Arrive 0

黒文鳥

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9章

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 ユーグレイの故郷を発ち、防壁に戻ったのは夜間哨戒が始まる頃合いだった。
 一足先に帰路に着いたカグたちが大まかな報告は済ませているだろう。
 管理員のところに顔を出すのは明日でも良いか、なんてユーグレイと話しながら定期船を降りた。
 ユーグレイの兄が関わっていたこと。
 そして結果的には彼らを見逃したことを伝えれば、多少なりともお咎めはあるだろうが。
 面倒なことは後回しに限る。
 そもそも縁が深いことを理解した上でユーグレイに依頼を回したのだから、これくらいのことは想定していて欲しい。
 一旦部屋に荷物を置いて、第四防壁の食堂へと向かう。
 窓のない閉鎖空間はいつもより少し静かな気がしたが、現場で悪いことがあった時の独特の空気ではなかった。
 或いは食堂で飲み会でも開かれているのかもしれない。
 にしたって誰もいねぇな、と言いかけたアトリは口を噤んだ。
 緩やかに曲線を描く長い廊下の向こう。
 見知った人影が立ち止まるのが見えた。
 シナモン色の長い髪は解かれたまま、レースで縁取られた薄ピンクのワンピースがどこか儚げに見える。
 まあ、中身は儚さとは無縁だと良くわかっていた。
 支給のローブを羽織っていないところを見ると今日は非番か、もしくは早くに哨戒を終えたのだろう。
 
「ロッタ」

 名前を呼ぶと、少女はぱっとこちらに駆け寄って来た。
 管理員がいたら速攻怒られるレベルの全力疾走である。
 ぱたぱたと軽い足音が高い天井に反響する。

「ユーグレイ!」

 ちょっと突拍子もないところのある少女だからと気にも留めなかったが。
 物凄い勢いで眼前まで迫ったロッタは、かつてないほどに真剣な表情で唐突にユーグレイの胸元を掴んだ。
 アトリが止める間もなく、彼女はぶんぶんと首を振った。
 信じられない、と悲鳴のような声が続く。
 
「どぉいうことなの!? 全っ然わかんない!」

 全然わかんないのはこちらである。
 何を言いたいのかはさっぱりだったが、ユーグレイを責めていることだけは確かだった。
 詰め寄られた相棒は心当たりがないらしく、怪訝そうに眉を顰める。
 それでもロッタの手を振り払わない辺り随分と丸くなったものだ。
 
「ロッタ、落ち着けって。何」

「何って、アトリさんは良いの!?」

 飛び火した。
 良いも何もと戸惑う一瞬で、ロッタは我慢の限界に達したらしい。
 掴んだユーグレイの服をぐいぐいと引っ張りながら叫ぶ。

「浮気とか、どぉいうつもり!? 信じられない! ユーグレイってば、アトリさん一筋なんじゃないの!?」

 静寂の中、ロッタが吐き出す荒い息だけが響く。
 アトリとユーグレイは顔を見合わせた。
 理解が追いつかないのだが、そもそも浮気とか。
 
「……浮気ぃ?」

 気の抜けた声でアトリが繰り返すと、ユーグレイは心底不愉快そうな表情で「何の話だ」と額を押さえた。
 そしてようやくロッタの手を軽く払って、彼は苛立ちを抑えるように息を吐く。
 少女はきゅっと唇を噛んでから、有罪だとばかりに「だめ!」と一喝した。

「ロッタなら良いけど、ユーグレイはだめでしょ!? ほんと、そぉいう面白さは二人に求めてない! 無理!」

「ロッタさんも駄目ですよ。浮気なんて」

 冷ややかな声に、ロッタはくるりと背後を振り返る。
 落ち着いた足取りで彼女を追いかけて来たのは、やはりリンだった。
 ロッタとは対照的な黒いワンピースは確かに良く似合っていたが、どことなく不穏な気配を掻き立てる。
 彼女はペアの隣に並ぶと、にこりと微笑んだ。
 いや全く目が笑っていない。
 
「リンちゃぁん……!」

 ロッタは傍らの相方にぎゅうっと抱きつく。
 わざとらしい啜り泣きは流石に嘘だろうが、戯れにこちらを揶揄ってやろうという意図までは感じない。
 何か面倒なことになってんなと思ったのは、ユーグレイも同じだろう。 
 浮気か。
 一線はとうに越えているし好意を伝えてもらってはいるが、アトリとユーグレイは果たして「恋人同士」なのかという根本的な疑問はさておき。
 そもそもユーグレイとは四六時中行動を共にしている。
 恐らくは誰よりアトリが彼の潔白を証明出来た。

「ユーグ、お前そんなろくでもないこと出来たんだな。ちょっと感動したわ」

「…………戯言を鵜呑みにするのであれば、それでも構わない。だが相応の覚悟をしろ。アトリ」

 無論、一瞬で反省した。
 射抜くような視線を向けるユーグレイに、アトリは「ごめん」と早々に謝罪をする。
 このどうしようもない空気を何とかしたかっただけで悪気はなかったんだと、全面降伏の意を込めて軽く両手を挙げた。
 その手をリンがするりと掴む。
 懐かしい華奢な手に引かれると何となく抵抗し辛くはあって、アトリは促されるままに一歩踏み出した。

「リン?」

 にこにこしたままの可愛い後輩は、アトリには返事をせずに「ユーグレイさん」と目線を彼に送る。

「ベア先輩が至急来て欲しいって言ってましたよ。そろそろ防壁に着く頃だろうから探して来てくれって頼まれたんです」

 ユーグレイは無言でリンを見返す。
 今回の出向の件か、或いは。
 じゃあ俺もと言いかけたアトリの手を、リンは強く握りしめる。
 
「アトリさんは、私たちと先に食堂に行きましょう。先輩が呼んでいるの、ユーグレイさんだけですから」

 ね、と小首を傾げたリンに気圧されて、アトリは咄嗟に頷いた。
 抵抗するなら縛り上げて連れて行きますよと言わんばかりなのは、気のせいか。
 気のせいであって欲しい。
 
「リンちゃん、ずぅっとこうなんだよ……? ユーグレイってば責任取ってよぉ!」

 若干本気の泣き言を漏らして、ロッタが顔を覆った。


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