Arrive 0

黒文鳥

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10章

6


 振り返る一瞬、自身がどう見えるだろうかと考える。
 手術着一枚で靴も履いていない。
 きっとお世辞にも体調が良いようには見えないだろう。
 素知らぬ顔で通り過ぎるには条件が悪過ぎる。
 相手の出方次第だが、問いかけを無視して逃げるのは悪手だと思った。
 静かに視線を向けた先、白衣の青年が二人近付いて来るのが見えた。

「え、大丈夫? 君」

 やや大柄な方の青年が、心配そうに眉を寄せる。
 もう一人は自分の顎を撫でながら「迷子?」と首を傾げた。
 少なくとも、問答無用で拘束はされなさそうだ。
 アトリは小さく頷く。
 
「ちょっと、気分が悪くて……、風に当たりたいんですけど」

「ああ、もしかしてC棟の実験参加者かな? 今回結構ハードだって聞いているよ」

 C棟の実験とやらがラルフのそれに当たるのかはわからないが、あれを「結構ハード」の一言で済ませられるかは甚だ疑問だ。
 幸い青年たちはアトリの返答に疑問を抱くことはなかったらしい。
 何か納得した様に頷いた二人は、けれど顔を見合わせる。

「外の空気を吸うなら中庭が良いだろうけど、今はやめておいた方が良い。向かいのA棟、騒ぎになってるみたいだから」

「騒ぎ?」

「カンディードの構成員たちが、仲間が監禁されているなんて言って押しかけて来たらしい。まだ魔術を行使して暴れているなんて話は入ってないけど、彼らがどう出るかわからないからね」

 カンディードの構成員が、来ている。
 ふっと張り詰めていたものが緩むのがわかった。
 青年たちは目の前にいる人物が「監禁されている仲間」だとは思いもしないようだ。
 この様子なら、皆一様にラルフの協力者という訳ではなさそうである。
 酷い言いがかりだと憤慨する彼らには悪いが、事情を説明してA棟とやらに連れて行ってももらうのも有りだろうか。
 あの、と言いかけた瞬間、身体の奥に鋭い疼痛が突き刺さった。
 またか。
 咄嗟に声こそ堪えたものの、腹部を庇うように背を丸めたまま身動きが取れない。
 下腹部の布地をぎゅうっと握り締めたアトリに、青年が「大丈夫?」と繰り返した。

「そもそも君さ、そんな格好で外に出たら体調が悪化するよ。少し横になった方が良いんじゃない? 僕らの研究室、すぐそこだから」

 呼吸の度に微かに震えるアトリの背中を、彼は労わるように撫でた。
 薄い手術着越しの手の感触に、さっと血の気が引く。
 落ち着け。
 過剰反応だ。
 そう理解はしているのに、異常なほどの拒否感を押し殺せない。
 嫌だ。
 思わず身を捩るようにしてその手から逃れると、驚いたような表情の青年と目が合った。
 すみません、と謝ることが出来たかはわからない。
 吸い込んだ息が喉の奥に詰まっているような苦しさがある。
 ああ、まずいな。
 
「おや、こんなところにいた」
 
 友人のように気安い声が、廊下に響き渡った。
 振り返ると、白金の髪の男が小走りに駆け寄って来てアトリの肩を叩く。
 深い海のような瞳。
 どこか懐かしい面影の漂う彼は「探したよ」と笑う。
 鉛を飲み込んだような苦しさを忘れて、アトリは思わず瞬いた。
 彼は。

「……リューイ、さ」

「いや、君たち悪かったね」

 アトリの言葉を遮るように、彼は青年たちに軽く謝る。
 間違えようもない。
 リューイ・フレンシッド。
 ユーグレイの兄が、どうしてここに。
 いや、そういえばユーグレイの故郷での一件のあと研究院に身を寄せると言っていたか。
 じゃあやはりここは皇国の研究院なのだろう。
 事態は好転しているのか、悪化しているのか。
 アトリは傍に立ったその人の横顔を見上げる。
 リューイは青年たちと少し言葉を交わすと、アトリの肩を押して「行こうか」と促す。
 お大事にと案ずるような声をかけられ、深く頭を下げて彼らとすれ違った。
 少し先を行くリューイの靴音が響く。
 羽織った白衣はまだ新しいように見えた。
 相変わらず変わり映えのしない長い廊下を進みながら、アトリはようやく口を開く。
 
「あ、の」

「待った。色々と聞きたいことはあるだろうけど、君はそれどころじゃないだろう?」

 リューイ・フレンシッドとの関係は、複雑だ。
 敵対関係ではあったのだろうが、彼に命を狙われたという訳でもない。
 助けてくれたのか。
 或いは。
 
「カレンたちからの報告で、多少のことは知っているよ。とはいえ、助けに入るつもりはなかった。ただの気紛れだ」

 リューイは足を止めて、アトリを振り返った。
 白い照明に照らされた廊下の突き当たり。
 地下へと続く階段の隣に、両開きの大きな扉がある。
 やや斜めに下る床には泥落としのマットが敷かれていて、近くの壁に「開放厳禁」と張り紙がしてあった。
 この先は、中庭か。
 
「ここを突っ切ればA棟だから、早く行くと良い。正面切って乗り込んで来た君の同僚は、恐らく陽動だろう。ユーグレイはこちらに向かっているはずだから、上手くすればすぐ合流出来るさ」

 リューイは羽織っていた白衣を脱ぐと、押し付けるようにアトリに手渡した。
 
「外は冷える。着て行くと良い」

「……どうも」

 アトリは少し大きなそれに袖を通すと、僅かに躊躇した。
 この人は故郷での騒ぎの時も、結局ユーグレイと顔を合わせていない。
 一緒には、来ないのか。
 目が合うと、リューイは肩を竦めて苦笑した。

「君が巻き込まれた何かがもし0地点研究の発展に関わることなら、ありがたく君を犠牲にさせてもらおうと思ったんだけどね」

「じゃ、何で」

 彼は鍵を開けて、扉を押し開けた。
 身を切るような冷たい風。
 夜の匂いがする。
 リューイの柔らかな白金の髪が、はらはらと揺れた。

「今の君は、ただの無力な人間に見える。抗えない何かにあっさり飲み込まれて消え去る、そういうものにね。ほら、さっさと行きなさい」

 彼はただ静かにそう言って、惜別の言葉もなくアトリに背を向けた。


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