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ふつうでとくべつなひ
しおりを挟む「ゔーーん」
ザーザーという、すっかり聴き慣れてしまった雨音と、自分の呻き声と不愉快な頭の重みと共に彼女は目覚めた。
「……おもい」
隣で眠っている恋人の右腕が、いつの間に彼女の頭の上に乗っかっており、彼女はそれを忌々しく、しかし彼を起こさない程度の力加減でどかした。
どかしたついでに、枕元に置いたスマホを手探りで探す。部屋の中は遮光カーテンによってかなり暗くなっており、今が何時か判別がつかない。
ようやく探り当てたスマホのボタンを押すと、11時27分と休日にしても起きるにはかなり遅い時刻が表示された。
「寝過ぎた…」
あまり寝すぎると、頭痛を起こす体質の彼女はベッドから起き上がろうとして、腰のあたりに違和感を感じ、布団の中を見る。
すると彼の左腕が彼女の腰の下敷きになるように回されおり、彼女は思わず苦笑を漏らした。
「痺れてても知らないよ」
前にも同じようなことをして、痺れたと泣き言を言っていたが、彼が無意識でやっていることであり彼女は呆れている反面、出逢ってから6年経っても、同じ事を繰り返す彼がとても可愛らしかった。
「ねぇ、そろそろ起きよう。朝食…いやブランチか。何か食べようよ」
彼の体を強めに揺すったが、彼はうんともすんとも言わない。思わず鼻を摘んでやったが、少し呻いた程度で全く起きる気配もない。彼女はため息をつきつつ、彼の寝起きは常にこのように悪いことを知っているので、そっとベッドから起き出した。
リビングと対面しているキッチンの棚を開け、マグカップを取り出すとストックしてあるインスタントコーヒーの瓶の蓋を開け、蓋の中に適当な粉を振り入れ、それをマグカップへ移し、そのまま保温してある電気ポットのお湯を回し入れるようにしてコーヒーを淹れた。
彼は彼女がスプーンを使わずにコーヒーを入れる仕草をズボラだと言うが、彼女に言わせてみれば、洗い物が減るのでちょうどいいのだ。それに甘党の彼と違い、彼女はブラックを好みミルクも砂糖を入れる手間も無いから、そもそもスプーンなど使わなくても十分だった。
淹れたてのインスタントコーヒーを味わいつつ、冷蔵庫を開いた。中には昨日の夕方、彼と行った買い出しのお陰で、所狭しと食材が詰め込まれている。
但し、一人暮らし用の2段冷蔵庫のため、量はそれほどでもないが、しばらく買い物に行かなくても、彼の好きな料理を作れる程度には食材がある。だが、彼女は食材を前にして、自分があまり空腹で無いことに気付き冷蔵庫を閉じた。
いつもであれば、寝坊した彼が空腹を訴え、食べたい物を注文するから、いつもの癖で料理しようとしていたが、自分は空腹では無いし、彼もまだ起きない。彼女はリビングに戻りカーテンを開いた。
外は相変わらず梅雨の長雨でどんよりとしているが、部屋が明るくなったことで、彼が呻きながら寝返りを打ったので、起きたのだと思い、持っていたコーヒーを一旦テーブルへ置き、彼の体を揺する。
「ねぇ、起きてってば。何食べたい?起きてくれないと、ご飯作れないんだけど!」
彼の耳元で大きな声で呼ぶが、彼は忌々しげに寝返りを打つだけで、目も開けなかった。
彼女はさすがの彼の様子に呆れてしまった。
お互い変則的な勤務体系の仕事をしており、中々の激務の中、約1か月ぶりの逢瀬に折り合いが付いたのが昨日の夜だった。
だが昨日の夜も仕事の後に落ち合い、買い出しこそ一緒に行ったが、彼女の部屋へ着くなり、着替えもせずベッドに倒れ込んだ為、彼女が彼を叩き起こしてバスルームへ押し込み、短い彼のシャワータイムを逆算し、適当に食材を放り込んだ野菜炒めと大盛りの白飯をセッティングし終えた所で、彼が髪も乾かさぬまま出て来た。
そして、彼女が彼の服の洗濯やら台所の片付けを行なっている間にいつの間にやら、彼女のベッドへ潜り込んでおり眠っていた。
そのため、彼女も昨夜は仕方なく一人で食事を済ませ、シャワーを浴びた後に彼の隣へ潜り込んだのだった。
せっかく1ヶ月ぶりの二人きりの時間だったのに。
本当はそう言って、彼を詰りたい気分だったが、昨日久しぶりに見た彼の目の下の隈や青白い顔色を思い出すと、無闇に当たり散らす気分も萎えてしまった。
『ごめん、しばらく忙しい』
普段から筆不精(メール不精?)の彼から、珍しく電話で連絡が来たのが、1ヶ月と数日前ほとだ。仕事に忙殺され疲れ切っていたのだろう、昨日も普段は饒舌な彼からすると驚くほど口数が少なかった。
だから仕方ない、お疲れ様と言って彼をねぎらってあげるのが、できた彼女なのかもしない、だが一つだけ文句を言わせて欲しい。
「私は、あんたのカーチャンかっ!」
前言撤回、やはり当たり散らしたい気分だった。せめて、彼の頭を叩いてやりたい衝動を抑えた自分を褒めてやりたい。
昨夜からの彼女の甲斐甲斐しさを無碍にしやがって。せめて、ありがとうくらい言え!
ふつふつと湧いてきた怒りを抑えるため、彼女はテーブルの上に残ったコーヒーをグイッと煽った。
どすんと床椅子に座り込み、テーブルの上のリモコンでテレビをつけて、あてもなくザッピングする。相変わらず雨の情報や、夏休みに行きたい旅行先の特集など、この時期特有の情報ばかりでつまらなくなり、すぐにテレビを消した。
最後に旅行に行ったのは、いつだったろうか、元々彼も彼女も旅行好きなはずなのに、最近はめっきり回数が減ったような気がする。
「ダメだ」
イライラする。気晴らしでテレビをつけたのに、余計に彼とのことを考えてしまった。
ふと、自分の通勤カバンが目に入り、手元に引き寄せた。中には近所の書店で買った有名なファンタジー小説の新刊が入っていた。
これは、彼も好きなシリーズで、彼にすすめられて後を追うようにして読み始めたが、今では彼女の方が真剣に追いかけている。
「あーーもう!」
ページをめくろうとしてパタンと閉じた。こんな状態では、楽しみたくても楽しめない。
彼女は諦めて、テーブルの上に突っ伏した。
「ばかぁ…」
背後で未だに規則正しい寝息を立てている彼に、聞こえよがしに文句を言ったが、聞こえているはずもなかった。
彼女はしばらく机に顔を伏していたが、ふと頭を動かしてベランダを見る。外は相変わらず雨が続いているが、彼女は立ち上がってベランダへの扉を開けた。
開けた瞬間、梅雨独特の不愉快な湿気がまとわりついたが、彼女は気にせずその場にしゃがみ込み、ベランダの隅に置いてあるプランターへ手を伸ばした。
「どうしよう、忘れてた……」
そこには、忘れ去られ無残に枯れてしまったトマトだったであろう植物が残されていた。
元来、根がズボラな彼女は植物を育てることは苦手だったのだが、彼が自分で育てると言って買ってきたものだった。
最初はベランダが狭くなるから、やめてほしいとお願いしたのだ。だが彼は自分のアパートはベランダが無いと言い、それに、
『君のトマトパスタが美味しいから』
この彼の一言に絆されてしまい、セッティングしたのが4月頃だっただろうか。
そこから暫くは彼が本当に毎日のように、彼女の部屋へ夜にやって来て、世話をしていた。ついでに食事や泊まっていく事もあったが、ほとんどトマトの世話が終わると、すぐに退散してしまい、彼女はその甲斐甲斐しさに若干嫉妬したぐらいだ。だが5月の終わり頃から彼の仕事が忙しくなり、彼女が代わりに世話をしていたが、彼女も忙しさにかまけて世話を忘れてしまったのだった。
「ごめんね」
ポツリとその言葉が彼女の口から漏れた。そして、なぜか涙もポロっと流れ落ちた。
彼女はそのまま立ち上がり、リビングへ戻るとベッドの上に腰掛けた。
彼の頭へ手を伸ばし、彼の固くてちょっとチクチクする髪を指の先で撫でた。
「ごめん、枯らしちゃった」
嗚咽混じりに彼に謝り、顔を洗おうと立ち上がろうとして、右腕を横から引っ張られ思わずベッドへ倒れ込み、気がつくと大きな腕に包み込まれていた。
「……なんで、泣いてんの?」
起きたばかりで掠れた彼の声が、頭の上から聞こえる。
「……自分が馬鹿で不甲斐なくて」
「君のどこが、馬鹿で不甲斐ないのさ」
彼は優しく彼女の背中を右手で撫でた。まるで赤ん坊をあやすような仕草に、彼女はゆっくりと言葉を紡いだ。
「あなたに、頼まれてた、トマトを枯らしちゃった…それに」
「それに?」
「あなたが、私に会う為に、仕事頑張ってたのに、勝手に拗ねて怒った…」
「それは君が悪いんじゃなくて、君をほったらかした俺が悪いの。トマトも俺が世話するって言ったのに、結局君任せにした俺のせい。はい、君は何も悪く無い」
だから、泣きやんでよ。
彼の甘く愛おしい声に、彼女は彼の胸に額をくっつけ、彼の背中に腕を回した。すると、彼がなぜか呻いたので、彼女は首だけ動かして彼の顔を見た。
「ゔっ、あんまり動かないで…」
「どうしたの?」
「左腕痺れた…」
彼女は思わず吹き出すと、彼も優しげに微笑んだ。
「やっと、笑った」
「だって…前にも言ったでしょ、痺れるから抱きついて寝るのやめなって」
「だって、君抱き心地いいんだもん」
「……それ、太ってるっていう意味?」
「うーん?」
彼女は彼の左腕を思い切り掴んで揺さぶった。
「ごめんごめん!本当にやめて!」
彼の悲鳴で溜飲が下り、彼女は彼の頭を撫でてやる。
「次言ったら、もう抱き枕禁止」
「うん、ごめん。君柔らかくていい匂いだからつい」
「エロオヤジ!言ってるそばからっ、んっ」
もう一度、左腕を揺さぶろうとしたが、その前に彼が体を使って彼女を押さえ込み、唇を塞がれた。彼はひとしきり口づけを楽しむと意地悪な笑みを浮かべた。
「君だって俺の抱き枕にされるの好きなくせに」
バレている。長身の彼に比べ平均身長以下の彼女は、抱きつかれるとすっぽりと彼に全身が包み込まれてしまうのだが、彼女は彼の匂いに包まれているようで、抱き枕にされることが実は大好きなのだ。
本当に敵わない。この男は年齢こそ4つほどしか違わないのに、この4年分の人生経験の多さに常に彼女はイニシアチブを取られ続けているのだ。
「ドS!」
「なーにー?耳真っ赤にしちゃって、かっわいいー」
わざと彼女の耳元で囁くようにして、くつくつ笑う彼は、あろうことか右手を動かし彼女の腰の辺りをまさぐり始めた。
「ちょっ、どこ触ってんの⁉︎」
「えー、おへそ?」
「バカッ!」
彼女が転がるようにして、彼の腕から逃れ起き上がると、彼もようやく起き上がり、後ろから彼女の腰に腕を回した。
「ごめん、久しぶりだったから、つい」
「もう…早く起きよう、お昼何がいい?」
「えっ、もう昼?」
「とっくに12時過ぎてる」
「うわー、寝過ぎた…でも、もう少しイチャイチャしたいなぁ」
彼が彼女の肩に口付けようとして、彼女はそれをよけるように立ち上がった。
「だーめ、ホームセンター行くんだから」
「えっ、なんで?」
「トマト。新しい苗買いに行こう。次はちゃんと2人で育てようね」
彼は少し驚いたような顔をして、そして、ふにゃりと幸せそうに笑った。
「よし、じゃあ何食べたい?」
「うーん、じゃあナポリタン。大盛りで」
「了解。じゃあ、ちょっと待っててね」
彼女は不意打ちとばかりに、まだニヤニヤしている彼の唇に自分の唇を重ねて素早く離れた。
「ねぇ、ちょっと待って!」
「待たない」
彼女は逃げるように、ベッドから立ち上がり、キッチンへ向かうと、彼も追いすがるようにキッチンへやって来た。
「ねぇ、さっきのもう一回」
「やだ。ねぇ、パスタ取って。ついでにお湯沸かしてパスタ茹でて」
「さっきのもう一回してくれたらいいよ」
「作るのやめようかな」
「手伝います」
彼は大人しく棚の中の物色を始める。彼女も冷蔵庫からウインナー、玉ねぎ、ピーマン、バターを取り出した。食材を適当に包丁で刻みつつ、彼を見やると、丁寧に計量カップで鍋に水を入れていた。
「本当、丁寧だね」
「逆に適当なのに、いつも同じ味に作り上げる君を尊敬するよ」
「慣れよ慣れ。料理だけは好きだし」
彼は水を入れ終え、コンロの上に鍋を乗せて火にかけた。彼女はそのタイミングでソースを作る。ボウルを取り出し、ケチャップ、ウスターソース、コンソメの他に甘党の彼のため、砂糖を少々投入して混ぜ合わせる。
ソースを作り終え、彼を見ると今度はパスタの袋の裏面とにらめっこしている。塩の分量に迷っているらしい。
「小さじ3くらいで大丈夫よ。ほら、お湯沸騰してる」
「お、おう」
塩の容器に付属している計量スプーンで、恐る恐る塩を鍋に投入し、すぐにパスタも投入し、タイマーも忘れずセッティングした。
「ミッション完了!」
「お疲れ様。後は私がやるから、座ってていいよ」
彼女はフライパンを取り出しつつ、彼にそう言ったが、彼は動く気配は無い。いつもであれば、料理が苦手分野の彼は、さっさと退散するのだが、今日は立ったままである。
不審に思いつつも、彼女は熱したフライパンにバターを落とし入れ、溶けたタイミングで先程刻んだ食材を炒める。
「さっきから、どうしたの?」
背後に立つ彼に、問いかけたが、彼は返答する代わりに彼女の腰に腕を回し、肩に頭を乗せる。彼の髪が首筋に当たりくすぐったくて、思わず彼女は身動ぎした。
「本当にどうしたの?料理してるから、危ないよ」
そう言うと、彼は頭をどけて、腰に回した腕の力を弱めたが離す気はないようだ。
「……んー、邪魔しないから、もうちょっとこのまま」
「今日は甘えただね」
「だって、俺の彼女がかわいいんだもん」
「……キザ」
思わず顔を伏せると、彼は彼女の耳元へ顔を寄せ、追い討ちをかける。
「何年一緒にいても、そうやって恥ずかしがる君がかわいいよ」
この男は!本当に!
彼女はフライパンのコンロの火を止めると、彼の方を振り返って、思い切り抱きついた。
彼の胸からは、少しだけ早いトクントクンという音がして、とても温かった。
彼も彼女を包み込む様に抱きしめた。
「邪魔しないって、言ったくせに」
「ごめん、からかいすぎた。けど、俺も寂しかったんだ。だから、君が俺の事で泣いてくれた事が嬉しかった」
思わず目頭が熱くなった彼女は、誤魔化す様に彼の胸へ顔をグリグリと押し付ける。
「こーら、肌が傷つくから、やめなって」
彼に無理やり顔を上に向けられ、キッチンの照明が眩しくて、目を細めた。だがすぐに暗くなり、気がつくと目の前に彼の顔があった。
「んんっ」
唇を重ねられ、思わず彼の背に回した手で、彼のシャツを強く掴んだ。彼はそれを厭う事なく、彼女の頭と腰に添えられた腕の力を強め、彼女を引き寄せた。
流石に息が苦しくなり、彼の背を叩くが、彼は一向に離れる気配を見せず、思わず腰の力が抜けそうになった時だった。
ピピッ、ピピッ
キッチンに電子音が鳴り響き、彼がようやく離れた。
「……タイムオーバーだな」
彼は何事もなかった様に、彼女から離れると、タイマーを止めて、コンロの火も止めた。
「なぁ、これって茹で汁使う?」
「……使わないから、そのまま捨てて。火傷に気をつけて」
「ほーい」
彼は鼻歌でも歌い出しそうな様子で、壁にかけられたミトンを手にはめ、鍋をシンクへと運んだ。彼に湯切りを任せて、彼女もフライパンのコンロを再度点火させた。
「はい、パスタ」
「ありがとう。このまま入れて」
彼がザルに湯切りしたパスタをフライパンへ投入し、彼女は他の具材と混ぜ合わせると、作っておいたソースも混ぜた。
「美味そう」
「お茶とコップ並べて、取り皿とフォークも」
「了解」
彼は言われた通り、棚の中から食器を取り出し、作り置きのお茶のポットと一緒に、リビングのテーブルへと運ぶ。彼女は思わず蹲りたくなったが、必死に平静を装い棚の中から大皿を取り出し、フライパンの中身を全て盛り付けテーブルへと運んだ。
「おお、相変わらず豪快」
「フライパンのまま出すよりマシでしょ」
「俺、君のそういう所、大好き」
「……冷めないうちに食べて」
「いただきまーす!」
彼女は、諦めて彼にナポリタンをすすめた。ニコニコと手を合わせて、勢いよく食べ始めた彼の様子を見て、顔が綻ぶ。
「なに笑ってんの?」
「んー?いつも美味しそうに食べるなと思って」
「だってうまいもん。君の料理、全部俺好み」
「ありがとう。作り甲斐があるよ」
彼女も大皿に乗ったナポリタンをフォークでクルクルと巻き一口ほうばった。いつもどおりの味で美味しい。
しばらく食べ進めた頃、彼がフォークを置いた。まだ、皿の上にはナポリタンがまだ半分ほど残っているので、不思議に思うと彼は少しだけ硬い声を発した。
「そういえば、この後ってホームセンターに行くんだったよな?」
「うん、そのつもりだけど?」
「その前に行きたい所があるんだ」
「別にいいけど……どこ行くの?」
彼女はフォークを置いて、彼を目を見た。
彼は少し目線を落として何かを言いかけて、顔を上げて彼女の方へ向き直り、
彼女の左手を手に取った。
「この手の薬指にはめる指輪を買いに行こう」
彼の言葉の意味を理解するのに、数十秒はかかったが、意味を理解したとたん、彼女の瞳からポロポロと雫が落ちた。
「俺と一緒に生きてください」
彼女は彼の首に腕を回し、肩に顔を埋めた。
「……私でいいの?」
「君がいい」
彼は彼女を優しく抱きしめた。
「ズボラでだらしないよ?」
「俺は几帳面だから、ちょうどいいね」
「すぐに仕事の愚痴とか言っちゃうし」
「いいよ。慰めて、甘やかしてあげる」
「いつも、文句ばっかり」
「君のお願いなら、いつでも叶えてあげる」
「また、すぐにトマト枯らしちゃうよ?」
「次は2人で育てるんだろ?なら大丈夫」
彼女は彼の肩から少し顔を離すと、ズビと鼻をすすった。
「……私は、あなたにもらってばかりで、何もあげられないよ?」
いつも、優しい彼に甘えてしまう。そんな自分が嫌で嫌でしょうがない。ずっと隠していた気持ちがするりと零れ落ちた。
すると、彼はいきなり彼女の頭を無理やり自分の方を向かせた。少し怒った様な顔だ。
「あのね、それ本気で思ってる?」
「だって……」
「だってじゃない」
彼は少しだけため息をつくと、コツンと彼女と自分の額をくっつけた。
「さっきも言っただろ?俺は俺のために泣いてくれる君が好きだ。俺を待っていてくれる君が好きだ。俺に笑いかけてくれる君が好きだ。俺を愛してくれる君を愛しているんだ」
「……さっきより、言ってる事多いじゃない……」
「じゃあ、今言った」
彼女はくしゃりと泣きながら笑い、それを見て彼も微笑み、彼女涙を掬い上げた。
「……それじゃあ、もう一度聞くけど、俺と一緒に生きてくれますか?」
彼の問いかけに、彼女は深く頷いた。
「……はい。私と一緒に生きてください」
「いよっしゃあああああ!!」
「きゃっ!」
彼は彼女を抱きかかえたまま、勢いよく床に倒れ込み、彼女は彼の上になる様な形になった。
「あーもう!絶対断られはしないと思ったたけど、やっぱ緊張したー!無理!心臓止まる!」
「……このタイミングでプロポーズされると思ってないから、こっちが心臓止まるかと思ったんですけど」
「いやー、俺もこのタイミングですると思ってなかったから」
「えっ、じゃあなんで?」
「んー?久しぶりに君に会えて最高に幸せだなと思ってたら、君もすごく幸せそうな顔してたから、我慢できなくなっちゃった」
そう言って笑う彼の顔は、悪戯をした無邪気な子どものようだった。そして、もちろん悪戯は大成功だった。
「私もすごく幸せ。あなたの家族にしてくれてありがとう」
そう言って彼に微笑みかけ軽く口付けると、いきなり天地がひっくり返った。背中は床についており、上で彼が彼女に覆いかぶさっていた。ご丁寧に彼女の両手は彼によって押さえ込まれている。
「ちょっ…!お昼食べて指輪見にいくんじゃっ…」
「んー?勿論そのつもりだけど、他に何かする予定でも?」
「押し倒しておいて、何言ってんの!」
「だって、君が可愛いことばっかりするから。起きた時と今。だから、ちょっとだけ」
「んっ…!」
彼に深く口付けられ、逃げ腰になるが彼がそれを許さず、彼女が苦しくならない程度に、体重をかけられ、完全に身動きが取れなくなる。こうなってしまうと、彼の好きにさせるしかないため、彼女は諦めて体の力を抜いた。
「かっわいいなぁ…ケチャップの味がする」
「……ナポリタン冷めちゃうよ」
「あー、後で温め直し…….やっぱり今食べよ。で、出かけて帰ったら続きさせて?」
彼は起き上がると、彼女の手を引っ張って、起き上がらせて、自分の膝の間に座らせる。
「……トマト植え直したらいいよ」
「了解、約束」
彼の小指に彼女の小指が絡み合い、しっかりと結ばれる。
彼女はポツリと呟く。
「幸せ」
「うん、俺も。2人でもっと幸せなろう」
「うん。約束」
2人は絡めた指の力を強め、決して破られない約束を交わした。
「よし!食べたらすぐ行こう」
「その前に、そろそろ離してくれない?」
「えー?結婚するんだからいいじゃん」
「…もう、仕方ないなぁ。あなたのそう言う甘えたなところ、大好き」
彼が少し驚いた顔をしてすぐに太陽のような笑顔になり、彼女も声を上げて笑った。
窓の外はまだ冷たい雨が降っている。けれど彼といればそんな事は些末な事だ。
今日は2人にとって、『ふつうでとくべつな日』となったのだから。
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