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2章 鏡よ鏡
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ピ、ピ、ピ、と規則正しく鳴る電子音。薬品の匂い。ベッドの周囲には、点滴ポールや医療機器が並んでいる。大きな掃き出し窓から差し込む光、内装や家具は家庭のものなのに、ベッドの周囲はまるで病室のようだった。
その様子だけで、隆平の母親の病はかなり重いことが分かる。
ああ、さっきリビングでした匂いは、この部屋からだったのか。由起也はそう理解するので精一杯だった。
「白石くん?」
隆平にそう呼びかけられ、由起也はハッとしてすぐに部屋の中に入った。ゆっくりとベッドに近づくとそこには、顔色は白く、やつれてはいるが、とても美しい女性がいた。ベッドの頭側半分が45度ほど起き上がっており、女性はそこにもたれて座っている。腕には点滴の管が刺さっている。質が良いので気付きづらいが、髪はウィッグのようだ。
「あなたが白石くん? はじめまして。隆平の母の、万里子です」
そう名乗った女性は、やわらかく、けれどしっかりとした声で由起也に話しかけた。
「……はじめまして。白石由起也です」
「ごめんなさいね、ベッドの上からの挨拶で」
「いえ、その」
「気にしないで、って言っても無理よね。でも、まだこうしておしゃべりくらいはできるのよ」
「……」
顔色を白くして動揺する由起也の様子に、万里子は何かに気づいたような表情をした。
そして、厳しい視線を隆平に送りながら言った。
「隆平。あなた、白石くんにちゃんと全部説明しなかったでしょ?」
「あ、ある程度は言ったよ」
「ある程度じゃダメでしょ。白石くん、びっくりしてるじゃない!」
母親に叱られた隆平は、由起也の方に向き直り、頭を下げた。
「ご、ごめん、白石くん」
「いえ、オレもちゃんと聞いてなかったから」
「ダメよ、白石くん。ちゃんと怒っていいのよ」
「でも……」
「ああ、もう! 隆平、あなたちょっと部屋から出てなさい」
「でも」
「でもじゃない。出てなさい」
「……はい」
万里子にそう命じられた隆平は、しおしおと部屋を出ていった。
何度も振り返りながら出ていくその様子は、まるでしょげた大型犬のようだった。
「白石くん、そこに座って」
万里子は目線で、ベッドのそばにある丸い椅子を指した。病院にあるようなパイプとビニールクッション製ではなく、脚は木製で座面は布張りの、座り心地の良さそうな丸椅子だ。
由起也は少しためらったが、言われるまま腰掛けた。
「ごめんなさいね。びっくりさせてしまって。息子も悪気があったわけじゃないと思うけど」
「いえ、その……オレもごめんなさい」
「え? どうして謝るの?」
「オレがこんなふうにショックを受けたら、……奥様もショックですよね」
「? どういうこと?」
「だって、奥様は好きで病気になったわけじゃないし、その……、他人がショックを受けるほど自分は重病なんだって、感じたんじゃないかなって」
由起也が自分の発言を謝った理由を聞いた万里子は、目を軽く瞬いた後、とてもやさしい笑顔を見せた。
「白石くんは、とってもやさしい子ね」
「いえ、そんなことないです」
「人を思いやれる子だというのが、今の言葉でよく分かるわ。ありがとう。私のことを心配してくれて、すごく嬉しい」
そう言って、万里子は笑みを深めた。包み込むようなやわらかい笑顔、けれど明らかに病人であることが分かる、こけ始めた頬。由起也は、万里子の母親らしいやさしさと、抗いきれない病の気配を感じ、感情を制御しきれなくなって、ほろりと涙をこぼしてしまった。
「あらあら、泣かないで」
「ご、ごめんなさい!」
由起也は慌てて、着ていたチェックのシャツの袖で涙を拭った。
由起也が少し落ち着いたころ、万里子は心配が滲む声で言った。
「……多分ね、隆平はまだ、私がもうすぐ死ぬことが、受け入れきれてないんだと思うの」
ああ、やっぱり……。由起也は、万里子の命がそう長くないことをあらためて認識した。
「だから、あなたにちゃんと事前に説明できなかったのかな、って」
万里子は静かに続ける。
「私ね、がんなの。膵臓がん。だから手術ができなくて、投薬治療をしているの。余命3ヶ月って言われたけど、それから4ヶ月経ったから、頑張ってるでしょ、私」
膵臓がんがどういうものか、由起也にはピンと来なかった。しかし、自分の母のように倒れてから数日で亡くなるのと、何ヶ月も死と向き合うのと、本人や家族はどちらがマシなのだろうと考えた。
「本当は入院した方がいいのだけど、どうしてもお家にいたくて。それで無理言って、毎日、朝と夕方に訪問看護さんに来てもらって、加奈子さんにも助けてもらって、まぁ、今のところは何とかなってるわ。加奈子さんが来られなくなる時間帯も、家政婦さんの派遣事務所に良い人を探してもらうようお願いもしてるし」
そこまで聞いた由起也が、あ、と思う間もなく、万里子はきっぱり言った。
「だから白石くん。今日は来てくれてありがとう」
はっきりと言葉にはしなかったが、万里子は明らかに断った。断ったというより、由起也が引き受けなくても良いと言ってくれたのだ。
由起也は、そんなふうに自分を気遣ってくれた万里子に感謝した。と同時に、少し腹が立ってきた。
過労で倒れ、そのまま目を覚さなかった母さん。由起也は母さんの死を悼むいとまもなく、さまざまな手続きや預金残高と向き合わねばならなかった。できるなら母さんともっと話したかった。聞いておきたいこともあった。
この家の人たちには、それができる時間が残されているのに、なんで逃げ腰なんだ。なんでオレなんかに、この人の世話を任せようとしてるんだろう。由起也にはそんなふうに思えてきて、腹が立ったのだ。
この人が心置きなく旅立てるお手伝いがしたい。そう思った由起也は、こう答えていた。
「奥様、オレ、また来ます」
その様子だけで、隆平の母親の病はかなり重いことが分かる。
ああ、さっきリビングでした匂いは、この部屋からだったのか。由起也はそう理解するので精一杯だった。
「白石くん?」
隆平にそう呼びかけられ、由起也はハッとしてすぐに部屋の中に入った。ゆっくりとベッドに近づくとそこには、顔色は白く、やつれてはいるが、とても美しい女性がいた。ベッドの頭側半分が45度ほど起き上がっており、女性はそこにもたれて座っている。腕には点滴の管が刺さっている。質が良いので気付きづらいが、髪はウィッグのようだ。
「あなたが白石くん? はじめまして。隆平の母の、万里子です」
そう名乗った女性は、やわらかく、けれどしっかりとした声で由起也に話しかけた。
「……はじめまして。白石由起也です」
「ごめんなさいね、ベッドの上からの挨拶で」
「いえ、その」
「気にしないで、って言っても無理よね。でも、まだこうしておしゃべりくらいはできるのよ」
「……」
顔色を白くして動揺する由起也の様子に、万里子は何かに気づいたような表情をした。
そして、厳しい視線を隆平に送りながら言った。
「隆平。あなた、白石くんにちゃんと全部説明しなかったでしょ?」
「あ、ある程度は言ったよ」
「ある程度じゃダメでしょ。白石くん、びっくりしてるじゃない!」
母親に叱られた隆平は、由起也の方に向き直り、頭を下げた。
「ご、ごめん、白石くん」
「いえ、オレもちゃんと聞いてなかったから」
「ダメよ、白石くん。ちゃんと怒っていいのよ」
「でも……」
「ああ、もう! 隆平、あなたちょっと部屋から出てなさい」
「でも」
「でもじゃない。出てなさい」
「……はい」
万里子にそう命じられた隆平は、しおしおと部屋を出ていった。
何度も振り返りながら出ていくその様子は、まるでしょげた大型犬のようだった。
「白石くん、そこに座って」
万里子は目線で、ベッドのそばにある丸い椅子を指した。病院にあるようなパイプとビニールクッション製ではなく、脚は木製で座面は布張りの、座り心地の良さそうな丸椅子だ。
由起也は少しためらったが、言われるまま腰掛けた。
「ごめんなさいね。びっくりさせてしまって。息子も悪気があったわけじゃないと思うけど」
「いえ、その……オレもごめんなさい」
「え? どうして謝るの?」
「オレがこんなふうにショックを受けたら、……奥様もショックですよね」
「? どういうこと?」
「だって、奥様は好きで病気になったわけじゃないし、その……、他人がショックを受けるほど自分は重病なんだって、感じたんじゃないかなって」
由起也が自分の発言を謝った理由を聞いた万里子は、目を軽く瞬いた後、とてもやさしい笑顔を見せた。
「白石くんは、とってもやさしい子ね」
「いえ、そんなことないです」
「人を思いやれる子だというのが、今の言葉でよく分かるわ。ありがとう。私のことを心配してくれて、すごく嬉しい」
そう言って、万里子は笑みを深めた。包み込むようなやわらかい笑顔、けれど明らかに病人であることが分かる、こけ始めた頬。由起也は、万里子の母親らしいやさしさと、抗いきれない病の気配を感じ、感情を制御しきれなくなって、ほろりと涙をこぼしてしまった。
「あらあら、泣かないで」
「ご、ごめんなさい!」
由起也は慌てて、着ていたチェックのシャツの袖で涙を拭った。
由起也が少し落ち着いたころ、万里子は心配が滲む声で言った。
「……多分ね、隆平はまだ、私がもうすぐ死ぬことが、受け入れきれてないんだと思うの」
ああ、やっぱり……。由起也は、万里子の命がそう長くないことをあらためて認識した。
「だから、あなたにちゃんと事前に説明できなかったのかな、って」
万里子は静かに続ける。
「私ね、がんなの。膵臓がん。だから手術ができなくて、投薬治療をしているの。余命3ヶ月って言われたけど、それから4ヶ月経ったから、頑張ってるでしょ、私」
膵臓がんがどういうものか、由起也にはピンと来なかった。しかし、自分の母のように倒れてから数日で亡くなるのと、何ヶ月も死と向き合うのと、本人や家族はどちらがマシなのだろうと考えた。
「本当は入院した方がいいのだけど、どうしてもお家にいたくて。それで無理言って、毎日、朝と夕方に訪問看護さんに来てもらって、加奈子さんにも助けてもらって、まぁ、今のところは何とかなってるわ。加奈子さんが来られなくなる時間帯も、家政婦さんの派遣事務所に良い人を探してもらうようお願いもしてるし」
そこまで聞いた由起也が、あ、と思う間もなく、万里子はきっぱり言った。
「だから白石くん。今日は来てくれてありがとう」
はっきりと言葉にはしなかったが、万里子は明らかに断った。断ったというより、由起也が引き受けなくても良いと言ってくれたのだ。
由起也は、そんなふうに自分を気遣ってくれた万里子に感謝した。と同時に、少し腹が立ってきた。
過労で倒れ、そのまま目を覚さなかった母さん。由起也は母さんの死を悼むいとまもなく、さまざまな手続きや預金残高と向き合わねばならなかった。できるなら母さんともっと話したかった。聞いておきたいこともあった。
この家の人たちには、それができる時間が残されているのに、なんで逃げ腰なんだ。なんでオレなんかに、この人の世話を任せようとしてるんだろう。由起也にはそんなふうに思えてきて、腹が立ったのだ。
この人が心置きなく旅立てるお手伝いがしたい。そう思った由起也は、こう答えていた。
「奥様、オレ、また来ます」
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