、悪いが面談中でな。もうちっと待ってもらえるか」
ベアは目前に迫ったカグに対して、のんびりした口調でそう言った。
気の抜けるような穏やかな声は意図してのものだろう。
実際、嘘ではない。
けれど管理員にそう言われても、カグは大人しく退くような精神状態ではないようだった。
ベアを無視して彼はニールの肩を掴んだ。
ナイフのような鋭さで、その目が一瞬ユーグレイを捉える。
「コイツらと、何話してたワケ?」
ニールがそうであるように、カグも自身を追い詰めるように現場に出ていることは確かだ。
目に見えるような体調不安はなさそうだが、精神的には相当に消耗していそうである。
詰問されて、ニールは口籠もった。
ベアが腰を上げる。
「ちょいと落ち着け、カグ」
カグは一瞬酷く傷ついたような表情をして、返事をしない相棒を見下ろす。
彼はニールの肩から手を離し、そのまま物凄い勢いでテーブルを叩いた。
「お前までオレを馬鹿にすんのかよッ!」
びく、と跳ねたニールは真っ青な顔で「違う」と首を振った。
流石に間に割って入ったベアを、カグは思い切り押し除けて「ふざけんな」と叫んだ。
その声が、泣き出しそうに聞こえたのは気のせいだろうか。
「カグくん、ぼくは」
立ち上がりかけたニールの胸ぐらを、カグが掴む。
咄嗟にアトリは立ち上がって、その手を押さえる。
当然殺されそうなほど睨まれるが、そんなことはどうでも良かった。
やめろと言いかけたのを、うるさいと一蹴される。
ああ、もう。
「何か致命的な認識の相違があるようだが。少なくとも、怒りをぶつける相手は間違えない方が良い」
温度を感じさせない声。
冷ややかに響いたユーグレイの言葉に、カグはぴたりと動きを止めた。
「オレから何もかも奪って、満足かよ。ユーグレイ・フレンシッド」
ニールの胸ぐらを掴んだカグの手から、力が抜ける。
相棒の一言で、カグの意識は完全にそちらに向いたようだった。
けれどそれで事態が好転したかと言われれば、寧ろ悪化したと言うべきか。
ユーグレイに向けるカグの目は、敵を見るそれと変わらない。
対するユーグレイは、その害意を正面から見据えて顔色一つ変えなかった。
「他人から何かを奪った記憶はない。ましてそれが君のペアを指すのだとしたら、勘違いも甚だしい。君は他人に当たり散らすより先に、自身のペアと話し合うべきだろうな」
正論である。
ただ正しいことを他人に突きつけられて、素直に受け止めることが出来る余裕がカグにあるのなら、そもそも最初からこういうことにはなっていない。
カグはぐっと言葉を飲んだ。
そのままニールを押しやるようにして手を離し、何を思ったのか間に入っていたアトリの手を思い切り掴む。
力加減も何もない。
「な、に」
反射的に引いた腕を、強く押さえられる。
思いがけず縋るような色をカグの表情に見て取って、アトリは静止の言葉を飲み込んだ。
ニールにとってそうであるように、カグにとってもニールは「大切な相棒」なのだろう。
その大切な相棒が、自分を置いてよりにもよってユーグレイたちと話し込んでいた。
そしてその話を、カグに問われても明かすことはしなかった。
だから「相棒を奪われた」と、彼が感じるのはある意味では仕方のないことなのかもしれない。
もういい、とカグが言った。
椅子に崩れ落ちたニールが、のろのろと彼を見上げる。
「ーー手を離せ、カグ」
不愉快そうに瞳を細めたユーグレイが、すっと立ち上がった。
双方を宥めるベアの声など、聞こえている様子もない。
ようやく感情らしい感情を見せたユーグレイに、カグは満足した様子で笑いを浮かべる。
「あ? こういうことだろ。テメーがニールを言い包めたんなら、仲良くペアにでもなりゃいいだろーが。評価上位様に捨てられちまったカワイソーな元ペアをオレが拾ってやって何が悪いんだ?」
多分無意識ではあるだろう。
ユーグレイとは違う熱を持った大きな手から、感情の昂りに押し出されるようにして魔力が流れて来る。
それは決して受け取り切れないほどの量ではなかったが、脳が痛みを訴える直前のような言い知れない不快感があった。
悟られるほどの反応をしたつもりはなかったが、その一瞬でユーグレイの気配が完全に切り替わるのがわかった。
腰の銀剣で斬りかかるようなことは流石にないと思いたいが、躊躇いなく切先を向けるくらいはしそうだ。
テーブルを挟んでアトリはカグに手を掴まれたまま。
頼りの相棒はこうなると卒なく場を収めるつもりなど毛頭ないだろう。
カグの背後で状況を見守るベアは、まだ実力行使に踏み切る様子もない。
一体、どう収拾をつけるのか。
ぼんやりとカグを見上げるニールが、視界の端に映った。
もしもアトリが彼と同じ立場だったら。
お前のペアは俺じゃねぇの、と言ってやって、それから。
「カグが、どうしてもってんなら今夜だけ一緒に現場に出てやっても良いけど」
アトリは淡々と、そう口にしていた。
低く相棒に名を呼ばれたが、そちらを向く勇気は流石にない。
自分でペアを拾ってやるとか言ったくせに、カグはまさかアトリがそう返答をするとは思っていなかったのだろう。
気の抜けたような声で「は?」と聞き返す。
「だから、お前と現場に出てやるって言ってんだけど。でもさ、カグ。俺、お前とペア組むつもりはないから、現場でも好き勝手やらせてもらうし、そっちは全く気にかけないからそのつもりしててくれよ。まあ、お互いその方が楽で良いだろ」
「……は、何だよ。エラそーに、雑魚のくせして」
それがどういう意味なのか、カグは気付いていないようだった。
アトリは何かあってもカグを守るつもりはないと、そう言ったのだ。
ただその言葉の意味を理解して欲しかった相手は、別にいる。
アトリは敢えてその視線を無視して、掴まれていない方の指先をカグの額に向けた。
「あと、実力を侮るような相手に不用意に魔力を渡すな。俺、雑魚だから、うっかり勢いで攻撃しちゃうこともあるかもしんねぇよ?」
幸いそれはカグにも理解出来たらしい。
勝手に握っておいて、突き放すように乱暴に手を離された。
ようやく解放された手をローブの袖で隠して、アトリは「じゃ、行く?」と畳み掛ける。
ユーグレイは流石に意図を飲んでくれたようで、口を挟むことはしなかった。
戸惑うように視線を泳がせながらも、カグは「テメーこそ遅れんなよ」と言い捨てて踵を返す。
その背に、「待って」とニールが声をかけた。
「ぼくは、カグくんのペアを辞めてない。アトリくんを連れて行く必要は、ないよ」
テーブルに手をついて立ち上がった彼は、強い口調でそう言った。
振り返ったカグは、気の弱いニールらしからぬ様子に驚いたように立ち竦んでいる。
ニールが諦めてしまったらどうしようかと思ったが、杞憂だったらしい。
アトリは少し余裕を取り戻して、肩を竦めた。
「そ? でも、カグは俺に来て欲しいんじゃねぇの?」
気分は当て馬である。
軽い調子で煽ると、ニールは真っ直ぐにアトリを見た。
そうだ、言ってやれ。
カグは強気に見えて実は臆病で察しが悪いのだから、ペアであるニールは少し大胆になった方が良い。
「ぼくは、カグくんのペアを、誰にも譲ったりしない」
それ以上の言葉が、あるはずがない。
ついさっきまで纏っていた緊迫感はどこへやったのか、カグは呆然と自身の相棒を見つめる。
ニールは言い切って息を吐くと、アトリが苦笑したのを見てはっとしたようだった。
「だってさ、カグ」
お前はどうなの、と付け加えるまでもなかった。
彼はさっと視線を落として舌打ちをすると、「ニール」とペアの名前を呼んだ。
行くぞ、と当然のように呼びかけられて、不安に翳った表情が綻ぶのを見た。
流石にばつが悪いのだろう。
さっさと食堂を出て行こうとするカグを追いかけながら、ニールは一度こちらを振り返った。
振り返って、小さく頭を下げる。
騒動の元凶であるペアがいなくなると、水を打ったように食堂は静まり返った。
アトリは重く息を吐いて、腰を下ろす。
「いや、何だ、その、巻き込んじまって悪かったなぁ」
「勘弁して下さい、ホント」
でもアイツらには良い薬になったろう、と確信犯の管理員は肩の荷が下りたみたいな顔で笑った。
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