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4.繋がり
4-2
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「本当に、危険なことはしていないのね?」
念押しとばかりに、園長が深刻な顔つきで何度目かの同じ質問を繰り返す。
「大丈夫です」
那智がそれに笑って頷くと、やっと園長も納得したように表情を緩めた。
東藤から受け取った小切手を持って施設にやってきたところ、最初園長はとても困惑した表情を見せた。
それもそうだろう。普通は、そうそうタイミングよく大金が手に入るはずもない。しかも園長は、以前から那智がどうやって金を作っているのか、不思議に思っていたようだった。
麻雀で稼いだ金だとは言えなかった。それでも園長は、最後は那智のことを信じてくれたようだ。
これでしばらくはここも安泰らしい。それを聞いて、那智は心底安心した。
園長が小切手を持っていったん席を離れると、那智はほっと息を吐いてソファに沈み込む。
窓から庭が見えた。数は少ないが、ブランコや鉄棒など、いくつかの遊具は揃っている。その中の一つに那智は目を止めた。
「え、あれって…」
那智の記憶に引っかかったのは、黄色と黄緑色のペンキで塗られたジャングルジムだ。天辺のところがアーチ状になっている形は、つい最近別の場所で見たような気がした。
どこだろう。普段は家と雀荘の往復がほとんどで、公園なんて行かないから、ここ以外でそんなものを目にする機会はない。
記憶を手繰り寄せてふと浮かんだのは、一枚の写真だった。ジャングルジムの上でブイサインをする小さな男の子の写真。
はっ、と息を呑んで那智はもう一度庭を見る。
間違いない。頂上にアーチのある独特の形。写真のジャングルジムはピンクと水色に塗られていたが、二十年近く経てばペンキの塗り替えがされていて当たり前だ。
ではいったいなぜ、幼い頃の東藤がここで写真を撮っているのだろう。
──那智…は、ここで育ったのか?
以前訊かれた言葉を思い出してみる。あの妙な沈黙が気になっていた。
まさかと思いながらも、戻ってきた園長に訊ねる。
「あの、東藤って名前に心当たりありますか?」
「東藤?」
園長は首を傾げて難しい顔をする。すぐには思い付かないようだった。
やはり考え過ぎかと思ったところで、もしかしたらここにいた間は名字が違ったのかもしれないことに思い至る。
彼の下の名前は蓮だ。それを告げると、園長はぱっと顔を輝かせた。
「思い出した。蓮ちゃんね」
「蓮ちゃん?」
今の藤堂と、蓮ちゃんという呼び名に違和感を覚える。園長にとっては普通のことなのだろうが。
「蓮ちゃんはすっごく頭が良かったから、大きな会社の跡取りとして引き取られたのよ」
小学生の時だったかしら、と懐かしそうに彼女は語る。東藤がここで育ったなんて、にわかには信じられなかった。けれど同時に、那智の頭の中で、バラバラだったパズルのピースがはまっていく感じがしていた。
偶然施設の前で会ったこと、金持ちで住んでいるマンションも高級マンションなのに、お坊ちゃんという感じはしなくて、どこか自分と似た空気を感じていた。ここで育ったというなら納得出来る。
あの妙な間は、那智もここで育ったのかと言おうとして、言い換えるために出来たものだったに違いない。
しかし、まだピースが足りない。
「その、大きな会社ってなんて会社ですかっ?」
突然食ってかかるように必死になった那智の態度に、園長は驚いてぱちぱちと瞬きをする。
とにかく東藤に会わなければ。那智の頭の中はそれだけでいっぱいだった。
✦✦✦
目の前に聳え立つ高層ビルを見上げて、那智は唖然とする。
国内でも有数の大企業だとは聞いていたけれど、これほどのものだとは思わなかった。
(こ、これ、俺が入っても怒られたりしないかな)
とりあえず、一階ならコンビニも入っているくらいだから、一般人が入っても問題ないだろうと自動ドアをくぐる。
目の前にあった受付で、東藤のことを訊いてみることにした。
「アポイントメントはございますか?」
「あぽ…?」
(ってなに?)
那智はちらりと、各フロアの案内を見上げた。六十階建てのビルのほとんどに、東藤の会社やその関連会社のオフィスや店舗が入っているらしい。ロビーを横切る人々はスーツ姿のサラリーマンが多く、明らかに自分は浮いていた。
(帰ろっかな)
ここで待っていても東藤に会えるとは思えない。それならまだ、彼のマンションで待っている方が確実だろう。いても立ってもいられなくなって来てしまったけれど、そもそも彼に会ったところで、いったい何を話すというのだ。
そう思って、受付を離れようとした時だった。
「那智…?」
「っ! 東藤さん…」
振り返ると、いつもと同じ姿の東藤がいた。雀荘では寧ろ場違いですらあった高価なスーツ姿は、こうしてみると、なるほど見事にマッチしている。ここが彼の本来いるべき場所なのだと、一瞬で納得させられた。
住む世界が違う。
それなのに。
「どうした? なにかあったのか?」
駆け寄ってくる彼の姿を見ると、知らない場所で心細くなっていたところで光を見つけた時のような、そんな安心感があった。
首を傾げて優しい眼差しを向けてくる東藤の顔に、一瞬見惚れてしまう。
「那智?」
「え? あ、えっと…」
那智は特別用事があって来たわけではない。園長から東藤の事を聞いて、衝動的にやって来てしまっただけで。
必死に言い訳を考えていると、彼は微笑みを浮かべたまま背中に腕を回してくる。
「とりあえず、座ってゆっくり話そうか」
そう言われ、ロビーのソファが置いてある所に案内される。
東藤は自販機で紙コップに入ったコーヒーを買い、那智の前に置いてくれた。
「どうぞ」
「…ありがとうございます」
砂糖とミルクがたっぷり入ったそれに口を付けながら、ちらりと目の前に座る男の顔を盗み見る。東藤は自分用に買ったブラックコーヒーを飲みながら、窓の外を眺めていた。那智が話し始めるのを待っているようにも見える。
「あのさ…」
「うん?」
「…あぽなんとかって、なに?」
「──ああ、アポイントメント?」
「そうそれ」
「事前にお約束はしてありますかって意味だよ」
「ふーん」
初めて知った。だったら最初からそう言ってくれればいいのに。
(──って、そうじゃなくて)
「あのさ」
何か話さなければ、そう思って口を開くけれど、いざとなると何も頭に浮かんでこない。
口籠もってしまう那智に助け舟を出すように、東藤が声をかけてきた。
「ここ、園長に聞いたの?」
那智が頷くと、彼は懐かしそうに目を細めた。
「そっか。よく覚えてたな。もう二十年近く前のことなのに」
その時はまだ、園長は園長ではなく、普通のスタッフだったそうだ。
那智が改めて昨日の小切手の件の礼を言い、施設に寄付してきたことを告げると、東藤は口許に笑みを浮かべる。
「俺があのお金どうするつもりだったのか、知ってた?」
「いや。もしかして、とは思ったけど。那智こそ、俺と施設が関係あるかもって、なんで気付いたんだ?」
「写真、見つけて」
「写真?」
「子どもの頃の東藤さんの写真。施設の庭で撮ったやつ。前に東藤さんの家に行った時に、偶然見つけた」
東藤はしばらく何かを考えるような素振りをし、やがて思い出したのか、ああ、と納得したように声を上げる。
「あの写真か。どこにあった?」
「童話の本に挟んであったよ。リビングの本棚の」
なるほどね、と彼は何度か頷く。あの本は、施設を去る時に園長がくれたものらしい。
会話が途切れ、那智はロビーの中に視線を巡らせる。
高い天井、ピカピカに磨き抜かれた床、行き交う人々は、皆品の良いスーツを着て足早に通り過ぎて行く。
以前、居酒屋で東藤に、普段は何をしているのか訊ねたことがあった。彼はエリートサラリーマンだと言っていて、那智は全く信じていなかったけれど、それは本当だったのだ。
けれどそうすると一つ疑問が生じる。
「東藤さんって、いつ仕事してるの?」
毎日のように一緒に麻雀を打ちに行っていたのだ。それも夕方から。会社に行く時間なんてあったのだろうか。
「俺はだいたい夜中勤務なんだよ」
この会社には、二十四時間体勢で稼動している工場がある。その深夜管理と、海外支社との連絡をとるのが主な仕事だったらしい。
「けど、それももう終わるんだけどな」
「え?」
「異動になったんだ」
部署異動により、東藤は来月から夜間ではなく、通常の平日昼間の勤務になるらしい。
「だから、那智と一緒に打ちに行くのも、もう終わりだね」
「そんな…」
呆然と東藤の顔を見つめる。ショックを受ける那智をからかうように、東藤が頬をつついてきた。
「なんだよ。お前もそのつもりだったんだろ?」
「それは、だって…」
確かに昨日、那智の方からもう一緒に打つのはやめると言ったけれど、あの時と今とではいろいろ状況が異なっている。
施設の借金の件もあったし、東藤が自分に好意を持ってくれていることも知らなかった。
この先どうするべきなのか、陣内の言葉もあって、考え直そうと思っていたところだったのに。
「そっちだって、一人で打つなんて許さないとか言ってたくせに」
「まあ、あの時は頭に血が上ってたからな」
そう言って苦笑するけれど、多分、あれが東藤の本音だったのだろう。
「那智、一つだけお願いがあるんだけど」
「…なに?」
改まった口調で言われ、背筋に緊張が走る。
「最後に、もう一回だけ一緒に打ってくれないか?」
「え…」
最後。
その言葉が頭の中をぐるぐると回って、言葉が出てこない。
「那智の言う通りだった。勝つ気がない奴と組んだってしょうがないよな。コンビ解消したいって言われても、俺には文句言えない。けど俺は、お金より、勝利より、もっと欲しいものがあったから」
「東藤さん…」
こんな所でそんな話をする東藤を、那智は恨めしく思った。言い返したいこともあるけれど、彼の職場で妙なことを言うわけにはいかない。
「…わかった」
「いいのか?」
「けど、今日は無理だから。いろいろ考えたいこともあるし、少し時間が欲しい」
「わかった」
東藤の休みに合わせて、次の週末に約束を取り付けると、那智は椅子から立ち上がった。
建物の外まで東藤が送ってくれる。ビルの隙間から見える空は、そろそろ赤味がかってくる頃だった。
念押しとばかりに、園長が深刻な顔つきで何度目かの同じ質問を繰り返す。
「大丈夫です」
那智がそれに笑って頷くと、やっと園長も納得したように表情を緩めた。
東藤から受け取った小切手を持って施設にやってきたところ、最初園長はとても困惑した表情を見せた。
それもそうだろう。普通は、そうそうタイミングよく大金が手に入るはずもない。しかも園長は、以前から那智がどうやって金を作っているのか、不思議に思っていたようだった。
麻雀で稼いだ金だとは言えなかった。それでも園長は、最後は那智のことを信じてくれたようだ。
これでしばらくはここも安泰らしい。それを聞いて、那智は心底安心した。
園長が小切手を持っていったん席を離れると、那智はほっと息を吐いてソファに沈み込む。
窓から庭が見えた。数は少ないが、ブランコや鉄棒など、いくつかの遊具は揃っている。その中の一つに那智は目を止めた。
「え、あれって…」
那智の記憶に引っかかったのは、黄色と黄緑色のペンキで塗られたジャングルジムだ。天辺のところがアーチ状になっている形は、つい最近別の場所で見たような気がした。
どこだろう。普段は家と雀荘の往復がほとんどで、公園なんて行かないから、ここ以外でそんなものを目にする機会はない。
記憶を手繰り寄せてふと浮かんだのは、一枚の写真だった。ジャングルジムの上でブイサインをする小さな男の子の写真。
はっ、と息を呑んで那智はもう一度庭を見る。
間違いない。頂上にアーチのある独特の形。写真のジャングルジムはピンクと水色に塗られていたが、二十年近く経てばペンキの塗り替えがされていて当たり前だ。
ではいったいなぜ、幼い頃の東藤がここで写真を撮っているのだろう。
──那智…は、ここで育ったのか?
以前訊かれた言葉を思い出してみる。あの妙な沈黙が気になっていた。
まさかと思いながらも、戻ってきた園長に訊ねる。
「あの、東藤って名前に心当たりありますか?」
「東藤?」
園長は首を傾げて難しい顔をする。すぐには思い付かないようだった。
やはり考え過ぎかと思ったところで、もしかしたらここにいた間は名字が違ったのかもしれないことに思い至る。
彼の下の名前は蓮だ。それを告げると、園長はぱっと顔を輝かせた。
「思い出した。蓮ちゃんね」
「蓮ちゃん?」
今の藤堂と、蓮ちゃんという呼び名に違和感を覚える。園長にとっては普通のことなのだろうが。
「蓮ちゃんはすっごく頭が良かったから、大きな会社の跡取りとして引き取られたのよ」
小学生の時だったかしら、と懐かしそうに彼女は語る。東藤がここで育ったなんて、にわかには信じられなかった。けれど同時に、那智の頭の中で、バラバラだったパズルのピースがはまっていく感じがしていた。
偶然施設の前で会ったこと、金持ちで住んでいるマンションも高級マンションなのに、お坊ちゃんという感じはしなくて、どこか自分と似た空気を感じていた。ここで育ったというなら納得出来る。
あの妙な間は、那智もここで育ったのかと言おうとして、言い換えるために出来たものだったに違いない。
しかし、まだピースが足りない。
「その、大きな会社ってなんて会社ですかっ?」
突然食ってかかるように必死になった那智の態度に、園長は驚いてぱちぱちと瞬きをする。
とにかく東藤に会わなければ。那智の頭の中はそれだけでいっぱいだった。
✦✦✦
目の前に聳え立つ高層ビルを見上げて、那智は唖然とする。
国内でも有数の大企業だとは聞いていたけれど、これほどのものだとは思わなかった。
(こ、これ、俺が入っても怒られたりしないかな)
とりあえず、一階ならコンビニも入っているくらいだから、一般人が入っても問題ないだろうと自動ドアをくぐる。
目の前にあった受付で、東藤のことを訊いてみることにした。
「アポイントメントはございますか?」
「あぽ…?」
(ってなに?)
那智はちらりと、各フロアの案内を見上げた。六十階建てのビルのほとんどに、東藤の会社やその関連会社のオフィスや店舗が入っているらしい。ロビーを横切る人々はスーツ姿のサラリーマンが多く、明らかに自分は浮いていた。
(帰ろっかな)
ここで待っていても東藤に会えるとは思えない。それならまだ、彼のマンションで待っている方が確実だろう。いても立ってもいられなくなって来てしまったけれど、そもそも彼に会ったところで、いったい何を話すというのだ。
そう思って、受付を離れようとした時だった。
「那智…?」
「っ! 東藤さん…」
振り返ると、いつもと同じ姿の東藤がいた。雀荘では寧ろ場違いですらあった高価なスーツ姿は、こうしてみると、なるほど見事にマッチしている。ここが彼の本来いるべき場所なのだと、一瞬で納得させられた。
住む世界が違う。
それなのに。
「どうした? なにかあったのか?」
駆け寄ってくる彼の姿を見ると、知らない場所で心細くなっていたところで光を見つけた時のような、そんな安心感があった。
首を傾げて優しい眼差しを向けてくる東藤の顔に、一瞬見惚れてしまう。
「那智?」
「え? あ、えっと…」
那智は特別用事があって来たわけではない。園長から東藤の事を聞いて、衝動的にやって来てしまっただけで。
必死に言い訳を考えていると、彼は微笑みを浮かべたまま背中に腕を回してくる。
「とりあえず、座ってゆっくり話そうか」
そう言われ、ロビーのソファが置いてある所に案内される。
東藤は自販機で紙コップに入ったコーヒーを買い、那智の前に置いてくれた。
「どうぞ」
「…ありがとうございます」
砂糖とミルクがたっぷり入ったそれに口を付けながら、ちらりと目の前に座る男の顔を盗み見る。東藤は自分用に買ったブラックコーヒーを飲みながら、窓の外を眺めていた。那智が話し始めるのを待っているようにも見える。
「あのさ…」
「うん?」
「…あぽなんとかって、なに?」
「──ああ、アポイントメント?」
「そうそれ」
「事前にお約束はしてありますかって意味だよ」
「ふーん」
初めて知った。だったら最初からそう言ってくれればいいのに。
(──って、そうじゃなくて)
「あのさ」
何か話さなければ、そう思って口を開くけれど、いざとなると何も頭に浮かんでこない。
口籠もってしまう那智に助け舟を出すように、東藤が声をかけてきた。
「ここ、園長に聞いたの?」
那智が頷くと、彼は懐かしそうに目を細めた。
「そっか。よく覚えてたな。もう二十年近く前のことなのに」
その時はまだ、園長は園長ではなく、普通のスタッフだったそうだ。
那智が改めて昨日の小切手の件の礼を言い、施設に寄付してきたことを告げると、東藤は口許に笑みを浮かべる。
「俺があのお金どうするつもりだったのか、知ってた?」
「いや。もしかして、とは思ったけど。那智こそ、俺と施設が関係あるかもって、なんで気付いたんだ?」
「写真、見つけて」
「写真?」
「子どもの頃の東藤さんの写真。施設の庭で撮ったやつ。前に東藤さんの家に行った時に、偶然見つけた」
東藤はしばらく何かを考えるような素振りをし、やがて思い出したのか、ああ、と納得したように声を上げる。
「あの写真か。どこにあった?」
「童話の本に挟んであったよ。リビングの本棚の」
なるほどね、と彼は何度か頷く。あの本は、施設を去る時に園長がくれたものらしい。
会話が途切れ、那智はロビーの中に視線を巡らせる。
高い天井、ピカピカに磨き抜かれた床、行き交う人々は、皆品の良いスーツを着て足早に通り過ぎて行く。
以前、居酒屋で東藤に、普段は何をしているのか訊ねたことがあった。彼はエリートサラリーマンだと言っていて、那智は全く信じていなかったけれど、それは本当だったのだ。
けれどそうすると一つ疑問が生じる。
「東藤さんって、いつ仕事してるの?」
毎日のように一緒に麻雀を打ちに行っていたのだ。それも夕方から。会社に行く時間なんてあったのだろうか。
「俺はだいたい夜中勤務なんだよ」
この会社には、二十四時間体勢で稼動している工場がある。その深夜管理と、海外支社との連絡をとるのが主な仕事だったらしい。
「けど、それももう終わるんだけどな」
「え?」
「異動になったんだ」
部署異動により、東藤は来月から夜間ではなく、通常の平日昼間の勤務になるらしい。
「だから、那智と一緒に打ちに行くのも、もう終わりだね」
「そんな…」
呆然と東藤の顔を見つめる。ショックを受ける那智をからかうように、東藤が頬をつついてきた。
「なんだよ。お前もそのつもりだったんだろ?」
「それは、だって…」
確かに昨日、那智の方からもう一緒に打つのはやめると言ったけれど、あの時と今とではいろいろ状況が異なっている。
施設の借金の件もあったし、東藤が自分に好意を持ってくれていることも知らなかった。
この先どうするべきなのか、陣内の言葉もあって、考え直そうと思っていたところだったのに。
「そっちだって、一人で打つなんて許さないとか言ってたくせに」
「まあ、あの時は頭に血が上ってたからな」
そう言って苦笑するけれど、多分、あれが東藤の本音だったのだろう。
「那智、一つだけお願いがあるんだけど」
「…なに?」
改まった口調で言われ、背筋に緊張が走る。
「最後に、もう一回だけ一緒に打ってくれないか?」
「え…」
最後。
その言葉が頭の中をぐるぐると回って、言葉が出てこない。
「那智の言う通りだった。勝つ気がない奴と組んだってしょうがないよな。コンビ解消したいって言われても、俺には文句言えない。けど俺は、お金より、勝利より、もっと欲しいものがあったから」
「東藤さん…」
こんな所でそんな話をする東藤を、那智は恨めしく思った。言い返したいこともあるけれど、彼の職場で妙なことを言うわけにはいかない。
「…わかった」
「いいのか?」
「けど、今日は無理だから。いろいろ考えたいこともあるし、少し時間が欲しい」
「わかった」
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