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6章
8
しおりを挟む「今日の哨戒中に、ロッタさんが大きな影を見たんです」
リンの言葉に、ロッタは口を動かしながらうんうんと頷く。
区画の海で大きな影を見た、となればそれはほぼ確定で人魚である。
稀に海面に映った雲の影を人魚と見間違える新人がいたりするが、ロッタはそこまで経験が浅い訳ではないだろう。
彼女はステッキのようにフォークを軽く振り上げて、「ちょっと引くくらい大きかったんだよ」と付け加えた。
「普通の人魚ならもう襲って来てもおかしくない距離だったんだけどぉ、そのまますぅーっていなくなっちゃって」
ロッタは顔の横にかかった髪を指先で摘んで唇を尖らせた。
態度とは裏腹に、その焦茶色の瞳には重い疲弊が見て取れる。
本来なら襲って来るはずの人魚が姿を消すというのは、正直幸運というより不気味だ。
恐らく急襲を警戒して酷く神経を尖らせたことだろう。
「結局見つからなかったのか?」
「そぉ、報告もして別のペアも警戒してくれてたんだけどその時はぜーんぜん」
それだけで終わったのなら、勘違いしたのだろうと言われてしまっても仕方がないが。
ロッタは言葉を区切って、小さなスープマグを傾けた。
リンがペアの後を引き継いで続ける。
「少ししてから反対側を哨戒中だったペアの方が、同じように大きな影を見たらしくて……。結局そちらも襲撃はされなかったそうなんですが」
人魚と推定される対象の異常行動となれば、この緊張感も理解出来た。
リン曰く、その後は哨戒を延長してやっと交代してきたのだとか。
現場は管理員の指示の元、警戒体制に移行しつつあるのだろう。
状況によっては、今夜か或いは明日にでも臨時で哨戒人員を増やすことなりそうだ。
「あの、こういうのって良くあることですか?」
不安そうに首を傾げるリンに、心配ないと言ってやれないことが少し心苦しい。
ロッタもわかっているのだろう。
いつもの調子で「平気だよぉ」と気軽に請け負ったりはしなかった。
「あんま聞いたことないな。普通に人魚ってんなら襲って来るだろうし、特殊個体なら尚更だろ」
人や防壁への攻撃を優先する特殊個体は、最早意思でもあるのではと思うほどに獲物に対する執着が凄まじい。
探知出来るほどの距離にいたのであれば、二度も襲撃の機会を逃したりはしないだろう。
アトリは無言のまま食事を続けるユーグレイに視線を送った。
彼なら或いは例外に心当たりがあるかもしれないと思ったが、あっさりと首を振られる。
「0地点と同様、人魚も未解析の部分が殆どだ。気を回すだけ時間の無駄だと思うが」
まだ何も起きてはいないのだから鷹揚に構えろと言いたいのだろうが、淡々としたユーグレイの言葉にリンが沈黙する。
アトリは相変わらずの相棒に苦笑した。
「ユーグ、そこはもうちょっと優しく言ってやれよ」
「それを期待するのであれば、僕はやはり黙っていた方が良さそうだな」
「反抗期か、こらー」
涼しい顔で手元の皿を空にしたユーグレイは、アトリを見て「反抗期の自覚はなかった」とふっと笑う。
少なくともそういう顔をしていれば敬遠されるなんてことはないし、リンの態度も少しは和らぎそうな気がするのだが。
ふぇー、と気の抜けるような声を上げたのは彼の隣に座っていたロッタだった。
口に持っていく途中だったフォークからパスタがするりと落ちる。
彼女は何故か少し興奮気味に、片手でぱたぱたと顔を煽いだ。
「ロッタが言うのもどうかと思うけどぉ、ユーグレイってばあからさま過ぎない?」
ねぇ、と同意を求められてアトリは返事に窮する。
何があからさまなのか、問い返して大丈夫だろうか。
ユーグレイに抱かれる以前から距離は大体こんなもので、彼がこうして笑うのも珍しくはない。
ペアで親友なのだから、それはアトリの特権みたいなものだ。
同僚たちも恐らくはそう理解してくれていたはずで。
これまで「仲が良いな」と言われることはあっても、「あからさまだ」と言われたことは一度もなかった。
ロッタはアトリの戸惑いをどう捉えたのか。
やだぁと、ころころ笑った。
「だってぇ全然態度違うもん。ユーグレイって、ほんとアトリさんのこと大好きだよねぇ」
疑問を少しも挟まない口調。
楽しそうにそう言ったロッタは、自身以外の面々が黙り込んだのを見てぱちりと瞬いた。
ロッタさん、とリンが彼女の名を呼ぶ。
咎めるような口調ではなかったが、ロッタは可愛らしく肩を竦めた。
「もぉ、じょーだんなのに」
「でも駄目です」
わかってるわかってると彼女は頷く。
リンはペアの代わりとばかりに、アトリに「すみません」と謝った。
「あの、それで人魚のお話の続きなんですが……」
真面目な彼女らしく、幾つかの質問が続く。
研修の間はよくこうやって質問ぜめにされたものだ。
出来る限りの答えを返してやりながら、ふとロッタの楽しげな囁きを聞く。
それはユーグレイに対する問いかけのようだったが、内容までは聞き取れなかった。
何だろうか。
少女の問いに、ユーグレイはただ黙って首を振った。
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