Arrive 0

黒文鳥

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9章

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 そうかと言いつつ、ユーグレイはパンの最後の切れ端を口に放り込んだ。
 騒ぎに巻き込まれない代わりに夕飯抜きでは流石に可哀想だろうと、アトリが食堂で買って来たものである。
 もっとありがたく食べろよ、とぼやくと彼は少し不機嫌そうに眉を寄せた。
 リンの助けもあってようやく飲み会を抜け出して自室に戻ったが、時刻はすでに深夜に程近い。

「それで君、飲んで来たのか」

「好きで飲んで来た訳じゃねぇっつの」

 この状況でのんびり飲み会を楽しんで来たと思われるのは心外である。
 そもそもノティスでの一件はアトリが大半悪かった。
 責任は、十分感じている。
 あの婚約発表の場で『クレハ』がアトリだと気付いたユーグレイに抱き締められ、それを招待されていた記者たちに撮られた。
 当然それは記事になり、クレハを追って来たヴィオルムによって防壁に持ち込まれてこの騒動である。
 彼女と話をしたいと懇願されて仕方なく青年を連れて来たフォックスも、流石にこんなことになるとは予想もしなかっただろう。
 浮気という言い方が正しいかはさておき。

「この写真じゃ、確かに良い仲だろーな」

 フォックスから貰った例の雑誌を捲って、アトリはテーブルに頬杖をついた。
 ソファに腰掛けたユーグレイは、自身の写真が載っているというのにあまり興味がなさそうだ。
 少女を連れ帰るための演技だとしても、ユーグレイがこんな風に他人を抱き締めるなんてありえない。
 そう断言したのは彼に好意を寄せる女性陣だ。
 黒髪の少女を抱き込むユーグレイの後ろ姿。
 手放すことを恐れるようにその腕に力が籠っているのがわかる。
 切り取られた一瞬は、確かに言い訳のしようもないほどに切迫した感情に彩られていた。
 
「ただでさえ大変だろーに、これクレハになんて謝んだよ」

 アトリはこめかみを押さえて、雑誌を閉じた。
 管理員たちとフォックス立ち会いの元、ヴィオルムは早々にクレハと再会を果たしたそうだ。
 フォックス曰くそれは十分にも満たない時間で、一方的に青年が話をしてクレハは相槌さえ時折ないほどに無反応だったという。
 帰らない。
 もう会わない。
 結局クレハがヴィオルムに向けて口にしたのはそれだけで。
 手酷く振られる形になった青年が、この世の終わりとばかりに落ち込むのも仕方のないことだった。
 そしてこんな面白い話を前に騒がずにいられないのが、カンディードの面々だ。
 居ても立っても居られなかった数名が、その後クレハに雑誌を見せて真偽を問いただしたなんて言うから相当である。
 これ私じゃない、と即答されたらしいが、事情を知らない人々からすれば苦し紛れの言い訳にしか聞こえなかったのだろう。
 寧ろますます怪しいと記事の信憑性が高まった可能性すらある。

「別に気にしていないと言っていたが」

 しれっとそう言ったユーグレイは、アトリが事の次第を話し終えても落ち着いたものだった。
 管理員の呼び出しも要はその話だったのだろう。
 
「クレハに会ったん?」

 ああ、と頷いたユーグレイはカップの水を一気に飲み干した。
 機嫌が悪いというよりは、少し考え込むような表情でアトリを見る。

「クレハも同席の上で話があった。しばらくの間、彼女の警護について欲しいそうだ」

「ん、確かに誰か付いてた方が安心か。ユーグが側にいればヴィオも諦めつくだろうし、ちょっかい出したがる連中もそうそう下手なこと出来ねぇだろ」

「……それだけではないが」

 それ以上に何があるのか。
 首を傾げたアトリに、ユーグレイは「いや」と言葉を濁した。
 
「彼女の警護には僕がつく。アトリ、君にはあの元婚約者の様子を見ていて欲しいとのことだ。常に張り付く必要はない。あくまで何か異変がないかだけ気にかけていれば良いそうだが、頼めるか?」

「もちろん」 
 
 相手が青年一人であれば警護はユーグレイだけで事足りるだろう。
 寧ろユーグレイとクレハであれば、人魚相手でも余裕で対処出来るに違いない。
 アトリとしては断る理由もなかった。
 何にしたってヴィオルムの様子は見ようと思っていたから、丁度良いのかもしれない。
 もう一回同じことを『クレハ』に伝えて欲しいと言ったのは、アトリだ。
 彼はきっとその言葉を頼りにこんなところまで来たのだろう。
 せめて愚痴を聞く役回りくらいさせてもらうべきだ。
 了解、と軽く請け負うと相棒は明確に顔を顰めた。

「あまり入れ込むなよ」

「んな心配しなくても、こっそりクレハと会わせるようなことはしねぇって」

 まあ悪いとは思っているが、アトリとしては根本的にクレハの味方である。
 ヴィオルムの事情は理解しているものの、クレハが「もう会わない」と言っている以上二人を接触させるつもりはなかった。
 ユーグレイは無言のまま小さく溜息を吐く。
 アトリは頬杖をついたまま苦笑する。
 嫌なら断ってくれば良かったのに、と言うと彼はソファの背凭れに寄りかかって首を振った。

「……兄の件も、報告を済ませて来た」

「ん? ああ、そっか。一緒に怒られに行くつもりだったけど、悪いな」

 ユーグレイとしては「巻き込んだ」という認識が強いのかもしれない。
 既に報告済みだと言うのであれば、それ以上アトリがとやかく言うことではないだろう。
 しかし少し話が逸れたのは何故だろうか。
 アトリ、と呼ばれて素直に彼の隣に座る。
 ユーグレイは苦い顔で、微かに笑った。

「護衛と監視を引き受けてくれれば、それで不問だそうだ。些か納得は行かなかったが、あの管理員に頭を下げられるとどうもな」

「あ、そゆこと。先輩って時々質悪りぃんだよな」

 してやられた感はあるが、ベアに頼まれたのであればもう仕方がない。
 幸い先の一件に比べれば大した仕事ではなさそうだ。
 ヴィオルムがいつまで防壁に滞在する気なのかはわからないが、魔術の撃ち合いをするような事態にはならないだろう。
 ユーグレイもわかっているはずだ。
 不意にその指先が、アトリのうなじに触れた。
 
「……防壁に帰還したというのに、別行動とはな」

 銀髪が頬にかかって薄い影を作る。
 見慣れた碧眼を見返して、アトリはゆっくりと息を吐いた。
 本当に。
 『浮気』なんて言葉とは対極にいるようなやつだ。
 後頭部に回された手。
 当たり前のように引き寄せられて、アトリは目を閉じた。


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