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10章
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しおりを挟む最悪な気分で、目が覚めた。
壊れるほどに音を立てる心臓。
頭は重く、身体を起こした瞬間に視界がぐるりと回る。
吐きそうだ。
「うっ、ァ」
ここは、何処だ。
自分はどうして、こんなところにいるのか。
記憶を辿った刹那、肌に触れた男の顔を思い出す。
熱を帯びた鳶色の瞳。
さっと血の気が引く。
何時間、何日、あの苦痛の中にいたのか。
狂ったように幾度も高みへと押し上げられて、それから。
それから?
「っ!!」
アトリは唾を飲み込んで、身に纏っていた手術着を強く掴んだ。
身体は既に清められていて、寝かされていたベッドも乾いている。
行為の痕跡は、何もない。
けれど男の手の感触を身体が覚えている。
ただ、鮮明に。
這うようにしてベッドから下りると、ひんやりとした床にへたり込む。
ぼんやりと室内を見渡すが、行動を咎める人はどこにもいなかった。
逃げるなら、きっと今しかない。
拘束さえせずに放置をしている理由はわからないが、それでも呑気にここで寝ているなんて選択肢はなかった。
しっかりしろ、アトリ。
自身のこめかみを思い切り叩くと、霞んでいた思考が僅かに晴れる。
白い照明に照らされる空間。
ガラスの向こうの隣室は薄暗く、人気がない。
細心の注意を払ってゆっくりと立ち上がると、多少のふらつきはあったものの身動きが取れないほどではないことに安堵する。
案外ダメージはないのか。
或いは、この非常事態に身体が無茶をきいてくれているのか。
隣室に繋がる扉は、呆気なく開いた。
そもそも人を閉じ込める構造をしていないようだ。
鍵は内側に付いており、警報の類も鳴り出す気配はない。
「………………」
素足が床に接する微かな音。
何かのファイルが並べられた本棚の隣、至って普通の扉が見えた。
壁を伝って歩を進めると、その扉をそっと押し開ける。
細く開いた隙間から明るい廊下が見えた。
人気はないが、幾つも部屋があるようだ。
何かの実験施設か。
ラルフの所属先だと言う皇国の研究院である可能性が高いが、判断材料はそう多くない。
何にせよ、ここの人間に見咎められるのは避けた方が良いだろう。
そっと廊下に出た瞬間、不意に下腹部の奥が疼いた。
「………いッ、!」
アトリは堪え切れずに蹲って、胎を押さえる。
得体の知れない強烈な違和感。
何か、ここに、いるのだろうか。
さっと脳裏を過ぎった疑問を、無理やり振り払う。
冷静になれ。
0地点の術者を観測するための魔術を仕込んだと、ラルフは言った。
あれほどの魔力を注がれたのだ。
ここにいるのは、生物ではない。
発動を待つ魔術が暴れ出しただけだろう。
「っとに、好き勝手、してくれる」
アトリは低く吐き捨てて、腹部を押さえたまま立ち上がった。
ラルフはどうしたのだろうか。
彼が仕組んだものには理解が及ばないが、それでも自分の身体のことだ。
これは、何であれ魔術を行使した瞬間に正確に発動するだろうと思った。
ラルフはアトリに魔術を使わせるだけで、望んだ結末を手に入れることが出来る。
その最後の一手を残したまま、どこへ行ったのか。
「……これ、ほっといたら、どーにか、なるもんかな」
少なくとも「蓋」とやらが外れれば、注ぎ込まれた魔力は自然と身体から抜け落ちる。
後は、魔術行使さえしなければ。
ずきりと胸が軋んだ。
それは、つまり。
もうユーグレイのペアとして、彼の隣に立つことは出来ないことを意味する。
ふぅと深く息を吐いて、アトリは首を振った。
難しいことを考えるのは後だ。
長い廊下は階段に続いており、踊り場の小さな窓から外灯に照らされた中庭と向かいに聳える建物が見える。
この施設自体、第五防壁くらいの規模はありそうだ。
慎重に階下へと向かうと、やはりどこか無機質な廊下が待っていた。
唐突に肌寒さを覚えたのは地面が近くなった証拠だろうか。
小難しい名称を掲げる一室を過ぎると、庭に面した壁に大きな窓があった。
庭の植え込みは、ひとまず身を隠すには丁度良さそうに見える。
ここから出られないだろうか。
冷たい窓枠に触れた瞬間誰かの話し声が聞こえて、アトリは息を呑んだ。
「…………ってこと? 言いがかりでそこまでする? やばくない?」
「さあ、知らないけど。危ないから研究室に泊まった方が良いんじゃないかってさ」
がちゃりと扉が開く音が響いた。
斜め向かいの部屋だ。
アトリは咄嗟に身を翻したが、流石にこれは見つかったなと覚悟をする。
そもそもある程度は動けても、いつものように走って逃げるなんて芸当は無理に決まっていた。
あれ、と背に投げかけられた声。
どうする。
武器もない、魔術行使も出来ない。
ああ、でもラルフの望み通りになるのは。
「君、どうしたの?」
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