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6章
14
しおりを挟むそれに実体はないはずだが、石の床に落ちて来た頭部はばちゃりと激しい水音を立てた。
じわりと水溜まりが広がる。
通常相対する人魚より、遥かに大きい。
恐らくは特殊個体と分類されるものだろう。
巨体には不釣り合いな細い手が、異様なほどの力でその躯を支え起こした。
思った以上に、動きが速い。
「クレハっ!」
視線を逸らすのは危険だと思ったが、同時に一刻も早くこれから逃げなければならないと理解してもいた。
アトリは背後を振り返って、もう一度叫ぶ。
廊下で立ち竦んでいた少女は、びくりと跳ねてから弾かれたように走り出した。
同時に駆け出そうとした足が、水浸しになった床で滑る。
体勢を崩して手をつくと、すぐ頭上を人魚の手が掠めていった。
「あっぶなぁ!」
運に恵まれただけの退避は心底心臓に悪い。
アトリは息を呑んでから、クレハが逃げた階段とは反対方向に駆ける。
「アトリ!」
悲鳴のような声。
視界の隅、階段の手前でクレハが立ち止まるのが見えた。
「大丈夫、いいから」
アトリが言い切る前に、少女との間を割るようにそれが突っ込んで来る。
躊躇うように首を振ったクレハの姿は、黒く濡れた人魚に遮られて見えなくなった。
廊下の石壁にぶつかった巨体はぐにゃりと歪んで、突き出した頭部がぐぅっと傾いてアトリに向けられる。
幸い距離はこちらの方が近い。
人魚も最初に獲物として認識した相手に狙いを定めたらしく、クレハを振り返ろうとはしなかった。
「仮にも陸に上がったんならっ、もうちょっと可愛げのある動きしろよ!」
人魚と呼称される割に、水中でなくとも転じる挙動はやはり速い。
軽くぼやくと強張りかけた身体から緊迫感が抜けて行く。
アトリは追って来るそれを確認しながら走り出した。
海に出るか。
いや、万が一海でこれに捕まったら救出してもらえる可能性は極めて低い。
けれどこの個体が人や防壁への攻撃を優先するのであれば、防壁内部に留めておくのはあまりに危険だ。
でも、そもそも。
「っ!」
背を駆けた危機感に、アトリは追跡者に視線をやった。
空気を割くように、細い両手が伸びて来る。
それは確かに獲物を捕らえる動きだが、少し開かれた指先は何故か縋るよう弱々しく見えた。
そうだ。
そもそもこれは結果の見えている逃亡劇である。
相手の方が遥かに強く速い。
その手を打ち払う手段さえ、アトリ一人では用意出来ない。
さて、どうするか。
いつかどうしようもない事態に陥って死ぬのだろうと何となく覚悟はしていても、最後の一瞬まで抵抗はする気でいた。
少なくともユーグレイに、「頑張ったんだけど駄目だった」と笑って言えるくらいでなければ。
やっぱり、死ねない。
「ーーあ」
ふっと白い影が前方に飛び出して来る。
人だ。
当然避けようもなく体当たりをかまして、揃って廊下を転がった。
ばさりと本が落ちる。
談話室から出て来たその人は、尻餅をついてずれた眼鏡を押さえた。
「す、すみません! 大丈夫ですか? あ」
乱れた鳶色の髪。
全く非はないと言うのに咄嗟に謝罪を口にしたラルフは、アトリの顔を見てぱっと明るい表情をして。
それからその背後に迫るものに気付く。
「ラルフさ、ーーーー、ッ!」
説明をしている暇はない。
伸ばされた人魚の手が、アトリの腕を掴んだ。
決して強い力ではなかったのに、指が絡んだところから千切れるのではないかと錯覚するほどの痛みがある。
特殊個体に攻撃をされると傷口は小さくても内部がより大きな損傷を受けると言うが、これは酷い。
何か声をあげるラルフの手を、アトリは無理やり握った。
腕を掴んだそれを振り払うように身体を捻って、目の前に迫った黒い影に指先を向ける。
『い、け!』
ぱっと脳を焼くような閃光が走った。
単純な攻性魔術だったが、威力だけはある。
人魚は黒い水を撒き散らすようにして仰け反った。
廊下を埋めるほどだった巨体は魔術の直撃を受けて大きく抉れ、壁際に吹き飛ぶ。
床に垂れた尾鰭だけは異様な大きさを保っているが、既に末端からどろりと溶け出していた。
「は、あっ、はーー、あ」
肩で息をしながら、アトリは握っていたラルフの手を離した。
同時に腕を掴んでいた人魚の手が、足元に落ちる。
「な、にごと……ですか? えっ? アトリさん、大丈夫、ですか!?」
座り込んだままのラルフの顔は、青白い。
本人は気付いていないようだが、今の一瞬で相当量の魔力を無理やり持っていってしまった。
一緒に死ぬよりは良かっただろうが、当然活動限界に近いだろう。
「すみません。非常事態で、巻き込みました。でも、ラルフさんがここにいなかったらヤバかった。助かりました、ほんと」
そういえばラルフの姿を見て追いかけて来たのをすっかり忘れていた。
彼が門近くの談話室に留まっていてくれたこと、そして魔力持ちであったことが何よりの幸運だった。
アトリも立ち上がれないが、考え得る限り最良の結果と言えるだろう。
「いえ、そんな! お役に立てたのなら、良いのですが……。えっと、これ人魚ですよね? どうして、ここに?」
「………………」
ラルフは這うようにして、アトリの足元に落ちた黒い手に近付く。
同時に防壁内に警報が鳴り響いた。
クレハが知らせてくれたのだろう。
強張った声が、繰り返し人魚の侵入を警告する。
動ける人員はすぐに駆け付けてくれるだろう。
ユーグレイは、いや先に行くなと言ったから来ないか。
アトリはふっと壁際の人魚に目を向ける。
更に少し小さくなった黒い影。
垂れていた尾鰭が、痙攣するように震えた。
「ーーえ」
呆けたようなラルフの声。
瞬間。
喰らいつくように、黒い手が動いた。
無防備な研究員の喉を狙うそれを、アトリは咄嗟に掴む。
抑え切れる気はしない。
魔術でなければどうしようもないと、知っている。
「手を!」
僅かに遅れて差し出されたラルフの手を握って構築した魔術は、殆ど形にならなかった。
魔力が流れて来ない。
魔力がなければ、エルは魔術を作り出せない。
辛うじて人魚の手を弾くことは出来たが、それだけだ。
アトリは奥歯を噛んだ。
ゆらりと黒い手がしなるのが見える。
少しの間もなく。
どん、と重い衝撃があった。
「ぁ、ぐ……」
痛い。
無意識に受け身は取ったようだが、思い切り腹を打たれて息が出来ない。
ひやりと冷たい壁の感触。
アトリは確かめるように手をついて、必死に上体を起こす。
ぼやける視界に黒い影が映り込む。
生きてもいないくせに、律儀に仕返しをしてくれた人魚の躯がすぐ近くにあった。
半分溶けかかったそれは、細い手を伸ばして。
けれど、目の前のアトリには見向きもしない。
何故。
その手の先にいるのは、ラルフだ。
微かに、悲鳴が聞こえた。
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