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黒文鳥

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10章

0.2

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「ユーグレイ」

 病室に顔を出したクレハ・ヴェルテットは、ユーグレイの顔を見て一瞬言葉に詰まったようだった。
 第五防壁の集中治療室。
 隔離された一室のベッドには、複数の管に繋がれたアトリが寝かされている。
 閉じられた瞼に憂いはない。
 ただ測定される脆弱な生命活動が、無機質な音になって室内に響いていた。

「……ちゃんとご飯、食べた? あんまり無理すると、アトリが起きた時怒られちゃうよ」

 ユーグレイはベッド脇の椅子に腰掛けたまま、「そうだな」と答える。
 アトリを取り戻して、十日。
 ここ数日は誰かに会う度そんなことを言われているような気がした。
 無理をしている自覚はないが、必要最低限の食事さえ摂るのは億劫だった。
 その一分一秒が、ただ惜しくて仕方がない。
 不安げな少女の気配から目を逸らして、ユーグレイはアトリの額を撫でた。
 どこか静謐なその寝顔は、捧げられた後の生贄を思わせる。
 
「本当に、大丈夫? 今夜もするの?」

「ああ」

 少しの非難が込められた問いかけに、ユーグレイは淡々と頷いた。
 クレハは何か言いかけて、それから悲しそうに小さく息を吐く。

「………………うん、わかった」

 少女は足音を忍ばせてそっと近付いてくると、アトリの手に触れた。
 そのまま差し出された反対の手を、ユーグレイが握る。
 頼りない糸のような感覚を必死に手繰り寄せて、ユーグレイは目を閉じた。




 あの後。
 中庭で意識を失ったユーグレイは、アトリと共に皇国の病院に担ぎ込まれた。
 大量の出血を見て同僚たちはどちらも手遅れかもしれないと思ったそうだが、ユーグレイに関しては夜が明ける頃には目を覚ました。
 負ったはずの傷は、痕さえ残っていない。
 医師たちは首を傾げたが、同行してくれた同僚の殆どはその時点で状況を察したようだ。
 能力限界以上の魔術を行使したエルがどうなるか、防壁で知らない者はいない。
 幸いアトリは最低限の生命活動だけは自身で維持をしていた。
 緩やかな呼吸。
 弱い心拍。
 彼だけ時間の流れから置き去りにされたような、完全な停滞。
 皇国の医師たちが下した診断は「特殊仮死」。
 前例のない、原因不明の昏睡状態だ。
 詳しく検査を、という話を蹴ったのは防壁から駆けつけた管理員だった。
 アトリの昏睡は魔術に起因するものである可能性が高く、一般の医療には到底任せられない。
 防壁への搬送は少なからずアトリの負担になるだろうが、それでも帰るべきだとユーグレイも思った。
 予想に反して、帰還に時間はかからなかった。
 呼吸器や点滴がなくとも、アトリの状態は一切変化がなかった。
 眠っているだけと言うには生気がなさ過ぎるが、急変の兆候もない。
 不自然なほどに、彼の状態は「固定」していた。

「手は尽くしたけど、正直もう出来ることはないんだ。本当に、ごめんね」

 第五防壁の集中治療室に移って数日。
 薄桃色の髪の主治医は、ユーグレイを呼び出してそう言った。
 目の下にくっきりと刻まれた隈。
 酷く疲れ切った様子の彼女は、「ごめんね」と繰り返した。
 どこか、その結果を予想していた気もする。

「アトリ君の症例は、今の医学では全く説明がつかない。あまりに、魔術的な要因が強過ぎるんだよ。このままずっとこの状態かもしれないし、一瞬で命を落とすかもしれない。或いは突然、目を覚ますこともあるかもしれない」

 完全に意識がなく、外的刺激の一切に反応がないこと。
 外界から切り離されたように、生命活動のための補給を必要としないこと。
 アトリの身に起きていることを端的に教えてくれた彼女は、その先の全ての選択をユーグレイに委ねた。
 かつての意識喪失とは異なるが、同じ方法を試しても良い。
 誰かに頼んで、自己治癒目的の身体強化術をかけてみるのも良い。
 多少のリスクはあるが後悔だけは残さないように、と主治医は言った。
 そういう状況なのだと、理解して。
 治療室に戻ってすぐ、ユーグレイはアトリを抱いた。
 薄い布を剥いで温度のない陶器のような肌に触れる。
 力の入っていない脚を開かせて、彼に覆い被さった。
 どこに、どう触れても。
 アトリは静かに弱い呼吸を繰り返すだけだった。
 ニールを癒して倒れた時とは違う。
 それでも諦めきれなくて、何度も丁寧に奥を突いた。
 規則正しい測定音。
 僅かも熱を帯びない身体。
 欲を吐き出す度に、叫び出したいほどの苦痛を覚えた。
 
 ここに『アトリ』はいない。

 幾度目の果てに、そう思ったのだろうか。
 呼び起こすべき意識はこの身体の中にはないのだと、悟った。
 抜け落ちている。
 そう感じるほどに、今目の間にいるアトリは空虚だ。
 それならばと白い手を握り、慎重に魔力を送り込んで魔術を構築した。
 魔術行使の負担を減らすために幾度も試した方法だった。
 理論としては変わらない。
 全て掌握して、その先にあるはずの彼の意識まで繋がれば。
 或いは失敗したとしても、以前のように夢の共有が起こるかもしれない。
 けれど決して難しくはなかったはずの接続に、手応えはなかった。
 アトリの状態が悪いだけではない。
 魔術の構築を担おうとした瞬間の僅かな違和感。
 
 アトリはまだ、魔術を行使していた。


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