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10章
0.1
しおりを挟む掠れた呼吸音。
鼓動に合わせて胸に走る激痛。
ふと浮上する意識が、自身の生存を確認する。
どう、なったんだ。
「…………ッ、ぐ」
朧げな視界。
やけに鮮明な冷たい地面の感触。
投げ出していた手を軽く握り込んで、ユーグレイは視線を巡らせる。
耐え難いほどの焦燥感があった。
鮮血に染まった自身の胸元には白い手が置かれている。
そっと大切なものを守るように。
ユーグレイを抱きしめたまま、アトリは目を閉じていた。
風に揺れる黒髪が面差しに影を落とすが、そこに苦痛は見て取れない。
ぱちぱちと抉れた肉が繋がって行く感覚。
ユーグレイは重い手を持ち上げて、何とかアトリの手を掴んだ。
「や……、めろ、アトリ!」
これだけの傷を癒すのは自殺行為だ。
ニールを救ったあの時、自分がどうなったか忘れた訳ではないだろう。
現代の魔術は決して万能ではないと、アトリ自身理解しているはずだ。
掴んだ手は何の反応も返さなかった。
冷たい。
「……ア、トリ」
その頬に触れる瞬間、誰かがアトリの肩を抱き寄せた。
糸が切れたように傾く身体が、ふわりと誰かの腕に抱え上げられる。
ユーグレイは血で湿った石畳に手をついて、勢い良く身体を起こした。
術者であるアトリの手が離れたにも関わらず、傷口は恐ろしいほどの速さで塞がって行く。
急速な回復に酷い眩暈がした。
白衣の研究員は腕に抱いたアトリの顔を覗き込むようにして、静かに笑う。
「ああ、これは失敗ですね」
失敗。
脳裏を染め上げたのは、制御の出来ない怒りだった。
迫り上がって来た血の塊を吐いて、ユーグレイは爪先に力を入れる。
「無理をなさらないように、ユーグレイさん。せっかくの奇跡を無駄にするおつもりですか?」
穏やかにそう言うラルフからは、殺意を感じ取れなかった。
けれど歯向かえば、彼は相応の対処をするだろうという確信もある。
どこか冷静に敵わないだろうと思った。
ただ、そんなことは、どうでも良かったのだ。
アトリをここまで連れ去ったのは、この男だ。
何らかの目的のために、彼を利用しようとしたことも想像に難くない。
結果が、これだ。
「…………アトリに、触るな」
ラルフの腕の中。
ぐったりとしたままのアトリは、呼吸をしているかすらわからない。
薄闇の中でもそうとわかるほどに色を失った肌。
体温を感じられなかった手。
怖い。
本当に失うのだろうか、彼を。
「こういうことになる可能性も考えなかった訳ではなかったのですが、私も甘いですね。まさか、ここまでしてアトリさんに術式を捻じ曲げられるとは思いませんでした。一応観測はしているようですが、これでは魔術の強度が低すぎる」
ラルフはアトリを地面に寝かせると、その腹部に手を置いた。
してやられましたね、と肩を竦める様子は拍子抜けするほどに毒がない。
その言葉は純粋に、アトリに対する称賛に聞こえた。
ユーグレイは男を睨んだまま石畳の上を探る。
からりと微かな音がして、指先が馴染みのある柄を捉えた。
銀剣。
強く握り直したそれは、普段より遥かに軽い。
折れているのか。
いや、それでも良い。
この男を。
殺すことが、出来れば。
「あれだけ魔力を注ぎ込んだのに、半分以上ユーグレイさんの治癒に使ってしまったんですか。本当に、貴方は」
僅か、数歩。
ユーグレイは夢中で地面を蹴った。
鳶色の髪が揺れる。
ラルフは困ったような表情で、逡巡したようだった。
名残惜しげにアトリから離れる手。
男は予備動作もなくふっと後方へ飛び退いた。
「ッ、ーーーー!」
口惜しいが追撃までは到底は叶わない。
それでもこの男の手からアトリを奪い返すことが出来ただけで、十分だ。
ユーグレイは身体を支え切れずに膝から崩れ落ちると、寝かされたままの彼を胸に抱いた。
「……万が一失敗したとしても、アトリさんの身体は貰って行こうと思っていたんですよ」
アトリを抱き締めたまま、ユーグレイは顔を上げた。
手を伸ばせば届くほどの距離。
木立の影の中、ラルフは優しく微笑んでいる。
この男は。
「とても可愛らしかったもので。自分でも意外なのですが、このままアトリさんを所有しておくつもりでした」
「……な、にを」
この男は、アトリに何をしたのか。
「ですが、肝心なところで振られてしまって。残念ではありますが、こうなった以上アトリさんの身体はユーグレイさんにお返しします」
それがどういう意味なのか。
理解するには、あまりに余裕がなかった。
ただ、確かに「アトリを返す」と男は言った。
真意を測るユーグレイの視線に、ラルフは小さく首を振る。
「私はアトリさんにもユーグレイさんにも、恨みどころか嫌悪すら抱いていません。今アトリさんを連れて行きたいと思うのは、完全に個人的な欲求です。ご本人に拒絶された以上引き下がるのが筋でしょう」
白衣が翻る。
ラルフは幼子を慈しむようにゆるりと瞳を細めた。
「……それではご縁があれば、また」
不意にその存在感が希薄になる。
踵を返す後ろ姿。
刺し違えてでもと思ったはずなのに、男を追う気にはならなかった。
許すはずはない。
それでも、踏みとどまるだけの理由が腕の中にあった。
ユーグレイは彼の黒髪に指を埋めてから、温度のない首筋を辿る。
震える指先で脈を探った。
わからない。
吐き出す息が乱れて、苦しくて仕方がない。
ユーグレイはアトリの手を握って、その頭を強く抱き込んだ。
ああ、どうか。
「アトリ」
僕を、置いていくな。
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