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10章
8
しおりを挟むふわりと白衣が翻る。
淡く外灯に照らされる鳶色の髪。
追って来た、と言うにはあまりに鷹揚にその人は微笑む。
「いけませんよ、アトリさん。大切な身体なのですから安静にしていないと」
ラルフ・ノーマンはゆっくりと歩み寄って来て、手を差し伸べた。
一欠片の焦りもないその挙動は、アトリが自身の手を取るのは当然だという確信に満ちていた。
ユーグレイが一呼吸の間に銀剣を抜く。
まだ間合いではないが、ラルフは驚いたような素振りで立ち止まった。
「困りましたね。ユーグレイさんにも、恨みはないのですが」
ユーグレイは、何も言わない。
ただあと一歩、ラルフが踏み出したならば。
彼は躊躇いなく銀剣を振るうだろうと思った。
「ユーグ、待て!」
アトリはユーグレイの肩を押して、首を振る。
踏み込ませてはいけない。
そもそもユーグレイとこの人を、会わせてはいけなかった。
あの部屋から逃げるべきではなかったのだと、何故かそう思った。
ラルフは瞳を細めて、指先をユーグレイに向ける。
心臓が痛い。
ユーグレイは、彼が「本物の魔術師」であることを知らない。
けれど無意識に危機感は覚えたのだろう。
僅かに揺らいだ殺気。
アトリはユーグレイを突き飛ばすようにして、彼を背に庇った。
「……君、はッ!」
咎めるようなユーグレイの声。
同時に左手を握られて、思考が止まった。
何度もこうやって手を繋いで、目の前の脅威に対して魔術を紡いで来た。
流れ込んで来るユーグレイの魔力。
向けられたラルフの指先は、まだ魔術を放たない。
憐れむように男は瞳を伏せる。
息を吸い込む刹那が、酷く長く感じられた。
ユーグレイの手に力が籠って、アトリは彼を振り返る。
何故魔術を行使しないのかと、切羽詰まったような碧眼が問う。
魔術を行使するつもりがないのに、何故身を挺したのかと。
それに、答えられるほどの時間はなかった。
「アトリ!」
繋いだままの手を乱暴に引かれて、無理やり後方へ押しやられる。
待て。
抵抗しようと力を入れた爪先が石畳を引っ掻いた。
不安定な体勢のままユーグレイの腕を掴んで、やめろと叫ぶ。
彼は、振り返らない。
暗がりで幾つもの木々がさざめいた。
魔術師は穏やかに笑う。
それなら、今。
ちゃんと望まれた通りに、これを解き放ってやるから。
だから、それだけは。
「申し訳ありません。ユーグレイさん」
ガラスが砕けるような音がした。
きらきらと銀剣の破片が光る。
頬に、あたたかいものが飛んだ。
嫌だ。
「ユーグ」
向けられた背にじわりと真っ赤な染みが広がっていく。
ユーグレイは、呻き声さえ上げなかった。
ようやく振り返った彼と目が合う。
アトリが無事にそこにいることを確かめると、ユーグレイは胸元を押さえてふっと崩れ落ちた。
「ーーーーッ!」
その身体を辛うじて抱き止めて、アトリは石畳に膝をつく。
押さえられたユーグレイの胸には、深く撃ち抜かれたような傷があった。
ラルフがゆっくりと指先を下すのが見える。
「ああ、ほら。だから加減は得意ではないと言ったんです」
この人は。
最初からこうするつもりで、最後の一手を残して置いたのか。
溢れ出す血は止まらない。
ユーグレイは弱く咳き込んで、半分に折れた銀剣の柄を握り直した。
彼が上体を起こそうとした瞬間に、傷口から鮮血が吹き出す。
「動くな……ッ、ユーグ、駄目、だって……!」
その傷を強く圧迫して、アトリは懇願する。
声が震える。
怖い。
この傷は、どう見ても致命傷だ。
ユーグレイは全く気にした様子もなく、いつものように微笑む。
「君が、無事なら、良い。先に、行け、アトリ」
「いか、ない」
ユーグレイを、失う。
それだけは。
それだけは、受け入れられない。
アトリはゆるりと顔を上げた。
視線の先、魔術師は結末を見守るように佇んでいる。
この命を繋ぎ止めるには、奇跡が必要だ。
そしてその奇跡の代償が何であっても、構わなかった。
「ユーグ」
アトリは腕の中の身体を強く抱きしめる。
柔らかな銀髪を撫でて、その額に口付けた。
ユーグレイは朦朧としながらも微かに唇を震わせる。
やめろと、言いたいのだろう。
ああ、本当に。
「好きだよ、ユーグ。お前が、好き」
だから何もかもユーグレイの為に。
魔術の発動と同時に、身体の奥が破裂するような感覚があった。
熱を持って蠢くそれが、定められた形で現出しようと暴れ狂う。
真っ先に視界が白くなった。
それでもまだ、ユーグレイの身体の感触はわかる。
この傷を、必ず治す。
唯一無二のペアで、親友で。
たった一人、ただ愛おしいと想った人。
この人のためなら、何だって出来る。
傷口に触れたアトリの手を、ユーグレイが掴む。
声も、音も。
何も聞こえない。
全部壊れてしまって良い。
どこへ堕ちて行ってしまっても良い。
けれどもし叶うなら。
最後まで、手を握っていて欲しい。
神経が切断されるような痛みに、身体が強張った。
意識も呼吸も絡め取るようにして、刻み込まれた魔術が生まれ落ちる。
懐かしい耳鳴りがした。
溶け落ちる思考。
遠くなる身体。
果てのない零が、視えた気がした。
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