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2.敗北
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目を覚ましてから、那智はしばらくの間、ぼーっと天井を眺めていた。
時間は昼を少し過ぎている。
隣を見ると、東藤はまだ眠っているようだ。
こんな風に、眠っている間に他人の体温があることに不思議な感じがした。誰かと一緒に眠るなんて、いったい何年ぶりだろう。
(っていうか、もしかして初めてじゃん?)
少なくとも、記憶にある中では一度もない。親と一緒に寝た覚えもないのだから。
布団から出て起き上がろうとして、那智は顔を顰めた。
身体のあちこちが鈍い痛みを訴えてくる。そして、とにかくだるい。これでは、今日は打ちに行くのは無理だろうか。
そろそろとベッドから降りて、なんとか立ち上がりバスルームへと向かった。シャワーを浴びて着替えて来てからも、東藤は相変わらず眠っていた。肩から落ちかけている布団をかけなおしてやりながら、那智は溜息を吐く。
東藤はどうして自分に声をかけてきたのだろう。
那智と組めば勝てる確率が上がると言っていた。しかし、金など腐る程あるとも言っていたから、勝ちにこだわる必要もないはずだ。現に彼ははっきりと、負ける方がメリットがあると言ったのだ。
昨夜のことを思い返してみる。
あんなに滅茶苦茶にされるなんて思わなかった。東藤の趣味が特殊なのか、それとも、自分が甘かっただけで、セックスなんてあんなものなのか。
比べる相手がいないからその辺のことはわからない。けれど、縛られたり泣き喚く程我慢させられたり、やっぱり普通じゃない気がする。
こんなにかっこいいんだから、わざわざ自分なんかに声をかけなくたって、他にいくらでも相手がいるだろう。それとも、普通の趣味じゃないから金を払わないと相手が見つからないのか。
那智はふるふると首を横に振った。
前提が間違っている。東藤は自分と麻雀を打つために声をかけてきたのだ。牌の位置を覚えられるという、特質した能力を持っていたから興味があった。それだけ。
無理やりそう結論付けて、それ以上の思考を振り切るように、那智は部屋を飛び出した。
✦✦✦
雲一つない突き抜けるような青空が広がっていた。コートのポケットに手を入れたままのんびりとその下を歩いていると、昨夜のことは全部夢だったんじゃないかと思えてくる。
もちろん、そんなのはただの錯覚なのだけれど。
那智は、いつも行く雀荘から家へ帰る方向へ向かい、東藤と別れる丁字路を過ぎて、更に住宅街を進んでいく。
小さな公園、小学校、それらを過ぎると広い庭を木で囲まれた、小さな建物が現れる。保育園のようなその建物の前では、小学生くらいの子ども達が何人か遊んでいた。
門をくぐり、受付のスタッフに声をかけると、彼女はすぐに職員室の中にある応接セットに那智を案内してくれた。
「あら、那智君。ひさしぶりね」
「こんにちは」
しばらくして、園長の女性が那智の前にやってきた。
彼女は腕に抱いていた赤ん坊を近くにいたスタッフにあずけると、ソファに腰を下ろす。
那智はちらりとその赤ん坊に視線をやる。顔だけでは男の子なのか女の子なのか、那智には判断がつかない。
ここは、身寄りのない子ども達を預かっている施設だ。
(あんな小さな子までいるのか)
その光景は、那智の心に小さなしこりを残していくようだった。
「これを」
那智は振り切るように、財布から小さな茶色い封筒を取り出し、ローテーブルの上に置いた。途端に、園長は申し訳なさそうな顔をする。
四十代後半の彼女は、普段から子ども達と一緒になって外を駆け回っているせいか、もっと若く見える。けれどいつも、この時ばかりは普段の苦労が表情に表れ、歳相応に見えてしまうのだった。
「那智君、そんな、いつもいいのに」
「いえ。どうぞ、お納めください」
彼女はほんの少し躊躇った末、那智に礼を言って封筒を受け取った。那智はほっとしたように微笑む。
「おにいちゃん!」
ちょうどそこへ、タイミングよく廊下から声が聞こえてきた。
「美奈」
那智が立ち上がると、美奈と呼ばれた小学校低学年くらいの女の子が、パッと顔を輝かせてこちらに走ってきた。勢いよく跳び付いてくる。
ツインテールをした少し色素の薄い髪を撫でてやりながら、那智は首を傾げた。
「あれ、今日学校は?」
「今日は土曜日だよー」
言われて初めて気が付いた。すっかり曜日の感覚がなくなっている。
美奈は那智の腹違いの妹だ。父親が死んでから、美奈が唯一の家族だった。
那智の母親は、離婚してしばらくしてから再婚した。それから生まれたのが美奈だ。けれどその後、何年か後に二人は事故で亡くなってしまったらしい。那智は偶然この施設の前を通った時に、美奈の姿を見つけたのだ。
「美奈、外で遊んでおいで」
「はーい」
腰に纏わり付く手をやんわりと外して促すと、美奈は大人しく職員室を出て行った。入り口で待っていた友達と連れ立って、庭へ出て行く。
その後ろ姿を見送ってから、那智も帰ろうとコートを手に取る。
「ねぇ、那智君は美奈ちゃんのこと引き取る気はないの? お金はあるんでしょ?」
「それは…いいんです」
「そう? まあそうよね。子育てなんて大変だものね」
「そういうわけじゃ…」
「ああ、いいのいいの。わかってるから」
園長は余計な口出ししてごめんなさいね、と謝り、他のスタッフに呼ばれて職員室を出て行った。
那智も出されたお茶を飲み干すと、すぐに職員室を出る。
玄関に向かって廊下を歩いていると、園長の声が聞こえてきた。
「…でも、引き取り先だって簡単には見つからないし」
(え…?)
何か不穏な空気を感じて、那智は足を止める。すぐ脇の部屋のドアが、少し開いていることに気が付いた。声はそこから漏れてきているようだ。
那智はそっとドアに近付き、聞き耳を立てる。
「やっぱり、閉鎖するしかないんでしょうか」
園長とスタッフの話し声が聞こえた。施設の運営についての話をしているようだ。
(閉鎖って、まさか…?)
資金繰りが厳しいのは知っていたけれど、まさか施設の閉鎖を考えるほどだったとは。
もしかして、だからさっき美奈を引き取る話をしてきたのだろうか。那智にその気がないことくらい、とっくに園長は知っているはずだから妙だとは思っていたけれど。
那智は足音を立てないように、注意しながらその場を離れる。
外に出て庭の方に回り、木々の間からそっと中を覗く。
長縄跳びをしている集団の中に、美奈の姿を見つけた。顔つきはここからではよく見えないが、少し色素の薄い柔らかそうな髪が、母親によく似ていると思う。赤い花柄のスカートを閃かせて、何がそんなに面白いのか、満面の笑みで跳び回っている。キャッキャした笑い声がここまで聞こえてくるような気がして、那智は頬を緩めた。
「よく寒くないよなあ」
この寒空の下あんな薄着で、と感心したように呟いた時だった。
「こんな所にいたのか」
突然背後から聞こえた声に、はっとして振り返ると、いつものスーツ姿の東藤が立っていた。
「なんで…?」
もしかして、後をつけられていたのだろうか。
いや、那智がホテルを出た時、彼はまだ眠っていたのだ。あの後すぐに起きて部屋を出てきたとしても、そんなことは出来ないと思う。
ならばなぜ。偶然この近くを通ったとでも言うのか。
「たまたま通りかかっただけだよ」
那智の疑問に、東藤は真面目に答える気はないらしい。この話は終わりとばかりに軽く肩を竦め、那智の見ていた方向に目をやり、くすりと笑う。
「こんな所から覗いてると、変質者みたいに思われるよ」
「なにそれ。ちょー失礼」
拗ねたように唇を尖らせ、那智は再び子ども達の方に視線を戻す。
「ここ、身寄りのない子ども達のための施設だろう」
「…知ってたんだ」
那智は少しだけ驚いて東藤の顔を見つめる。
「どうしてこんな所にいるんだ? もしかして、那智…は、ここで育ったのか?」
「ちがうよ」
妙な間に若干眉を顰めながらも、那智は首を横に振り、子ども集団の中の一人を目線で指し示す。
「あの子、美奈っていうんだけど、俺の妹なんだ」
「妹?」
長縄は飽きたのか、今度は鉄棒を始めた美奈を顎で示す。スカートなのに逆上がりなんかして中が見えそうになっているが、本人は全く気にしていないらしい。
東藤は心底驚いたような顔をして、那智とその女の子を交互に見つめる。
「そうだったのか」
しばらく二人は、遊んでいる子ども達の様子を無言で眺めていた。やがて子ども達は、施設のスタッフに呼ばれて建物の中に入っていった。
庭に誰もいなくなってから、東藤は静かに口を開いた。
「声、かけなくて良かったのか?」
「うん」
さっき会ってきた、なんてことは東藤には言わない。言う必要もない。
「お前、もしかして…」
東藤が何か言いかけていた。しかし彼は、那智が振り向くと、小さく首を振って口を閉ざしてしまう。
「いや、なんでもない」
「なに? 気になるんだけど」
「那智に妹がいるのが、意外だなって思っただけだよ」
「そう? まあ、お袋がおやじと離婚した後に出来た子どもだから、半分しか血は繋がってないけど」
「…そうか」
那智は誰もいなくなった施設の庭を、何か眩しいものを見るように見つめる。
そうして、改めて決意する。
東藤は、自分がここへやって来た理由を、妹の様子を見るためだとしか思っていないかもしれない。
けれど、実際にはそれだけではない。
こういった施設は、今はどこも資金不足で、経営が難しい状況にある。美奈のいるこの施設も例外ではない。
一年ほど前、資金繰りが難しくなっているという話を偶然聞いて、それ以降那智はここへ寄付をしている。
施設の人たちはすごく感謝してくれるが、那智としては、ただ妹の居場所を守りたかっただけだ。それに、所詮は麻雀で稼いだ金。決して綺麗な金ではないことはわかっている。
それでも、残されたたった一人の家族のために、何か出来ることをしたかった。
「ここにいる子達はさ、みんなここが好きなんだって」
「え…?」
「園長先生もスタッフもみんないい人だし、友達もたくさんいるから寂しくない。だから…」
気が付けば、口から勝手にそんな言葉が零れていた。
那智は俯いて苦笑する。
何を言っているのだろう。こんな話を聞かされても、東藤は困るだけだろうに。
「ごめん。東藤さんにこんな話してもしょうがないよな」
「いや…。今日はどうする? やめとくか?」
気分を切り替えるように東藤が言う。那智は小さく首を横に振った。
「行くよ」
休んでる場合ではない。一円でも多く稼がなければ。少し身体がだるいくらいで弱音を吐いていては、妹の居場所を守ることなど不可能だ。
那智は施設に背を向けると、しっかりした足取りで雀荘へ向かって歩き始めた。
✦✦✦
しかし、事はそう上手くはいかない。
チッと舌打ちをして、目の前に積んである牌山を乱暴に崩した。
(くそ。なにやってんだよ、俺)
また負けた。今日も完全に那智のミスだ。
最初は良かったのだ。いつも通りコンビネーションも良かった。しかし、後半那智の判断ミスが目立ってきた。それでも勝てていたから、もう一回くらい、あと半荘くらいなら問題ないと思っていた。東藤はもう今日は終わりにして帰ろうと言っていたのに、那智は聞かなかった。
その結果がこれだ。二日連続で負けるなんて信じられない。昨日、勝負を急ぐと失敗することを学んだばかりなのに、全く生かせていなかった。
無言で店を出て、東藤の後をついて歩く。彼は何も言わない。呆れているのだろうか。忠告も聞かずに、結局負けて自分の首を絞めている。那智自身も呆れ果てているのだ。東藤が呆れていても仕方ないと思った。
(あれ…?)
ふと周りの景色を見て那智は首を傾げた。
東藤は那智のアパートのある方向に向かっている。この辺りは住宅街しかないと思うのに、いったいどこへ行く気なのだろうか。まさか、那智の部屋に行くつもりなのか。
「ねえ、どこ行くの?」
慌てて声をかけた時には、すでにいつも別れる丁字路のすぐそばまで来ていた。
東藤は立ち止まって振り返ると、ふっと微笑む。
「今日は帰りな」
「え…?」
どうして? 那智は戸惑いを表情に乗せたまま東藤の顔を見上げた。
すると、腕が背中に回ってきて軽く抱き締められる。
「身体、辛いだろ」
そう言って腰の辺りを撫でられる。
那智はきゅっと唇を噛み締めて、東藤の顔を睨み付けた。
「馬鹿にしてんの?」
それとも同情しているのか。こんなどうしようもない自分でも、負けた分はしっかり払うと決めている。情けをかけられるいわれはない。
「そうじゃない。今日は俺もこの後用事があるから」
だから今はこれだけ、そう言って顎に手をかけられ唇を塞がれた。
那智は驚きで一瞬身体を硬直させる。けれど、宥めるように背中を撫でられ、柔らかく舌を吸われて、自然に瞼が落ちていった。歯列の裏を舐められ、身体が小さく震える。頭がぼうっとして、ここが外だということも忘れ口付けに夢中になった。
喉を鳴らして唾液を飲み込むと、ゆっくりと唇が離れる。
抱擁が解かれ二人の間に冷たい空気が入り込んでくると、一気に冷静さが戻って来た。
何をやっているんだ。キスに夢中になるなんて、信じられない。
熱くなった頬に東藤の指先が触れる。
「続きはまた今度な」
もう一度キスされるのではと思うほどの至近距離で囁かれて、那智の頬が真っ赤に染まる。
羞恥と混乱で何も言えずにいるうちに、東藤はさっさと踵を返すと、夜の闇の中へ消えていった。
時間は昼を少し過ぎている。
隣を見ると、東藤はまだ眠っているようだ。
こんな風に、眠っている間に他人の体温があることに不思議な感じがした。誰かと一緒に眠るなんて、いったい何年ぶりだろう。
(っていうか、もしかして初めてじゃん?)
少なくとも、記憶にある中では一度もない。親と一緒に寝た覚えもないのだから。
布団から出て起き上がろうとして、那智は顔を顰めた。
身体のあちこちが鈍い痛みを訴えてくる。そして、とにかくだるい。これでは、今日は打ちに行くのは無理だろうか。
そろそろとベッドから降りて、なんとか立ち上がりバスルームへと向かった。シャワーを浴びて着替えて来てからも、東藤は相変わらず眠っていた。肩から落ちかけている布団をかけなおしてやりながら、那智は溜息を吐く。
東藤はどうして自分に声をかけてきたのだろう。
那智と組めば勝てる確率が上がると言っていた。しかし、金など腐る程あるとも言っていたから、勝ちにこだわる必要もないはずだ。現に彼ははっきりと、負ける方がメリットがあると言ったのだ。
昨夜のことを思い返してみる。
あんなに滅茶苦茶にされるなんて思わなかった。東藤の趣味が特殊なのか、それとも、自分が甘かっただけで、セックスなんてあんなものなのか。
比べる相手がいないからその辺のことはわからない。けれど、縛られたり泣き喚く程我慢させられたり、やっぱり普通じゃない気がする。
こんなにかっこいいんだから、わざわざ自分なんかに声をかけなくたって、他にいくらでも相手がいるだろう。それとも、普通の趣味じゃないから金を払わないと相手が見つからないのか。
那智はふるふると首を横に振った。
前提が間違っている。東藤は自分と麻雀を打つために声をかけてきたのだ。牌の位置を覚えられるという、特質した能力を持っていたから興味があった。それだけ。
無理やりそう結論付けて、それ以上の思考を振り切るように、那智は部屋を飛び出した。
✦✦✦
雲一つない突き抜けるような青空が広がっていた。コートのポケットに手を入れたままのんびりとその下を歩いていると、昨夜のことは全部夢だったんじゃないかと思えてくる。
もちろん、そんなのはただの錯覚なのだけれど。
那智は、いつも行く雀荘から家へ帰る方向へ向かい、東藤と別れる丁字路を過ぎて、更に住宅街を進んでいく。
小さな公園、小学校、それらを過ぎると広い庭を木で囲まれた、小さな建物が現れる。保育園のようなその建物の前では、小学生くらいの子ども達が何人か遊んでいた。
門をくぐり、受付のスタッフに声をかけると、彼女はすぐに職員室の中にある応接セットに那智を案内してくれた。
「あら、那智君。ひさしぶりね」
「こんにちは」
しばらくして、園長の女性が那智の前にやってきた。
彼女は腕に抱いていた赤ん坊を近くにいたスタッフにあずけると、ソファに腰を下ろす。
那智はちらりとその赤ん坊に視線をやる。顔だけでは男の子なのか女の子なのか、那智には判断がつかない。
ここは、身寄りのない子ども達を預かっている施設だ。
(あんな小さな子までいるのか)
その光景は、那智の心に小さなしこりを残していくようだった。
「これを」
那智は振り切るように、財布から小さな茶色い封筒を取り出し、ローテーブルの上に置いた。途端に、園長は申し訳なさそうな顔をする。
四十代後半の彼女は、普段から子ども達と一緒になって外を駆け回っているせいか、もっと若く見える。けれどいつも、この時ばかりは普段の苦労が表情に表れ、歳相応に見えてしまうのだった。
「那智君、そんな、いつもいいのに」
「いえ。どうぞ、お納めください」
彼女はほんの少し躊躇った末、那智に礼を言って封筒を受け取った。那智はほっとしたように微笑む。
「おにいちゃん!」
ちょうどそこへ、タイミングよく廊下から声が聞こえてきた。
「美奈」
那智が立ち上がると、美奈と呼ばれた小学校低学年くらいの女の子が、パッと顔を輝かせてこちらに走ってきた。勢いよく跳び付いてくる。
ツインテールをした少し色素の薄い髪を撫でてやりながら、那智は首を傾げた。
「あれ、今日学校は?」
「今日は土曜日だよー」
言われて初めて気が付いた。すっかり曜日の感覚がなくなっている。
美奈は那智の腹違いの妹だ。父親が死んでから、美奈が唯一の家族だった。
那智の母親は、離婚してしばらくしてから再婚した。それから生まれたのが美奈だ。けれどその後、何年か後に二人は事故で亡くなってしまったらしい。那智は偶然この施設の前を通った時に、美奈の姿を見つけたのだ。
「美奈、外で遊んでおいで」
「はーい」
腰に纏わり付く手をやんわりと外して促すと、美奈は大人しく職員室を出て行った。入り口で待っていた友達と連れ立って、庭へ出て行く。
その後ろ姿を見送ってから、那智も帰ろうとコートを手に取る。
「ねぇ、那智君は美奈ちゃんのこと引き取る気はないの? お金はあるんでしょ?」
「それは…いいんです」
「そう? まあそうよね。子育てなんて大変だものね」
「そういうわけじゃ…」
「ああ、いいのいいの。わかってるから」
園長は余計な口出ししてごめんなさいね、と謝り、他のスタッフに呼ばれて職員室を出て行った。
那智も出されたお茶を飲み干すと、すぐに職員室を出る。
玄関に向かって廊下を歩いていると、園長の声が聞こえてきた。
「…でも、引き取り先だって簡単には見つからないし」
(え…?)
何か不穏な空気を感じて、那智は足を止める。すぐ脇の部屋のドアが、少し開いていることに気が付いた。声はそこから漏れてきているようだ。
那智はそっとドアに近付き、聞き耳を立てる。
「やっぱり、閉鎖するしかないんでしょうか」
園長とスタッフの話し声が聞こえた。施設の運営についての話をしているようだ。
(閉鎖って、まさか…?)
資金繰りが厳しいのは知っていたけれど、まさか施設の閉鎖を考えるほどだったとは。
もしかして、だからさっき美奈を引き取る話をしてきたのだろうか。那智にその気がないことくらい、とっくに園長は知っているはずだから妙だとは思っていたけれど。
那智は足音を立てないように、注意しながらその場を離れる。
外に出て庭の方に回り、木々の間からそっと中を覗く。
長縄跳びをしている集団の中に、美奈の姿を見つけた。顔つきはここからではよく見えないが、少し色素の薄い柔らかそうな髪が、母親によく似ていると思う。赤い花柄のスカートを閃かせて、何がそんなに面白いのか、満面の笑みで跳び回っている。キャッキャした笑い声がここまで聞こえてくるような気がして、那智は頬を緩めた。
「よく寒くないよなあ」
この寒空の下あんな薄着で、と感心したように呟いた時だった。
「こんな所にいたのか」
突然背後から聞こえた声に、はっとして振り返ると、いつものスーツ姿の東藤が立っていた。
「なんで…?」
もしかして、後をつけられていたのだろうか。
いや、那智がホテルを出た時、彼はまだ眠っていたのだ。あの後すぐに起きて部屋を出てきたとしても、そんなことは出来ないと思う。
ならばなぜ。偶然この近くを通ったとでも言うのか。
「たまたま通りかかっただけだよ」
那智の疑問に、東藤は真面目に答える気はないらしい。この話は終わりとばかりに軽く肩を竦め、那智の見ていた方向に目をやり、くすりと笑う。
「こんな所から覗いてると、変質者みたいに思われるよ」
「なにそれ。ちょー失礼」
拗ねたように唇を尖らせ、那智は再び子ども達の方に視線を戻す。
「ここ、身寄りのない子ども達のための施設だろう」
「…知ってたんだ」
那智は少しだけ驚いて東藤の顔を見つめる。
「どうしてこんな所にいるんだ? もしかして、那智…は、ここで育ったのか?」
「ちがうよ」
妙な間に若干眉を顰めながらも、那智は首を横に振り、子ども集団の中の一人を目線で指し示す。
「あの子、美奈っていうんだけど、俺の妹なんだ」
「妹?」
長縄は飽きたのか、今度は鉄棒を始めた美奈を顎で示す。スカートなのに逆上がりなんかして中が見えそうになっているが、本人は全く気にしていないらしい。
東藤は心底驚いたような顔をして、那智とその女の子を交互に見つめる。
「そうだったのか」
しばらく二人は、遊んでいる子ども達の様子を無言で眺めていた。やがて子ども達は、施設のスタッフに呼ばれて建物の中に入っていった。
庭に誰もいなくなってから、東藤は静かに口を開いた。
「声、かけなくて良かったのか?」
「うん」
さっき会ってきた、なんてことは東藤には言わない。言う必要もない。
「お前、もしかして…」
東藤が何か言いかけていた。しかし彼は、那智が振り向くと、小さく首を振って口を閉ざしてしまう。
「いや、なんでもない」
「なに? 気になるんだけど」
「那智に妹がいるのが、意外だなって思っただけだよ」
「そう? まあ、お袋がおやじと離婚した後に出来た子どもだから、半分しか血は繋がってないけど」
「…そうか」
那智は誰もいなくなった施設の庭を、何か眩しいものを見るように見つめる。
そうして、改めて決意する。
東藤は、自分がここへやって来た理由を、妹の様子を見るためだとしか思っていないかもしれない。
けれど、実際にはそれだけではない。
こういった施設は、今はどこも資金不足で、経営が難しい状況にある。美奈のいるこの施設も例外ではない。
一年ほど前、資金繰りが難しくなっているという話を偶然聞いて、それ以降那智はここへ寄付をしている。
施設の人たちはすごく感謝してくれるが、那智としては、ただ妹の居場所を守りたかっただけだ。それに、所詮は麻雀で稼いだ金。決して綺麗な金ではないことはわかっている。
それでも、残されたたった一人の家族のために、何か出来ることをしたかった。
「ここにいる子達はさ、みんなここが好きなんだって」
「え…?」
「園長先生もスタッフもみんないい人だし、友達もたくさんいるから寂しくない。だから…」
気が付けば、口から勝手にそんな言葉が零れていた。
那智は俯いて苦笑する。
何を言っているのだろう。こんな話を聞かされても、東藤は困るだけだろうに。
「ごめん。東藤さんにこんな話してもしょうがないよな」
「いや…。今日はどうする? やめとくか?」
気分を切り替えるように東藤が言う。那智は小さく首を横に振った。
「行くよ」
休んでる場合ではない。一円でも多く稼がなければ。少し身体がだるいくらいで弱音を吐いていては、妹の居場所を守ることなど不可能だ。
那智は施設に背を向けると、しっかりした足取りで雀荘へ向かって歩き始めた。
✦✦✦
しかし、事はそう上手くはいかない。
チッと舌打ちをして、目の前に積んである牌山を乱暴に崩した。
(くそ。なにやってんだよ、俺)
また負けた。今日も完全に那智のミスだ。
最初は良かったのだ。いつも通りコンビネーションも良かった。しかし、後半那智の判断ミスが目立ってきた。それでも勝てていたから、もう一回くらい、あと半荘くらいなら問題ないと思っていた。東藤はもう今日は終わりにして帰ろうと言っていたのに、那智は聞かなかった。
その結果がこれだ。二日連続で負けるなんて信じられない。昨日、勝負を急ぐと失敗することを学んだばかりなのに、全く生かせていなかった。
無言で店を出て、東藤の後をついて歩く。彼は何も言わない。呆れているのだろうか。忠告も聞かずに、結局負けて自分の首を絞めている。那智自身も呆れ果てているのだ。東藤が呆れていても仕方ないと思った。
(あれ…?)
ふと周りの景色を見て那智は首を傾げた。
東藤は那智のアパートのある方向に向かっている。この辺りは住宅街しかないと思うのに、いったいどこへ行く気なのだろうか。まさか、那智の部屋に行くつもりなのか。
「ねえ、どこ行くの?」
慌てて声をかけた時には、すでにいつも別れる丁字路のすぐそばまで来ていた。
東藤は立ち止まって振り返ると、ふっと微笑む。
「今日は帰りな」
「え…?」
どうして? 那智は戸惑いを表情に乗せたまま東藤の顔を見上げた。
すると、腕が背中に回ってきて軽く抱き締められる。
「身体、辛いだろ」
そう言って腰の辺りを撫でられる。
那智はきゅっと唇を噛み締めて、東藤の顔を睨み付けた。
「馬鹿にしてんの?」
それとも同情しているのか。こんなどうしようもない自分でも、負けた分はしっかり払うと決めている。情けをかけられるいわれはない。
「そうじゃない。今日は俺もこの後用事があるから」
だから今はこれだけ、そう言って顎に手をかけられ唇を塞がれた。
那智は驚きで一瞬身体を硬直させる。けれど、宥めるように背中を撫でられ、柔らかく舌を吸われて、自然に瞼が落ちていった。歯列の裏を舐められ、身体が小さく震える。頭がぼうっとして、ここが外だということも忘れ口付けに夢中になった。
喉を鳴らして唾液を飲み込むと、ゆっくりと唇が離れる。
抱擁が解かれ二人の間に冷たい空気が入り込んでくると、一気に冷静さが戻って来た。
何をやっているんだ。キスに夢中になるなんて、信じられない。
熱くなった頬に東藤の指先が触れる。
「続きはまた今度な」
もう一度キスされるのではと思うほどの至近距離で囁かれて、那智の頬が真っ赤に染まる。
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