Arrive 0

黒文鳥

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9章

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 予想通り、食堂では盛大な飲み会が開かれていた。
 いつになく盛り上がっているようで、あちこちのテーブルから笑い声やら泣き声が聞こえてくる。
 入り口ですでに酒の匂いを嗅ぎ取れたから相当だ。
 事態を知らなかったらしいリンが「やっぱりやめましょう」と踵を返す前に、顔馴染みの同僚がアトリに気付いて大きく手を振った。

「おう、アトリぃ! ユーグレイのやつに浮気されたんだって? こっち座れよ、奢ってやっからさ」

「……うぇ、これみーんな知ってるやつか」

 これは思った以上に大事である。
 大声で名前を呼ばれた瞬間に、食堂のあちこちから視線が集まるのがわかる。
 同時に慰めの言葉やら叱責、真偽を問う声が一気に飛び交った。
 
「すみません……、こんなことになってるとは思わなくって」

 しゅんと肩を落としたリンに、アトリは苦笑して首を振った。
 ロッタが「むしろユーグレイが一緒の時じゃなくて良かったと思うけどなぁ」と言った通り、遅かれ早かれこうなっていたのなら今で良かったのだ。
 
「悪いけど、ユーグに用が済んだら直接部屋戻れって伝えに行ってもらえるか?」

 その話が真実ではないにしても、当事者であるユーグレイがこの騒ぎに巻き込まれるのは避けたい。
 リンは予想通り嫌そうな顔をしたが、幸いロッタが代わりに頷いてくれた。
 一個貸しだからね、なんて言いつつ食堂を出て行く彼女の背中は、あっという間に見えなくなる。
 まあ、『浮気された側』であるアトリが問い詰められる分にはそう酷いことにはならないだろう。
 
「何でそんな面白い噂が流れてんだよー」
 
 声をかけて来た同僚が席を空けたのが見えた。
 恐らくは一番盛り上がっているテーブルだろう。
 席の真ん中辺りではすでにダウンしたらしい青年が突っ伏していて、端の方では女の子の集団がさめざめと泣きながら互いを慰め合っていた。
 仕方なくそちらに向かいながら、「そもそも俺が『浮気された』ってことに違和感を覚えて欲しいんだけど」とぼやく。
 果たして同僚たちはどういう認識でいたのか。
 
「私、相手がアトリさんだから諦めたんです! なのに酷いですっ!」

 聞き覚えのある声だ。
 肩を震わせて泣いていたのは、先日療養中のユーグレイの元に押しかけて来た少女だった。
 あの時はあまり深く考えずに、周りに乗せられた振りをしてあからさまな牽制などしてしまったが。
 あの様子では、見せつけるようにアトリがユーグレイに口付けをしたことなどとっくに語られた後だろう。
 ほんと、勢いで軽率なことはするもんじゃないな。

「ほら、飲め飲め! こーいう時は飲んで騒いで忘れっちまうのが一番だって!」

 げらげらと笑う同僚の隣に腰を下ろすと、勢い良く背中を叩かれた。
 ぴたりと後をついて来たリンが当然のように傍に座る。
 丁度目の前の席で酔い潰れている誰かの手元から、飲みかけのグラスが回されて来た。
 半分食い荒らされたような大皿の料理がいくつか目の前に押しやられる。
 お行儀の良いことなんて期待していないから別に構わないが、それにしたってあんまりだなとアトリは笑う。
 まあ、防壁ここらしくもあるか。

「そんで? 俺まだユーグの浮気について何も知らないんだけど」

 継ぎ足された発泡酒を飲み込んで、アトリはぱちりと瞬きをした。
 テーブルに突っ伏した青年の隣、目が合ったその人はひらりと手を振る。
 栗色の髪に少し鋭い目元。
 けれど柔和な笑みを浮かべた彼は、ノティスで世話になった現地調査員だった。

「……フォックスさん? 何でこっちに」

「アトリさん、おっひさー。元気そうで何より。そんで唐突だけど先に謝っておくわ。ホントもーしわけない。自分もこんなことになるとは思わなくてサ」
 
「あ、え? いや、嘘だろ。ちょっと待った」

 アトリは腰を浮かせて、目の前で酔い潰れている青年の肩を掴んだ。
 触り心地の良い生地のジャケットはかなり値の張るものだろう。
 よくよく見れば、その整った身なりは随分と浮いている。
 少々荒っぽく彼の身体を揺すると、小麦色の頭がのそりと持ち上がった。
 
「そっとしといてやれよ、アトリ。その坊やはさっき失恋したばっかなんだからさぁ」
 
 すでに関係のなさそうな話題で盛り上がっていた一団から、そう声がかかる。
 フォックスを見ると、彼はひょいと肩を竦めた。
 確定である。

「お知り合いですか? アトリさん」

「や、知り合いってか」

 不思議そうに問いかけるリンに、アトリは曖昧に答える。
 少し乱れた前髪から、真っ赤に充血した明るい茶色の瞳が覗く。
 浴びるように酒を飲んだのだろう。
 ぼんやりと焦点の合わなかったその瞳は、ふらふらと彷徨いながらもアトリを映した。
 重く腫れた瞼は彼が泣きじゃくったであろうことを思わせる。
 ヴィオルム・ハーケン。
 クレハの元婚約者の青年は、あの清々しいまでの自信をどこにやってしまったのか。

「ヴィオ」
 
 『クレハ』として交わした会話の中で、そう呼んでと求められた名が口から滑り落ちた。
 青年はゆっくりと目を見開いて、それから行き倒れの旅人のようにのろのろと手を持ち上げてアトリの腕を掴んだ。
 酒で溶けたような瞳から、不意に大粒の涙が溢れる。

「……クレハ」

 迷いのない呼びかけは、確かにアトリに向けられていた。
 中身がそっくり入れ替わっていたあの時とは違う。
 彼女と似ているところなんて髪の色くらいなものだ。

「いや……、違ぇけど」

「やっと、会えた。良かった、クレハ」

「だから、他人の話は聞けっつの」

 どんだけ飲んだんだよ、とアトリはヴィオルムの頭を軽く叩いた。
 この至近距離でアトリとクレハを見間違うとかどうかしている。
 彼は何故か嬉しそうに笑った。

「ほら、やっぱり君だ。クレハ、もう大丈夫だから、私と」

 帰ろう、という言葉は穏やかな寝息に溶けて殆ど聞き取れなかった。
 再びテーブルに突っ伏した青年に、アトリは深く溜息を吐く。
 フォックスとヴィオルムの来訪。
 ユーグレイの『浮気』。
 ああ、なるほど。
 
「つまりは、こういう訳でサ」

 フォックスは完全に寝落ちた青年を「やれやれ」とばかりに見遣ってから、読み古された薄い雑誌をテーブルの上で開いた。
 婚約、聖女、駆け落ち。
 ゴシップらしい言葉に彩られた写真付きの記事。
 長い黒髪の少女が、銀髪の青年に抱き締められていた。



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