Arrive 0

黒文鳥

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9章

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 そんなに怒ることはない。
 諸々ちょっとした出来事の積み重ねで起きたことだし、この青年だって別にアトリを傷つけようとしていた訳ではない。
 不可抗力だったとは言え、最初に彼を騙すようなことをしたのはアトリだ。
 そんな容赦なく無力化なんてするほどのことでは。

「な……、き、みッ!」

 顔を上げたヴィオルムは、目の前に立っているのが誰か正しく理解したようだった。
 明るい茶色の瞳に鋭い敵意が浮かぶ。
 ふらつきながらも壁に手をついて立ち上がった彼に、ユーグレイは何も言わなかった。
 その手が何の躊躇いもなく腰の銀剣に触れる。
 同僚相手ならともかく、ヴィオルムはノティスから来た客人だ。
 牽制などでは済まない。
 それを抜けば面倒なことになると、ユーグレイだってわかっているだろうに。
 そんなにか。

「やめろっつってんだろ! ユーグ!」

 銀剣に触れていたユーグレイの手を掴んで強く引く。
 ようやく振り返った彼は、アトリを見て唇を噛んだ。
 その面差しには決して穏やかではない感情が色濃く浮かんでいる。
 飲み込んだ一呼吸が、心臓を掴むような感覚があった。
 一体どれくらいここに閉じ込められていたのだろうか。
 ユーグレイが欠片も心配をしないなんて、そんなことはないと知っていたはずだ。
 少し乱れた銀髪が微かに揺れている。
 ここまで、走って来たのだろう。
 そんなに。
 
「何も、なかった。大丈夫だから、落ち着け。ユーグ」

「…………何もなかったようには見えなかったが?」

 問い返すユーグレイの声には温度がない。
 アトリは首を振った。
 
「真っ暗だったから、ちょっと事故っただけだって。だから、怖い顔すんな」

 そんなに心配してくれなくても大丈夫だと、わかって欲しかった。
 そもそも多少の理不尽や暴力なんて今更どうということもない。
 ああ、でも。
 そういうことじゃ、ないんだろうな。
 
「嘘は、吐いていないな?」

 見慣れた碧眼を見返して、アトリは一瞬躊躇する。
 それでも銀剣にまで手を伸ばしたユーグレイを前に、頷く以外の選択肢はなかった。
 少なくともアトリに、ヴィオルムに「何かされた」という認識はない。
 状況を説明するよりこの場を収めるのが先だろう。
 
「嘘じゃない。もう、良いだろ? ユーグ」
 
 ヴィオルムから遠ざけるように、ユーグレイの手を引いて促す。
 正直今日はもうこれ以上の騒動は勘弁願いたい。
 幸いユーグレイは抵抗する様子もなく踵を返した。
 少し冷たい指先が、アトリの指を絡め取る。
 怒っているだろうとわかっているのに、その体温に驚くほどの安堵を覚えた。
 
「ま、待てよ! 君!」

 追い縋るヴィオルムの声。
 反射的に振り返ろうとしたアトリの肩を、ユーグレイが押さえた。
 おい、と文句を言いかけるとその手に力が入るのがわかる。
 至近距離で見上げた相棒は、射抜くような視線を背後に向けた。
 確かに息を飲む気配がしたが、青年の声は怯むことなく続く。

「君は、クレハを連れて行った! 彼女を想って、彼女の手を取ったのなら、そうやってアトリに触れるのは不誠実だろう!」

 アトリ、とヴィオルムに呼ばれる。
 騙されるなと言いたげな響きに、アトリは咄嗟に何も言えない。
 あの時ユーグレイが抱きしめた少女が正しくクレハであれば、その通りだと頷くことが出来るのだが。
 いや、もう何から話したら良いんだ。
 アトリは額を押さえて項垂れた。
 
「違う。そもそも、ユーグとクレハはそういう関係じゃなくて」

「そうやって言い包められたんだろう? アトリ。でも私は確かに、あのパーティーで見たんだよ!」
 
「ヴィオ、だから話を、ーーっ!」

 不意にユーグレイの手のひらが、アトリの口を塞いだ。
 苦しいほどではないが、有無を言わさぬ圧力がある。
 反抗する間もない。
 何の話か知らないが、とユーグレイは酷く冷ややかに言い捨てる。

「僕が欲しいと望んで触れた相手は、ただ一人だけだ」

 その言い方はちょっとあからさま過ぎやしないか。
 口を押さえるユーグレイの手首を掴むと、抵抗を封じるように腰を抱き込まれる。
 ちょっと待て。
 最早これはわざとだろう。

「悪いがこれ以上話をする気も、話をさせる気もない。それでもと言うのであれば、それなりの覚悟はしてもらおう」

 脅しではないだろう。
 鋭利な言葉が息苦しい空間に響き渡る。
 ヴィオルムは何か言いかけたようではあった。
 その表情は、アトリからは窺えない。
 僅かな沈黙。
 ユーグレイは青年を一瞥して、歩き出した。
 口を覆っていた手は離れて行ったが、腰を抱き寄せた手はそのまま。
 とはいえこれは連行に近いな、とアトリは大人しく口を噤む。
 ユーグレイが振り返る様子もないところを見ると、ヴィオルムは退く選択をしてくれたようだった。
 こればかりは彼が悪い訳ではない。
 出来ればそう伝えておきたかったが、それがまた火種になりそうなことくらいはアトリも理解していた。
 今この瞬間は無理でも、いずれ話をする機会くらいはあるだろう。
 開け放たれた扉に続く、古い梯子。
 他人の心配より自分の心配をするべきか。
 追い立てられるようにそれを登って、アトリは溜息を吐いた。
 


 
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