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3.メリット
3-4
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東一局。
配牌から七対子二向聴の那智は、心の中でガッツポーズをとった。
昨日まで調子が悪かったのが嘘のようだ。まるで透明な牌を使っているかのように、この先ツモる牌も、相手の手の内もわかる。
腕は落ちていない。
意気揚々と打ち始め、三巡目ですぐに聴牌した。
(よし!)
勝てる。そう思って牌を切った時だった。
「ロン」
(え…)
対面の男が手牌を倒すのを、那智は信じられない思いで見つめた。
「八千点だ」
「……」
男はにやりと笑った。
今和了った対面の男と、上家の男は初対面だ。強いと噂される打ち手はあらかじめチェックしているが、その中にも入っていない。
だがなんだろう。妙な感じがする。
東二局。
再び聴牌出来たものの、那智は悩んでいた。
(断么九平和三色同順ドラ二。ヤミでも一万二千だけど、立直かけて一発乗れば倍満だしな)
さっき負けた分取り戻さなければならない。けれどこのままいくと、那智のツモる所に和了り牌はない。
出和了りしかない状況で、上手く一発が出るだろうか。
相手の手の進み具合を読もうと、改めて三人の捨て牌を見て、那智は妙なことに気付いた。
(なんか…捨て牌おかしくない?)
本来捨てられるべきではない牌が捨てられている。相手が那智の理解の範疇を超えた、特異な打ち方をしているのだろうか。けれど、他の二人はまだしも、下家の男は前に打った時は平凡な打ち方をしていた。
嫌な予感がする。
「ロン。三千九百だ」
再びの振り込みに、那智は強く手を握り締めた。
東二局、二本場。
(やっぱりおかしい)
一人だけではない。三人が三人共、捨て牌がおかしい。
那智も全てが見えるわけではないが、こう毎回奇妙なことが起これば、さすがに確信出来る。
那智は上目遣いに対面の男を睨め付けた。
おそらく、この三人はぐるだ。やり方はまだわからないが、対面の男を和了り役にして、彼に牌を回している。
三人分の牌を使えば聴牌も速いし、さすがの那智も手牌を読むことは難しい。
(まずいな)
今日はまだ一円も稼いでいない。彼らに負けたら、施設の借金を返すどころではなくなる。
「ロン。満貫」
「っ!」
どうしたら良いのかわからないまま、また対面の男に和了られる。
那智の点数は残り八百点。
絶体絶命の大ピンチ。
イカサマをしている証拠が見つかればいいのだが、彼らには隙が感じられない。
負けじと那智も積み込みなどの技を使う隙を狙うが、常に三人の内の誰かしらの目が向けられている状態で、それは不可能だった。
「これで終わりだな」
対面の男はにやりと笑みを浮かべる。
「ツモ。二千二百オールだ」
(…うそ)
負けた…?
頭の中が真っ白になる。
膝の上で握った拳が小さく震える。
那智は、男達の勝ち誇った顔から目を逸らすように俯いた。
どうしよう。
考えたところで、金など持っていないのだからどうしようもない。両脇の二人が立ち上がる気配に、なす術もなく唇を噛む。これから起こることを想像して全身に鳥肌がたった。
いやだ。怖い。逃げ出したい。
東藤以外の人に、抱かれたくなんかないのに──。
そんな思いがふいに頭を過った瞬間、那智のすぐ脇に何かが叩きつけられる音がした。
「え…」
それは、最初に男が見せてきたものと、ほぼ同じ枚数の一万円札の束。
ゆっくりと振り返ると、見慣れた微笑みがそこにあった。
「こいつは俺の連れだ。負けた分は俺が払おう」
「…東藤、さん…」
ほっと肩の力が抜ける。今までもかっこいい人だと思ってはいたけれど、今ほど頼もしく思えたことはなかった。
それと同時に、クエスチョンマークが頭に浮かぶ。
どうして彼は、那智がこんな大金を賭けたことを知っているのか。
最初から見ていたということはないだろう。もし見ていたなら止めていたはず。
訊きたい事はたくさんあったけれど、声が出てこなかった。それに、さっきから東藤は那智の方を見てくれない。わざと避けられているような気がする。
「な…! てめぇっ!」
「金を払えば文句ないだろう。行くぞ」
那智を誘ってきた男が声を荒げるのをさらりとかわして、東藤は店の出口へと向かう。
腕を掴まれた那智は、椅子から転がるように立ち上がり、彼の後を追った。
無言でずんずん進んでいく東藤に何も言うことが出来ず、以前来たホテルに再び連れ込まれる。
勢いよくベッドに投げ出され、那智は顔を顰めた。
「東藤さん…?」
東藤は怖い顔をしたまま、荒々しくスーツの上着を脱ぎ捨て、ネクタイを緩める。
すぐさま覆い被さってきて、那智は逃げるように後退さった。
「なんで一人で打った?」
どうやら東藤は、那智が勝手に一人で打ったことに腹を立てているようだ。
「俺がいなかったら、今頃どうなってたかわかってるのか?」
責めるような言い方にカチンとくる。気が付けば、口から勝手に言葉が飛び出していた。
「そんなの東藤さんには関係ない。俺がなにしようと俺の勝手だろ」
「なっ…!」
東藤は大きく目を瞠り硬直している。
さっきは正直東藤が来てくれて助かった。感謝もしているけれど、こんな風に理由も聞かずに横柄な態度をとられると、素直に礼を言う気も、謝る気も失せてしまった。
那智は意を決してゆっくりと口を開いた。
「俺、もうあんたと組むのやめるから」
「──なに…」
東藤は突然のコンビ解散発言に驚きで声も出ないのか、なんで、と唇だけで告げて固まった。
呆然としている東藤の身体を押し戻し起き上がろうとしたけれど、我に返ったらしい彼に強く手首を掴まれ再びベッドに押し付けられる。
「ちょっ! 放せってば!」
「だめだ。許さない」
「なっ!」
「俺と別れたら、お前は今日みたいに、また自分の身体を賭けて打つつもりなんだろう。そんなのだめだ」
「い、や…っなせよ!」
懇親の力を振り絞って自分の上に跨る男を突き飛ばした。
肩で息をしながら荒くなった呼吸を整える。
「そうだよ」
「那智…っ」
「俺は金が欲しいんだ。もう一円だって無駄にしたくない。勝つ気がない奴と組むつもりもない」
「じゃあお前は、見ず知らずの男にあんなことさせるのかっ?」
「…あんたに言われたくない」
声が震えた。どうしてだろう、目の奥が熱い。まるで泣き出す直前みたいに。興奮しているからだろうか。
「さんざん、人のこと好き勝手したくせに。あんただって、どうせ身体目当てだったんだろ……っ」
「そうじゃない」
「じゃあなんだよっ? 俺が失敗した方がいいんだろって訊いた時も、否定もしなかったくせにっ!」
その時、唐突に理解した。
どうしてこんなに苦しいのか。
東藤に、勝負のことなどどうでもいいと、寧ろ負けた方がいいとまで言われたことに、こんなにもショックを受けているのはなぜなのか。
那智は、東藤と一緒に麻雀を打てることが楽しかったのだ。二人で組んで、勝利のために呼吸を合わせて戦うのがとても楽しかった。
自分の力を認められて、誰かに必要とされていると思えた。
那智にとって、かけがえのない時間だった。
それなのに、東藤にとってはそうではなかったのだ。
那智が大事にしていた時間は、東藤にしてみれば無駄な浪費でしかなかった。さっさと負けて、セックス出来ればそれでよくて──。
「好きだからだよ」
「──え…?」
ふいに聞こえてきた聞きなれない単語に、今までの勢いが嘘のように、唖然として東藤の顔を見つめた。
「那智が好きだから、自分を犠牲にするようなことをして欲しくない」
「えっ、な…うそ…」
どんな反応をすればいいのかわからず、那智は片手で口許を覆う。
東藤は、言うつもりはなかったんだけどな、と苦笑した。
しばらくの間、二人は黙ったままベッドの上に座りこんでいた。
好き? それは、恋愛感情ということだろうか。
ちらちらと東藤の様子を窺うも、彼は俯いたまま那智と目を合わせようとはしなかった。沈黙が気まずくなり始めた頃、東藤が鞄の中からなにやら細長い紙を取り出す。
「那智、これ」
「なに…?」
見せられたそれは、小切手だった。
「金で解決することなら、俺がなんとかする」
「東藤さん…」
東藤は那智が大金を必要としている理由を聞かなかった。勘付いているのか、それとも、那智のことを信じているのか。もしかしたら、その両方かもしれない。
「お前も、お前の大事なものも、全部俺が守るから。それじゃあだめなのか?」
「っ!」
真摯な告白の言葉に、胸が締め付けられる思いがした。顔がじわじわと熱を持ち始める。
「東藤さんは、俺が負けると思ってるの?」
「…那智は強いよ。けど、百パーセント勝てるとは限らないだろう? 今日みたいなことだってある」
返す言葉もなかった。
差し出された小切手をじっと見つめる。受け取ってしまってもいいのだろうか。その小さな紙切れに視線を落としたまま固まってしまった那智の手に、東藤が小切手を握らせる。そのまま両手で握った手を包むようにされて、迷いがどこかへ消えていった。
「…ありがと」
那智は微笑んで顔を寄せると、そっと唇を重ねた。ぎこちない子どもみたいなキスだった。しがみつくように抱き付くと、そっとベッドの上に寝かされて、改めて唇を塞がれる。
売春だろうがなんだろうが、そんなことはもうどうでもいい。理由なんて後からいくらでも考える。
ただ、今一番大事なのは、これで妹の施設を救うことが出来るということと、今だけは、東藤の気持ちに応えなければならないということ。それ以外の複雑な思いは、全部見て見ぬふりをする。
覚悟を決めるように身体の力を抜き、口付けに意識を集中させた。舌を絡め取られ強く吸われる。舌先で歯列を辿られ、上顎をくすぐるように舐められると、背筋にぞくぞくとした快感が走った。上手く呼吸が出来ていないのかもしれない。頭に酸素が回らず、ぼんやりして何も考えられなくなる。
けれど、長い口付けから開放されると、東藤はそのまま那智の上から退いた。
「え…東藤さん?」
彼はそのまま部屋を出て行こうとする。
「このまま抱いたら、好きな子を金で買うことになるだろう。少し頭冷やしてくる」
そう言って、声をかける間もなく出て行ってしまった。
「金で買うって、今さら…」
それじゃあ今までは違ったのか。そこに大した違いなんてないだろうに。
一人になると急に静かになったような気がした。
窓に叩き付けられる水滴の音に、雨が降っていることに今頃気が付く。
(東藤さん、風邪ひかないかな)
残された小切手に書かれた彼の手書きの文字を、那智は長い間じっと見つめていた。
その夜、結局東藤が戻って来ることはなかった。
配牌から七対子二向聴の那智は、心の中でガッツポーズをとった。
昨日まで調子が悪かったのが嘘のようだ。まるで透明な牌を使っているかのように、この先ツモる牌も、相手の手の内もわかる。
腕は落ちていない。
意気揚々と打ち始め、三巡目ですぐに聴牌した。
(よし!)
勝てる。そう思って牌を切った時だった。
「ロン」
(え…)
対面の男が手牌を倒すのを、那智は信じられない思いで見つめた。
「八千点だ」
「……」
男はにやりと笑った。
今和了った対面の男と、上家の男は初対面だ。強いと噂される打ち手はあらかじめチェックしているが、その中にも入っていない。
だがなんだろう。妙な感じがする。
東二局。
再び聴牌出来たものの、那智は悩んでいた。
(断么九平和三色同順ドラ二。ヤミでも一万二千だけど、立直かけて一発乗れば倍満だしな)
さっき負けた分取り戻さなければならない。けれどこのままいくと、那智のツモる所に和了り牌はない。
出和了りしかない状況で、上手く一発が出るだろうか。
相手の手の進み具合を読もうと、改めて三人の捨て牌を見て、那智は妙なことに気付いた。
(なんか…捨て牌おかしくない?)
本来捨てられるべきではない牌が捨てられている。相手が那智の理解の範疇を超えた、特異な打ち方をしているのだろうか。けれど、他の二人はまだしも、下家の男は前に打った時は平凡な打ち方をしていた。
嫌な予感がする。
「ロン。三千九百だ」
再びの振り込みに、那智は強く手を握り締めた。
東二局、二本場。
(やっぱりおかしい)
一人だけではない。三人が三人共、捨て牌がおかしい。
那智も全てが見えるわけではないが、こう毎回奇妙なことが起これば、さすがに確信出来る。
那智は上目遣いに対面の男を睨め付けた。
おそらく、この三人はぐるだ。やり方はまだわからないが、対面の男を和了り役にして、彼に牌を回している。
三人分の牌を使えば聴牌も速いし、さすがの那智も手牌を読むことは難しい。
(まずいな)
今日はまだ一円も稼いでいない。彼らに負けたら、施設の借金を返すどころではなくなる。
「ロン。満貫」
「っ!」
どうしたら良いのかわからないまま、また対面の男に和了られる。
那智の点数は残り八百点。
絶体絶命の大ピンチ。
イカサマをしている証拠が見つかればいいのだが、彼らには隙が感じられない。
負けじと那智も積み込みなどの技を使う隙を狙うが、常に三人の内の誰かしらの目が向けられている状態で、それは不可能だった。
「これで終わりだな」
対面の男はにやりと笑みを浮かべる。
「ツモ。二千二百オールだ」
(…うそ)
負けた…?
頭の中が真っ白になる。
膝の上で握った拳が小さく震える。
那智は、男達の勝ち誇った顔から目を逸らすように俯いた。
どうしよう。
考えたところで、金など持っていないのだからどうしようもない。両脇の二人が立ち上がる気配に、なす術もなく唇を噛む。これから起こることを想像して全身に鳥肌がたった。
いやだ。怖い。逃げ出したい。
東藤以外の人に、抱かれたくなんかないのに──。
そんな思いがふいに頭を過った瞬間、那智のすぐ脇に何かが叩きつけられる音がした。
「え…」
それは、最初に男が見せてきたものと、ほぼ同じ枚数の一万円札の束。
ゆっくりと振り返ると、見慣れた微笑みがそこにあった。
「こいつは俺の連れだ。負けた分は俺が払おう」
「…東藤、さん…」
ほっと肩の力が抜ける。今までもかっこいい人だと思ってはいたけれど、今ほど頼もしく思えたことはなかった。
それと同時に、クエスチョンマークが頭に浮かぶ。
どうして彼は、那智がこんな大金を賭けたことを知っているのか。
最初から見ていたということはないだろう。もし見ていたなら止めていたはず。
訊きたい事はたくさんあったけれど、声が出てこなかった。それに、さっきから東藤は那智の方を見てくれない。わざと避けられているような気がする。
「な…! てめぇっ!」
「金を払えば文句ないだろう。行くぞ」
那智を誘ってきた男が声を荒げるのをさらりとかわして、東藤は店の出口へと向かう。
腕を掴まれた那智は、椅子から転がるように立ち上がり、彼の後を追った。
無言でずんずん進んでいく東藤に何も言うことが出来ず、以前来たホテルに再び連れ込まれる。
勢いよくベッドに投げ出され、那智は顔を顰めた。
「東藤さん…?」
東藤は怖い顔をしたまま、荒々しくスーツの上着を脱ぎ捨て、ネクタイを緩める。
すぐさま覆い被さってきて、那智は逃げるように後退さった。
「なんで一人で打った?」
どうやら東藤は、那智が勝手に一人で打ったことに腹を立てているようだ。
「俺がいなかったら、今頃どうなってたかわかってるのか?」
責めるような言い方にカチンとくる。気が付けば、口から勝手に言葉が飛び出していた。
「そんなの東藤さんには関係ない。俺がなにしようと俺の勝手だろ」
「なっ…!」
東藤は大きく目を瞠り硬直している。
さっきは正直東藤が来てくれて助かった。感謝もしているけれど、こんな風に理由も聞かずに横柄な態度をとられると、素直に礼を言う気も、謝る気も失せてしまった。
那智は意を決してゆっくりと口を開いた。
「俺、もうあんたと組むのやめるから」
「──なに…」
東藤は突然のコンビ解散発言に驚きで声も出ないのか、なんで、と唇だけで告げて固まった。
呆然としている東藤の身体を押し戻し起き上がろうとしたけれど、我に返ったらしい彼に強く手首を掴まれ再びベッドに押し付けられる。
「ちょっ! 放せってば!」
「だめだ。許さない」
「なっ!」
「俺と別れたら、お前は今日みたいに、また自分の身体を賭けて打つつもりなんだろう。そんなのだめだ」
「い、や…っなせよ!」
懇親の力を振り絞って自分の上に跨る男を突き飛ばした。
肩で息をしながら荒くなった呼吸を整える。
「そうだよ」
「那智…っ」
「俺は金が欲しいんだ。もう一円だって無駄にしたくない。勝つ気がない奴と組むつもりもない」
「じゃあお前は、見ず知らずの男にあんなことさせるのかっ?」
「…あんたに言われたくない」
声が震えた。どうしてだろう、目の奥が熱い。まるで泣き出す直前みたいに。興奮しているからだろうか。
「さんざん、人のこと好き勝手したくせに。あんただって、どうせ身体目当てだったんだろ……っ」
「そうじゃない」
「じゃあなんだよっ? 俺が失敗した方がいいんだろって訊いた時も、否定もしなかったくせにっ!」
その時、唐突に理解した。
どうしてこんなに苦しいのか。
東藤に、勝負のことなどどうでもいいと、寧ろ負けた方がいいとまで言われたことに、こんなにもショックを受けているのはなぜなのか。
那智は、東藤と一緒に麻雀を打てることが楽しかったのだ。二人で組んで、勝利のために呼吸を合わせて戦うのがとても楽しかった。
自分の力を認められて、誰かに必要とされていると思えた。
那智にとって、かけがえのない時間だった。
それなのに、東藤にとってはそうではなかったのだ。
那智が大事にしていた時間は、東藤にしてみれば無駄な浪費でしかなかった。さっさと負けて、セックス出来ればそれでよくて──。
「好きだからだよ」
「──え…?」
ふいに聞こえてきた聞きなれない単語に、今までの勢いが嘘のように、唖然として東藤の顔を見つめた。
「那智が好きだから、自分を犠牲にするようなことをして欲しくない」
「えっ、な…うそ…」
どんな反応をすればいいのかわからず、那智は片手で口許を覆う。
東藤は、言うつもりはなかったんだけどな、と苦笑した。
しばらくの間、二人は黙ったままベッドの上に座りこんでいた。
好き? それは、恋愛感情ということだろうか。
ちらちらと東藤の様子を窺うも、彼は俯いたまま那智と目を合わせようとはしなかった。沈黙が気まずくなり始めた頃、東藤が鞄の中からなにやら細長い紙を取り出す。
「那智、これ」
「なに…?」
見せられたそれは、小切手だった。
「金で解決することなら、俺がなんとかする」
「東藤さん…」
東藤は那智が大金を必要としている理由を聞かなかった。勘付いているのか、それとも、那智のことを信じているのか。もしかしたら、その両方かもしれない。
「お前も、お前の大事なものも、全部俺が守るから。それじゃあだめなのか?」
「っ!」
真摯な告白の言葉に、胸が締め付けられる思いがした。顔がじわじわと熱を持ち始める。
「東藤さんは、俺が負けると思ってるの?」
「…那智は強いよ。けど、百パーセント勝てるとは限らないだろう? 今日みたいなことだってある」
返す言葉もなかった。
差し出された小切手をじっと見つめる。受け取ってしまってもいいのだろうか。その小さな紙切れに視線を落としたまま固まってしまった那智の手に、東藤が小切手を握らせる。そのまま両手で握った手を包むようにされて、迷いがどこかへ消えていった。
「…ありがと」
那智は微笑んで顔を寄せると、そっと唇を重ねた。ぎこちない子どもみたいなキスだった。しがみつくように抱き付くと、そっとベッドの上に寝かされて、改めて唇を塞がれる。
売春だろうがなんだろうが、そんなことはもうどうでもいい。理由なんて後からいくらでも考える。
ただ、今一番大事なのは、これで妹の施設を救うことが出来るということと、今だけは、東藤の気持ちに応えなければならないということ。それ以外の複雑な思いは、全部見て見ぬふりをする。
覚悟を決めるように身体の力を抜き、口付けに意識を集中させた。舌を絡め取られ強く吸われる。舌先で歯列を辿られ、上顎をくすぐるように舐められると、背筋にぞくぞくとした快感が走った。上手く呼吸が出来ていないのかもしれない。頭に酸素が回らず、ぼんやりして何も考えられなくなる。
けれど、長い口付けから開放されると、東藤はそのまま那智の上から退いた。
「え…東藤さん?」
彼はそのまま部屋を出て行こうとする。
「このまま抱いたら、好きな子を金で買うことになるだろう。少し頭冷やしてくる」
そう言って、声をかける間もなく出て行ってしまった。
「金で買うって、今さら…」
それじゃあ今までは違ったのか。そこに大した違いなんてないだろうに。
一人になると急に静かになったような気がした。
窓に叩き付けられる水滴の音に、雨が降っていることに今頃気が付く。
(東藤さん、風邪ひかないかな)
残された小切手に書かれた彼の手書きの文字を、那智は長い間じっと見つめていた。
その夜、結局東藤が戻って来ることはなかった。
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