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10章
7
中庭に吹き込む夜風は、酷く冷たかった。
外灯に照らされる樹木が微かに揺れている。
四方を施設棟に囲まれたそこは、低木の植え込みと葉の落ちかけた木々で少し鬱蒼としていた。
ざらりとした感触の石畳のタイルが地面のほぼ全面を覆っていて、庭の中央には向かい合うようにベンチが置かれている。
からからと音を立てる枯葉を踏みながら、アトリは真向かいの建物を目指した。
これ以上ないほどに気は急いていたが、身体は重く次第に息が上がるのがわかる。
「……はぁ、っ」
足がもつれるような感覚があって、アトリは仕方なく植え込みの影に蹲み込んだ。
このまま目を閉じたら、あっという間に意識が溶けそうだ。
額を押さえて、足元に視線を落とす。
地面を擦る白衣の裾。
暗がりでもそうとわかるほど、素足の爪は色を失って青白い。
しんどいな、とアトリは息を吐き出した。
大した距離でもないのに途方もなく遠い場所を目指しているような、淡い絶望感がある。
振り返ると出て来た扉を照らすライトが微かに見えた。
確信のない不安に鼓動が早くなる。
追ってくる人は誰もいないのに、一刻も早くここを離れなければいけない気がした。
無理やり足に力を入れて立ち上げると、緩やかに上がった視線の先で何かが動く。
向かいの棟の扉が細く開かれる。
柔らかな照明を厭うようにすぐ木立の影へと滑り込む人影。
目的の建物から出て来たその人は、気配を察したように不意に立ち止まる。
声は出なかった。
弾かれるように駆け出すと、彼はすぐにアトリに気付いたようだった。
少し乱れた銀髪に、真っ直ぐにこちらに向けられる碧眼。
間違えたりは、しない。
ユーグレイ。
「アトリっ!!」
あまりに悲痛な声で名前を呼ばれて、胸が痛い。
ユーグと応える前に、駆けて来た彼の手が身体に触れた。
引き寄せられる一瞬、泣きそうなほどに歪んだユーグレイの顔が見える。
ああ、本当に、ごめん。
「……アトリ」
後頭部に回された手が震えている。
ぎゅうっと痛いほどに抱きしめられて、アトリも夢中で彼の背に手を回した。
他の、誰でもない。
ユーグレイだ。
アトリ、と耳元で何度も名を呼ばれる。
聞いたことのない、追い詰められたような声。
大丈夫だといつものように笑ってやらなくては。
やっぱり来てくれたんだなと、明るく言ってやらなくては。
「……っ、ーーーー」
それなのに言葉は何も出て来ない。
ユーグレイの首筋に額を押し当てて、アトリは目を瞑った。
彼はアトリを抱いたまま、力を抜くように石畳に膝をつく。
そっと肩を押されて、触れていた肌が少し遠くなる。
まだ抱きしめていて欲しくて、アトリはユーグレイのコートを掴んだ。
頬に触れた手に擦り寄ると、未だ張り詰めた空気を纏った彼の唇が降って来る。
冷えた唇は、やはり震えていた。
もっと。
もっと何もかも塗り潰すようにして欲しかったが、優しく重ねられた唇はすぐに離れていってしまう。
「アトリ……、僕が、わかるな?」
返事を、と続けたユーグレイにアトリは小さく息を呑む。
そんな顔をしなくて良い。
悔恨の滲むその目元をアトリはそっと撫でて頷いた。
ほら。
こうしてちゃんと彼の元に戻れたのだから、本当に、何てことはなかったんだと。
ちゃんと伝えなくては。
「ユーグ」
絹糸のような銀の髪に指を絡めて、アトリは笑う。
「わかるよ。悪い、心配、かけた」
絞り出す声が震えないように、ゆっくりとそう答える。
ユーグレイは微かに安堵したように表情を緩めた。
そうして彼は弱く首を振って「すまない」と謝る。
「遅く、なった」
「遅くないって。来てくれて助かった、ユーグ。ありがと、な」
頬に触れていたユーグレイの手が首筋に落ちていく。
ただ、心地良い。
彼は自身のコートを脱ぐと、それをアトリの背にかけた。
その腰には銀剣が下げられている。
どれだけの覚悟をして、彼はここまで来たのだろうか。
「怪我は?」
「……ん、擦り傷はあるけど大したことねぇよ」
じゃなきゃここまで来れないって、と苦笑すると多少の信憑性はあったようだ。
或いは、本当かと聞き返す余裕がないだけかもしれない。
アトリの背後を睨んで、ユーグレイは「追手は?」と問う。
「追われては、ないと思う。何でか、知らない……けど」
そうだ。
ここまで来て、ラルフはまだ姿を見せない。
結局もう諦めてくれたのだろうか。
あんな周到な罠を仕掛けておいて。
後はアトリが魔術を行使するだけなのに。
その、たった一手を、どうして。
「ユーグ、行こう。ここに、いたくない」
何故だろう。
こうしてユーグレイと再会したというのに、取り返しのつかない状況に陥ったような鈍い恐怖が込み上げる。
アトリはユーグレイの腕を掴んで、「早く」と急かした。
幸い彼は不審がる様子もなく、「わかった」とアトリを支えるようにして立ち上がる。
「時間稼ぎで良いと言ったが、カグたちのあの様子では本当に乱闘になりかねない。研究院としても実際君がここに監禁されていたとなれば、言い逃れは出来ないだろう」
「そっか。カグたちも、来てくれたのか」
「クレハと、君が面倒を見た後輩もペアと一緒に来ている。そちらもあまり自制は効かなそうだから、確かに急いだ方が良いだろうな」
踵を返したユーグレイが、手を差し伸べる。
さらさらと冷たい風が吹く。
あ、なんか、と思った瞬間、どくんと腹の奥が脈打った。
「ーーーーぁ」
こんな時に。
ユーグレイの手を掴み損ねて、アトリは踏鞴を踏む。
これは、誤魔化しようがない。
さっと顔色を変えた彼が抱き止めてくれなければ、恐らく倒れ込んでいただろう。
「い、や……、平気。ちょっと、目眩」
咄嗟に腹部を押さえようとした手を留めて、アトリは苦し紛れの言い訳をする。
見上げたユーグレイの瞳に鮮烈な感情が浮かんだ。
アトリの嘘に対する苛立ちではない。
抜き身の剣のようにあまりに鋭いそれに、背が震えた。
それは、確かにユーグレイ自身を責める色をしている。
「目眩?」
「………………」
言いたくない、と思った。
この胎に魔術を仕込まれて、それが、魔力を与えられて外に出ようとしている、なんて。
ユーグレイに、だけは。
絶対に知られたくない。
「アトリ、それは」
「いい、から、ユーグ! 早くっ」
一歩踏み出した足は、それ以上動かない。
ユーグレイの支えがなければ、この身体はまともに動きもしないらしい。
頭が真っ白になる。
今すぐここを離れたいのに。
問い糺そうとするユーグレイの言葉が、不自然に途切れた。
アトリを引き寄せ、もう片方の手が腰の銀剣に触れる。
身体が強張るのがわかった。
「それは『胎動』ですよ。ユーグレイさん」
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