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9章
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しおりを挟む「……誰って、また酔ってんの?」
手を伸ばして触れたのは、ヴィオルムの肩だ。
宥めるように軽く叩くと、彼は詰めていた息を吐き出した。
殴られはしないと思いたいが結局拘束は緩まない。
誰なんだと問う意味を考えれば、当然か。
いや、あの時の事態を察したとは思えないけれど。
「最初は雰囲気が似ているだけだと思ったんだ。でも、そうじゃない。こうして話していると、君はあまりに『クレハ』のままだ」
動揺か苛立ちか、押し殺すような声は次第に鮮明になる。
覚悟を決めたように、ヴィオルムは「君は『誰』だ?」と繰り返した。
その顔が、眼が、闇に紛れていて良かった。
アトリは小さく息を飲み込む。
「俺は『俺』以外の何者でもない。それともお前、俺がクレハに見えんのか? 冗談キツイな、それ」
「………………見えない。けれど、目に見えるものだけに囚われるなと言われた意味が、今ならわかるよ」
首元を掴んでいたヴィオルムの手が確かめるようにアトリの胸を撫でた。
拒絶の言葉を噛み殺したのは、そこに他意がないと信じたからだった。
残念ながら彼が触れているのは、華奢な少女の身体ではない。
決して恵まれた体格をしている訳ではないが、明確に同性だと理解はしてもらえただろう。
「もういいだろ、お坊ちゃん」
「ヴィオと呼んでと、言ったはずだけど」
その許可を得たのは『クレハ』だったはずだ。
ただの愛称だろうと、アトリとしても気にせず使ったのはまずかったらしい。
けれどまさか、アトリと『クレハ』を結びつけることなんてしないだろうと思ったのだ。
どうしようか。
悪いやつではないとわかってはいるが、彼の立場を考えるとアトリの魔術が異常なものであることは伏せておきたい。
「……んじゃ、ヴィオ。結局お前はどーしたら満足なわけ? 悪いけど俺、正真正銘男だし『クレハ』の代わりはしてやれねぇよ?」
彼の肩を少し押して、アトリは片膝を立てた。
苦しいほどの密着感は薄れるが手首は掴まれたままだ。
彼にそのつもりはなかっただろうが、変な風に捻られた所為だろう。
やはり少し痛い。
「返事を、まだ聞いていない」
「返事?」
ヴィオルムは一瞬言い淀んで、それから「私と一緒に来て欲しい」とはっきり口にした。
少し語尾が震えたのは、緊張からだろうか。
まるで告白のようだ。
ああいや、ある意味告白なんだろう。
「気持ちは嬉しいけど」
アトリは触れていた彼の肩から手を離した。
「お前と一緒には、行かない」
ふっと青年が息を吐いた。
胸元に置かれていた手から力が抜けるのがわかる。
「こんなところで、命を賭けて仕事をする必要はなくなるよ? 給料だって今の倍は出そう。悪い話じゃないよね」
「好条件過ぎて逆に怖ぇな。買い被りすぎじゃねぇの? 俺に、お前の仕事の手伝いが出来るとは思わないけどな」
「どんな対価を払ってでも、好ましい相手を近くに置いておきたいと思うのは当然じゃないかい?」
ヴィオルムは平然とそう言った。
「好意を抱く相手に性別も年齢も、何なら種族だって関係はないよ。そうだろう? アトリ」
「…………お前、そーいう意味で一緒に来いっつったの?」
微かに青年が笑う気配がする。
どうだろう。
少なくとも、ヴィオルムの触れ方にあの独特の熱は感じられなかったけれど。
「ねえ、アトリ。私たちはきっととても上手くやっていけると思うんだ。こうやって君を見つけたんだから、やっぱり運命じゃないかな? 私たちは」
「他人の話を聞こうな、ヴィオ。質の悪いふざけかたして、痛い目見ても知らねぇよ」
やはり最後のは冗談だったらしい。
ヴィオルムは声を上げて笑うと、探るようにしてアトリのこめかみに触れた。
ユーグレイとは違う指先。
「結局、私が失恋したってことに、変わりはないようだね」
慰めるつもりはなかった。
どうあれアトリはヴィオルムの希望に応えられない。
友人としても、或いは別の立場としても。
隣にいたいと思うのは、ただ一人だけだ。
ごめん、とだけ発した言葉は、何か重い物が倒れるような鈍い音に掻き消された。
上からだ。
「ーーーーあ」
視界が痛いほどの白に染まった。
待ちに待ったはずの救援。
待て、でも。
この状況を見て、彼はどう思うだろうか。
ざりと床を擦る靴音。
凍りつくような鋭い気配が一気に向かって来る。
咄嗟のことに動けないヴィオルムの身体を、アトリが押し除ける前に。
飛び込んで来たユーグレイが青年を壁に叩きつけるのが見えた。
「っ、待て! 待ってってば! ユーグ!」
ようやく拘束を逃れた身体は、腹立たしいほどに反応が鈍かった。
目の前で翻った灰色のローブをアトリは夢中で掴む。
それは確かに湿っていて、ひやりとした疑問が喉元まで出かかった。
違う。
今は、それどころではない。
やっと安定して来た視界。
壁際で後頭部を押さえて呻くヴィオルムに、ユーグレイが一歩近付く。
「ユーグ! 違う、やめろ!」
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