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5章
12
会場に戻ると、ヴィオが軽く手を上げるのが見えた。
隣には彼の父親、そしてレクターが立っている。
つまりその時が来たのだなとわかった。
自然と譲られる道。
柔らかいカーペットを踏んで、婚約者の元に向かう。
参加者たちの多くは、恐らく今夜の婚約発表に気付いていたのだろう。
向けられる視線に驚きはない。
「お集まりの皆様」
ヴィオの父親がぐるりと会場を見渡して声を張った。
彼は自身の息子の肩に手を置き、レクターも同じようにアトリの肩に触れる。
一瞬、刃物でも突きつけられたかのような緊張が背を走った。
アトリは無言のまま、レクターを見上げる。
なるほど、何か「間違い」でも犯そうものなら魔力を注ぎ込んで黙らせようという訳らしい。
穏やかな父親の顔をした男から目を逸らして、アトリは息を吐いた。
心身の掌握に近いあの状態は確かに苦痛ではあるが、それでもレクターの魔力はユーグレイのそれとはまるで比べ物にならない。
いくらでも抵抗の仕様はある。
怪しまれない程度に近付いて来たフォックスが、心配そうに眉を顰めていた。
長い前口上がようやく終わり、ヴィオが徐にアトリの腰に手を回す。
それは「婚約者」としては当然の所作だった。
シャンデリアから降り注ぐ煌めくような灯り。
豪華な食事に酒、礼儀を弁えた美しい人々。
ヴィオの横顔には、ただこの先の日々が全て素晴らしいものであるかのように一欠片の憂いもない。
せめて、その手を振り払うことはしなかった。
青年は父親から話を受ける形で、言葉を続ける。
「私、ヴィオルム・ハーケンはクレハ・ヴェルテット嬢と婚約致しましたことをーーーー」
いいえ、とアトリははっきりと口にした。
会場は凍りついたように静まり返る。
肩に置かれたレクターの手に力が入った。
指先が食い込む痛みを無視して、「いいえ」と繰り返す。
ヴィオは呆気に取られたような幼い顔で、アトリを見た。
悪い。
「申し訳ありませんが、想いを寄せた訳でもない相手と誰かの利益のためだけに結婚することは出来ません」
淡々と告げた言葉。
戸惑うようなざわめきが徐々に大きくなる。
同時に、レクターが低く名前を呼んだ。
予想通り流れ込んで来た魔力に、息が詰まる。
魔力は魔力だが、これで魔術を編むのはどうにも気分が悪い。
まあ、仕方がないが。
アトリは身を翻すようにして、男の手を思い切り叩いた。
そのままヴィオの側からも一歩離れる。
「『私』は、教会の小さな部屋に閉じ込められ行動の全てを制限されています。この力は利用され、見ず知らずの相手の子供を産めと強要されて来ました」
「クレハ!」
唸るような怒号。
レクターは獣のような表情で手を伸ばす。
アトリは指先を真っ直ぐに男に向けた。
「動くな、レクター・ヴェルテット」
クレハ・ヴェルテットは極めて優秀だ。
レクターの魔力で構築した至極弱い攻性魔術は期待通りの威力で放たれ、男の首筋を素通りした。
そのまま空中で霧散する魔術。
それを向けられたレクターは、怯んだように動きを止める。
参加者たちは魔術というものに慣れていないのだろう。
その場でアトリが何をしたのか、気付いた者は多くはなさそうだ。
「それを『私』に強いたのは、貴方でしょう?」
指先を向けたまま、アトリは問いかけた。
ヴィオの父親が堪りかねたように「何なんだ!」と言いかけるのを、青年が止める。
「…………待って欲しい。クレハ、それは、本当のことなのかい?」
「ご自身で懺悔をして下さるはずですから、お聞き下されば」
ヴィオに問われて、アトリはレクターに微笑みかけた。
次は容赦なく当てると思われたのだろう。
男は白い顔をして、唇を噛む。
混乱した人々の声に紛れるように、レクターは「やめろ」と呻いた。
「そもそも金銭で人を買って、『私』を産ませるなんてことが許されるとでも?」
「…………………クレハ、いい加減にしろ」
血走った眼で睨まれる。
けれどその程度で怯むような繊細さは持ち合わせていない。
アトリはあっさりと首を振る。
長い黒髪がさらさらと揺れた。
「払ったものに見合う働きはしてくれた。耐久性が低かったのは残念だったがあれは女として最高だった、と。貴方は『私』の母に対してそう言った」
彼女への侮蔑を忘れるはずがない。
それは娘であるクレハであれば尚更のことだっただろう。
少女の凛とした声が、広い会場に響き渡る。
誰もが息を呑む気配がした。
「いい加減にするのは、貴方だ」
掠れた声で、ヴィオがクレハの名を呼ぶのが聞こえた。
けれどもうその声に振り返りはしない。
アトリが一歩踏み出すと、レクターはよろめくように後ろに下がった。
信じられないもので見るように、彼はアトリを見つめる。
やっと、殴り返してやれた。
流石にここまでのことを公の場で明かされて、何事もなくというのは難しいだろう。
視線を投げた先、フォックスは呆れたような表情で口笛を吹く真似をして見せた。
彼が援護に口を開く瞬間。
視界の隅を、見慣れた色が過ぎる。
「……あ」
気の抜けたような声が唇から漏れた。
立ち尽くす参加者の合間を縫うように、彼はするすると歩を進める。
銀髪の映える暗い色のスーツ。
皆がレクターに集中してさえいなければ、衆目を集めたことだろう。
ユーグレイだ。
彼は違うことなく、真っ直ぐにこちらに踏み込んで来た。
その碧眼は、酷く鋭い。
ここに来てようやくその存在に気付いた誰かが声をあげる。
ユーグレイはアトリには視線を向けもしなかった。
クレハは、彼に何を頼んだ?
殆ど無意識に、アトリはレクターとユーグレイの間に飛び出していた。
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