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2章
0.4
しおりを挟む調子が良いだけ、なんていう言葉を全て信じていた訳ではなかった。
明らかに以前より高位の魔術を行使するようになったアトリは、けれど防衛反応で過剰な痛みに苦しんでいるという様子もなかった。
どちらかと言えばユーグレイが大丈夫か聞いて初めて、「疲れたかも」なんて言うくらいだったのだ。
だから何かあるだろうとは思っていても、大きな危機感までは当然抱いていなかった。
無論彼に関することを軽視するはずがない。
ただ問い詰めた先で「明日にしよう」と言われて、それ以上無理矢理に踏み込むことはしなかった。
実際、明日にすれば良いと思ったのだ。
どうせ明日もアトリは隣にいるのだからと。
そんなことは約束されていないと、かつて思い知ったはずなのに。
第二区画の暗い海。
水の中に座り込んだ、頼りない背中。
呼びかけに応じるように立ち上がった彼に、「ユーグ」と名前を呼ばれて。
身の内を切り裂くような後悔と共に、ようやく。
アトリが取り返しのつかない何かを隠していたのだと、理解した。
「お前さ、相手が俺だからってもうちょっと優しくしてくれても良いんじゃねぇの」
毛布で包むようにしてソファに寝かせたアトリが目を覚ましたのは、それから数時間してからだった。
寝落ちるから、と殆ど何も食べていないのだ。
今度は空腹に耐えかねて起きるだろうと思ったが、案の定である。
傍に腰を下ろして指先で髪を梳くようにして撫でると、起き抜けの無防備な表情は呆れたようなそれに変わった。
怒っていると言うよりは、諦めたような溜息。
優しくしてくれても、と言われてユーグレイは「これでも譲歩した」と答える。
「どこが? つい誤魔化したのは俺が悪かったけど、めっちゃ容赦なかっただろーが」
「それは懲りない君が悪い」
「いや、だから普通に怒れって」
アトリは重そうに身体を起こすと、自身が服を着ていることを確認して何とも言えない顔をする。
けれど浴室でされたことに比べたら些細なことだろう。
本人も最早追求すらしない。
「言っても聞かないからだろう。それなら身体に教え込んだ方が早い」
「……動物かよ」
力なくそう言ったアトリの耳元に手を伸ばす。
黒髪を摘んで耳にかけてやると、彼は一瞬口を噤んだ。
次の挙動次第では全力で抵抗しにかかるだろう。
だからそーいうの、とアトリは呻く。
ユーグレイは息を吐いた。
「君の防衛反応は、君が思っている以上に普通の状態じゃない」
「………………」
「隣にいてくれると言うのなら、あんなことはもう、無しにしてくれ」
わかっているとか、心配し過ぎだとか。
そういう言葉が返って来ようものなら、今からでも思い知らせるつもりでいた。
ただアトリは何も言わない。
ユーグレイの手を取って、彼は視線を落とす。
それはどちらかと言えば親愛に寄った触れ方で、どこか宥めるような気配に満ちていた。
「ごめん」
呟くような謝罪に思わずアトリの手を握る。
魔術を紡ぐその手は、ユーグレイの手より少しだけ小さい。
「俺だって、もうあーいうのは勘弁だって」
困ったようにアトリは笑った。
「でもほらお前に癖って言われるくらいだし、直るまでちょっとくらい時間をくれても良いだろ?」
聞き返されてまで嘘を吐いたりはしないから、とアトリは約束をするようにユーグレイの手を握り返した。
「そこまでしたら、流石にユーグの気の済むようにして構わない。でもそうじゃない時は、その、あんま酷くすんな。後から冷静になると、本当、居た堪れなくて死にそうなんだって。あんな馬鹿みたいに喚き散らしてんの、普通におかしいだろ」
「別におかしくはない。気持ち良いから喘いでいるんだろう?」
「っ、そーですが! お前だって嫌だろ? 自分がきゃんきゃん喘いでんの想像してみろ!」
「……君の声は綺麗だから問題ない」
「ユーグ、お前、そんなんで誤魔化せると思ってんのか?」
けれど言いながら結局は可笑しくなったらしい。
アトリは怒る顔をし切れずに笑い出した。
心底楽しそうなその声の響きに、ユーグレイに対する怒りは欠片も感じ取れない。
文句は言うけれど、結局のところ許容されているのだ。
自覚はないのだろうが、それだけアトリはユーグレイを近しい相手として見ている。
抑え切れない感情に突き動かされて腰を浮かす。
そのまま、ユーグレイはアトリの頬に触れた。
丸く見開かれた黒い瞳が近くなる。
「待、った!」
ぐい、と肩を押さえられて、ユーグレイは仕方なく動きを止めた。
触れたい衝動が大き過ぎて、無意識に目の前の唇を指でなぞる。
アトリはソファの背凭れに背中を押しつけるようにして、「待て待て」と繰り返す。
「俺、腹減って起きたの! 今度はちゃんと飯食って、ベッドできちんと寝たいんだって!」
「そうか、わかった」
「わかってんなら、何で力込めてんだよ!」
ほとんど覆い被さるような体勢になりかけて、アトリが慌てたように言い返す。
けれどユーグレイとしては、抵抗されている理由がわからない。
「もっと凄いことをしたばかりだろう。別にキスくらい恥じることもないと思うが」
「どーいう理屈だ! さては他人の話聞いてねぇな!? 駄目だってばっ!」
何故と眉を寄せてユーグレイは問う。
言われなくてはわからない、と意図して同じ言葉を突きつける。
アトリはぐ、と拒否の言葉を飲む。
耐えかねたように、その視線はユーグレイから逸れる。
「だから飯食うどころじゃなくなるだろ! お前くっそ上手いんだから、自重しろ!」
「………………」
思わず力を緩めると、アトリは丸めた毛布ごとユーグレイを突き飛ばして傍をすり抜けていく。
けれど逃げるように部屋を出て行くことはせず、扉に続く短い廊下で振り返った。
まだ羞恥の色が残る顔で、彼は「ほら」とユーグレイを促す。
「どうせそのつもりして起きてたんだろ? 行こう」
ユーグレイは静かに頷いて、ただ深く溜息だけは吐いた。
立ち上がってアトリを追うと、怪訝な表情で首を傾げられる。
「自重しろと言うが、君も発言には気を付けろ。アトリ」
今のは普通に押し倒して構わなかっただろう。
アトリは理解まではしなかったようだが、不穏なものは感じ取ったらしい。
ひく、と肩を震わせる。
だから全く。
我慢が出来ないみたいな言われようは心外だと、ユーグレイは思った。
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