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9章
8
他愛のない話をしながら、どれくらい経っただろうか。
多少暗闇に慣れて来たとは言え、動き回って暇が潰せる訳でもない。
傍に大人しく座り込んだヴィオルムが、この状況にパニックを起こしたり苛立ったりしていないのは幸いだった。
ちょっと眠くなって来たな、とアトリは背後の壁に寄りかかった。
「それで?」
「それで、こっちに来て、しばらく基礎教育受けてから研修して……」
アトリがどうしてカンディードに来たのか、なんて興味があるのだろうか。
問われるまま簡単に説明をしたがヴィオルムの表情が見えないせいもあって、何故こんな話をしているのか良くわからなくなる。
思えば真っ先に話題に上がりそうな少女の名は、この空間に閉じ込められてから一度も聞いていなかった。
セナの忠告が響いているのか。
或いは、クレハの母親と同郷かもしれないという話が気にかかるのかもしれない。
「ふぅん、じゃあ自分で志願してここに来たって訳でもないんだね。正直なところ、仕事はどうなの?」
「どうってまあ楽ではないけどそれなりの給料はもらってるし、ここの連中気の良いやつ多いし。悪くはないんじゃねぇかな」
アトリは片膝を抱えるようにして目を閉じた。
瞼の裏の暗闇は少しだけ深いが、それでも一瞬自身がちゃんと目を閉じたのかわからなくて不安になった。
0地点もこんな風に暗いのだろうか。
ふとそんなことを思って、アトリは苦笑する。
ユーグレイが聞いたら、観測が出来ないだけで「何もない」と想定するのは早計だとか言いそうだ。
「ユーグレイ」
「ーーーーえ?」
ヴィオルムの口から唐突に彼の名が飛び出して、反応が遅れる。
青年は身動ぎをしてこちらに身体を向けたようだった。
「ユーグレイってやつと仕事をしているんだろう? 彼女を、クレハを連れて行ったやつだ。違う?」
「そう、だけど」
雑誌を持ち込んだのがヴィオルムであれば、防壁に来てその名前を知ることくらいは容易いだろう。
アトリがユーグレイのペアであることも、まあ同様か。
そもそもつい先程、激昂した少年がユーグレイの名前を口にしていた気もする。
「今はクレハの側にいるんだろうね、そいつは」
「……ヴィオ」
当然良い感情は持っていないと理解は出来るが、何の非もないユーグレイをいつもの調子で非難されたらアトリは多分黙ってはいられない。
ただこの状況で口論はしたくなくて、制止の意を込めて青年の名を呼んだ。
ヴィオルムはそれを察したようではあった。
けれど彼は、言葉を飲み込まなかった。
「ここの『ペア』って制度がどんなものかよく知らないけど、君今後は大丈夫かい?」
「……大丈夫って、何が?」
予想とは違う問いかけに戸惑う。
この話の中心は、少なくともクレハではない。
何が言いたいんだ。
「クレハと君とじゃ、能力に随分な差がありそうだからね。契約破棄されるんじゃないかなって話だよ」
ああ、そういう。
確かにクレハであれば、ユーグレイのペアに相応しくはあるのだろうが。
アトリはこっそりと溜息を吐いた。
「さぁ、どうだろ。二人がそうしたいってんなら、俺がとやかく言える話じゃないしな。ペアが解消されたらお役御免ってすぐ放り出されるような組織でもない。そーなったら、適当に次の仕事を探すよ」
実際そういう騒動になりかけたことを思い返して、アトリは軽く頭を振った。
あの時はあんなに必死になってユーグレイから逃げたのに。
ペアを解消されてしまったらなんて考えるのは、ちょっとしんどい。
「そうか。それなら、君、私と一緒に来ないか?」
「は?」
「だから、君を雇ってあげるって言っているんだよ。丁度信頼出来る秘書が一人欲しいと思っていたところだったんだ」
不意に伸ばされたヴィオルムの手が、アトリの腕に触れた。
その手は何の躊躇いもなく肩に置かれ、引き寄せるように僅かに力が籠る。
青年の気配は酷く近い。
その感情は親愛だけだろうとは思う。
それでも拒否感はあった。
「近い。ヴィオ」
「いいじゃないか、別に。友人同士ならこれくらい普通じゃないのかい?」
「否定はしねぇけど、『友人』が嫌がってたらやめとけよ」
肩を掴んだ手を払おうとしたが、ヴィオルムは身体を寄せるようにしてアトリの動きを遮る。
微かに震えるような息が首元にかかった。
反射的に立ち上がろうとして、縋るような青年の手がそれを阻んだ。
逃げた方が良い、と本能が訴える。
何を考えているのかはわからないが、この距離を許した相手ではない。
「…………君が、一緒に来てくれるのなら、私はクレハを諦めても良い」
絞り出すような声。
待て。
いや、ちょっと待って欲しい。
そこまでの価値を、アトリのどこに見出したと言うのだろうか。
手っ取り早く突き飛ばして距離を取ってやり過ごそうと思ったのに、咄嗟に思考が止まる。
「それは、随分熱烈だけど。まず離れろ、ヴィオ。そーいうのは、マナー違反だって前にも言っ……」
停滞した暗闇の中、痛いほどの緊張感が走った。
言っていない。
そうだ、そう言ったのは。
「同じことを、『クレハ』に言われたよ」
感情を押し殺したような、低い声だった。
肩に置かれていた彼の手が、急にアトリの襟首を掴む。
逃れようと捩った身体を、青年が夢中で押さえ込んで来た。
見えていたら、違っただろうか。
逃げるならもっと早くに動くべきだった。
「い、ッ!」
不安定な体勢のまま手首を急に捻られて、アトリは息を呑んだ。
ヴィオルムはその一瞬にも力を緩めなかった。
床に押し倒されて、強かに後頭部を打ちつける。
痛い。
まあ、それどころじゃ、ないか。
「お前っ、いい加減、に……?」
ぱたり、とあたたかい水滴が頬に落ちて来た。
堪えるような呼吸。
容赦なくアトリを押さえつけたヴィオルムの身体は、小刻みに震えている。
泣いているのか。
ああ、全く何だって言うのだろう。
「…………逃げないから、まず手を離せ、ヴィオ。痛い」
捻られた手首を少し動かすと、彼は言われた通りに力を緩める。
それでもアトリの胸元を掴んだ手には、頑なに力が入ったままだ。
「君は、『誰』なんだ?」
ヴィオルムは途方に暮れたように、ぽつりとそう言った。
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