ピンクローズ - Pink Rose -

瑞原唯子

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11. 芽生え始めた意志

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 ラウルは、高い塀で囲われた建物の前で立ち止まり、それを仰いだ。窓ガラスの反射光が眩しくて目を細める。ここからでは全貌は見えないが、一部で改装工事をしているのが目についた。
 魔導科学技術研究所――。
 それがこの建物の名前だった。魔導を科学的に分析し、その仕組みを解明することを目的として設立された、魔導省の管轄の施設である。つまり、国立の研究所だ。国がその研究を必要としているということだろう。

「わざわざ足を運んでもらってすまない」
「どのみち外へ出る用があった」
 入口まで迎えに来たアルフォンスに連れられて、ラウルは研究所の廊下を歩く。横に目を向けると、ガラスの向こうに研究フロアが見えた。立っているのは数人だけで、多くの所員は整然と並んだモニタに向かい、黙々と作業をしている。話し声はほとんど聞こえず、機械音や打鍵音の方が大きいくらいだ。
 ラウルがここへ来たのは、この研究所の所長であるアルフォンスに呼ばれたためだった。理由は聞いていない。聞き出そうともしなかった。そうするまでもなく、おおよその見当はついている。だから、あえて言われるままにやってきたのだ。
「ここに入るのは初めてか?」
「ああ」
 アルフォンスは歩きながら後ろで手を組み、ちらりとラウルを振り返る。
「このフロアなら自由に見学しても構わんがどうする?」
「不要だ。ここではたいした研究をやっていないのだろう」
 ラウルはつれない答えを返す。
 アルフォンスは気難しい顔で目を伏せた。
「根幹となる研究は、立入制限区域で行っている。そちらに入るためには面倒な手続きが必要でな」
「論文にはすべて目を通している。それらを総合して考えれば、入らなくても何をやっているのか察しはつく」
「というと?」
「戦争のための兵器開発、それと人間を兵器化する技術開発」
 ラウルは端的に答えた。
 アルフォンスは息を飲んで振り返り、それからあたりを見まわす。そして、誰もいないことを確認すると、一瞬だけ安堵したような表情を浮かべた。「所長室」というプレートが掛かった扉に向かい、鍵を開けると、ドアノブに手を掛けて押し開く。
「否定はしない」
 そう言いつつ、ラウルを部屋に招き入れる。そこは、個室としては十分すぎるくらいに広かった。正面にはうずたかく書類が積まれた大きな机、端の方には応接用と思われるソファとローテーブルがあった。机の隣の本棚には整然と新しい本が並んでいる。奥の大きなガラス窓からは自然光が入り込み、部屋を明るく爽やかに照らしていた。アルフォンスは静かに扉を閉めると、ラウルをソファに促す。
「だが、戦争を仕掛けるわけではない。あくまでこの国を防衛するためのものだ」
「魔導は人に属するからこそ、辛うじてバランスを保っていられる。人の意思のない魔導や、人の意思をねじ曲げた魔導など、存在すべきではない。いずれ世界を壊すことになる」
 ラウルはソファには座らず、その場に立ったままで言った。
 アルフォンスは表情を険しくする。
「使用は厳しく制限していくつもりだ」
「判断を誤らなかった戦争などない」
「…………」
 アルフォンスは反論しなかった。いや、出来なかったのだろう。口を固く結び、目を伏せる。眉間には深い皺が刻まれた。
 ラウルは腕を組んで言う。
「今のはただの忠告だ。おまえたちが何をしようと知ったことではない。これ以上の干渉をするつもりもない。ただ、レイチェルは巻き込むな」
 アルフォンスはハッとして顔を上げた。
「なぜ、それを……」
「あれだけの魔導力を有する人間は他にいない。おまえたちからすれば、喉から手が出るほど欲しい実験体だろう。私を呼んだのも、そのことで何か相談があったのではないか」
 アルフォンスがラウルを研究所に呼んだ理由として考えられるのは三つだった。ラウルに研究への参加を依頼する、ラウルに実験体としての協力を依頼する、レイチェルを実験体として使うことについての相談――。その推測を一つに絞ることができたのは、ラウルをここへ呼んだときのアルフォンスの声が苦悩に満ちていたからだ。レイチェルに関することでなければ、そこまで思い詰めた声は出さないはずだという確信があった。
「ああ、だが勘違いするな。私個人としては反対している。そもそも、あの子の魔導のことを誰かに話したことは一度もない。だが、気づいてしまった部下がいてな」
 コンコン――。
 扉をノックする音が聞こえた。アルフォンスの顔に緊張が走る。
「フランシス=ゴードンです」
「入れ」
 アルフォンスが毅然とした声でそう言うと、三十代後半と思われる男が、静かに扉を開けて入ってきた。背筋を伸ばし、両足を揃えると、真剣な表情をまっすぐ前に向ける。体格はアルフォンスより一回り小さいが、気構えは負けていないようだった。
 ラウルはその男に見覚えがあった。過去に何度か医務室に来たことのある男だ。口をきけなくなった姪を診せに来たこともあった。リカルドが研究所に勤務していたときの部下だったと記憶している。
「これが先ほど言っていた部下だ。レイチェルを研究に使うことを強硬に主張してな」
「そうすべきだと思います。所長が娘を溺愛していることは知っていますが、この研究所の所長であれば国のことを第一に考えるべきです。国の機関に勤める人間が、国より家族を優先するなどあってはならない」
 アルフォンスは反論こそしなかったが、その青い瞳には怒りを思わせる鋭い光がたぎっていた。それが、彼のできる唯一の抵抗だったに違いない。理屈としてはフランシスの方が正しい。所長という立場もあり、おおっぴらに本音を言うわけにはいかないのだろう。
 フランシスは臆することなく続ける。
「何も傷つけようというわけではありません。彼女の身の安全は最大限考慮するつもりです」
「下手に手を出せば暴発する。そうなれば、それこそ国が崩壊する可能性もありうる」
 ラウルが横から口を挟んだ。
 フランシスは睨むような眼差しで振り向いた。
「あなたに言われるまでもなく、慎重に事を進めるつもりです。私たちは科学者だ。あらゆる可能性をシミュレーションし、危険を回避しつつ結果を得られるよう、常に綿密な計画を立てています」
 強気な姿勢を崩さずに、明瞭にきびきびと言う。あれほどラウルのことを恐れていた人物とは思えない。それだけ成長したのだろうか。それとも、仕事のこととなると人が変わるのだろうか。
 ラウルは無表情のままフランシスに歩み寄った。正面のごく近い距離で止まる。胸もとあたりの位置に彼の頭があった。ゆっくりと腕を組み、顎を軽く上げると、目線だけで彼を見下ろす。
「フランシス」
 名前を呼ばれた瞬間、フランシスはビクリと体を竦ませた。それでも精一杯の虚勢を張り、上目遣いでラウルを睨む。
「……何ですか」
「レイチェルには手を出すな」
「あなたこそ部外者のくせに口を出さないでほしい。私たちはこの国のために……」
「この国がどうなろうと知ったことではない」
 ラウルはフランシスの言葉を遮って言った。まっすぐ彼の首筋に右手を伸ばし、触れる寸前でそれを止める。その気になれば、防御する間もなく一瞬で首を落とせる距離だ。冷徹な眼差しを向け、凄みのある低い声で威圧する。
「レイチェルには手を出すな。もし手を出すことがあれば、この研究所ごとおまえを消す」
「……脅迫するのか、卑怯な」
 フランシスは恐怖に歪んだ表情のまま顔をこわばらせた。奥歯を強く食いしばる。喉仏が上下に動いた。額に滲んだ汗が、頬を伝って地面に落ちた。体の横で固く握りしめたこぶしは、怒りのためか、恐怖のためか、小刻みに震えていた。
「何とでも言え。本気だということだけは言っておく」
 ラウルは冷たく凍てついた瞳を見せつけてから、ゆっくりと彼の首から手を引いた。
 フランシスは何か言いたそうにしていたが、震える口からは少しも声が発せられなかった。
「フランシス、もう下がれ」
 アルフォンスが静かに声を掛けると、フランシスは悔しそうに顔をしかめながら、それでもきちんと頭を下げて所長室をあとにした。

「用件はこれだけか」
 ラウルは腕を組んで振り向き、何事もなかったかのようにさらりと尋ねた。
 アルフォンスは困惑した様子を見せながら口を開く。
「これだけというか……相談しようと思っただけなんだが……いや、しかし感謝する」
「おまえのためにやったわけではない。私の意志だ」
 ラウルは躊躇いなくきっぱりと明言した。
「そうか……」
 一方、アルフォンスは歯切れが悪かった。感謝しつつも訝っている様子である。他人に無関心だったはずのラウルが、レイチェルを助けるべく自ら積極的に行動したのだ。これまでではありえないことである。怪訝に思うのも無理はないだろう。
 ラウルは視線を落とし、小さく息をついて言う。
「助けられたはずなのに、助けられなかった……そんな結末をもう見たくないだけだ」
「それは、もしかして、君の……」
 アルフォンスはそこまで言いかけて口をつぐんだ。訊くべきではないと判断したのだろう。真面目な顔で目を細めてラウルを見つめる。その瞳にもう訝るものはなかった。
「何か礼をさせてほしい」
「礼など不要だ。おまえのためにやったわけではない、そう言ったはずだ」
 ラウルは無表情のままにべもなく受け流す。
 アルフォンスはそれでも引き下がらなかった。
「昼食くらいは奢らせてほしい」
「これから行かなければならないところがある」
 それは断る口実だった。言ったことは嘘ではないが、昼食に付き合う時間も取れないということはない。ただ、こう言えば諦めざるをえないはずである。
「そうか……それではまたいつか機会があれば付き合ってほしい」
 アルフォンスはラウルに真摯な視線を送る。
「レイチェルのこと、これからもよろしく頼む」
「……わかっている」
 ラウルは静かに声を落とした。腕を組んだまま、目を閉じて深くうつむく。長い焦茶色の髪が、カーテンのように横顔を覆い隠した。

 その日の午後、ラウルはレイチェルの家に向かった。
 今日もいつものように授業を行う。
 ラウルは真面目に指導をする。
 レイチェルも真面目に取り組む。
 ふたりとも授業中は関係のないことを口にしなかった。

「今日はここまでだ」
 ラウルはいつもの言葉で授業を区切る。しかし、いつものようにすぐに立ち上がろうとはせず、椅子に座ったままレイチェルをじっと見つめた。
「……どうしたの?」
 レイチェルはきょとんとして尋ねた。小さく首を傾げる。
「今日は来るのか?」
 ラウルは最も気になっていたことを質問した。言葉が足りないことは自覚していたが、これだけでも彼女には通じるだろう。思い浮かぶ場所は一箇所しかないはずだ。
「ええ、今日はラウルとお茶するわ」
 レイチェルは戸惑うことなく、にっこりと笑顔を浮かべて答える。
「そうか」
 ラウルは小さく相槌を打って立ち上がった。脇に教本を抱え、部屋を出て行く。
 レイチェルも嬉しそうに微笑みながらついてきた。その足どりは軽やかに弾んでいた。

 ラウルの部屋へ入ると、レイチェルは当然のようにダイニングテーブルの指定席についた。両手で頬杖をつき、ニコニコとしてラウルを見る。
「今日は何のケーキ?」
「ケーキはない」
 ラウルはぶっきらぼうに答えを返す。
「そう、残念」
 レイチェルは軽く言った。多少、落胆している様子はあったが、すぐに笑顔に戻る。もっと駄々をこねるかと思っていたので意外だった。それほど重要ではなかったのだろうか。
 ラウルは冷蔵庫を開けると、中からカップを二つ取り出した。
「それは何?」
「おまえが作れと言ったプリンだ」
 無愛想に答えると、それを机の上に置いた。きのう作ったものではない。今朝、新たに作ったものだ。彼女が来るかどうかもわからないのに、なぜ昨日の今日でまた作ってしまったのだろうか。もしかすると何か意地になっていたのかもしれない。
 レイチェルは大きな目をぱちくりさせてそれを覗き込むと、顔を上げて不思議そうに尋ねる。
「ラウルが作ってくれたの?」
「約束しただろう」
 ラウルは仏頂面で腕を組んだ。ちらりと彼女を一瞥して眉根を寄せる。まさか約束したことを忘れているのだろうか。まだほんの数日前のことだ。普通ならば覚えていて然るべきである。忘れているとすれば、よほど無関心だったことになる。
 だが、その心配は無用だった。
「ありがとう、本当に作ってくれたのね」
 レイチェルは嬉しそうに笑顔を弾けさせた。
 ラウルは小さく息をついた。
「美味いかどうかは知らん」
「ラウル、スプーンも」
 レイチェルは急かすように右手を伸ばした。
「焦るな。今から紅茶を淹れる」
 ラウルは湯を沸かしながら、ティーポットとティーカップを手早く準備した。ティーポットに茶葉を入れ、沸き立ての湯を注ぐ。白い湯気とともに、ふわりと芳醇な香りが立ち上った。蓋をしてしばらく置いてから、二つのティーカップに紅茶を注ぎ、ソーサに載せてテーブルの上に置く。スプーンもプリンの上に置いた。
 ティータイムの準備が整うと、ラウルはレイチェルの前に座った。
「それじゃあ、いただきます」
 レイチェルは待ちきれないといった様子で声を弾ませると、まず先に紅茶を手にとった。ティーカップに口をつけて傾ける。その途端、目を見開いて大きく瞬きをした。不思議そうに褐色の液体を覗き込み、ゆっくりとティーカップをソーサに戻して言う。
「……美味しい。これ、きのうまでの紅茶と違う」
「きのうではなく、おとといだろう」
 ラウルは淡々と訂正する。昨日はラウルのところには来ていない。サイファのところへ行っていたのだ。どうでもいいような些細なことだが、なぜか言わずにはいられなかった。
 しかし、レイチェルは気に留めることなく尋ねる。
「これ、どうしたの?」
「前の紅茶がなくなったから、新たに買ってきただけだ」
 ラウルは静かに答える。だが、そこにはひとつだけ嘘が混じっていた。前の紅茶はまだなくなってはいない。
「私、これ好き」
「そうか」
 にっこりと笑って言うレイチェルに、ラウルは素っ気ない相槌を打つ。だが、内心は違っていた。この紅茶は、彼女のために買ったようなものだった。気に入ってもらえなければ意味がない。といっても、頼まれたわけではない。勝手にやったことである。そうしようと思ったのは、きのうのことがあったからだろう。これもやはり意地のような気持ちが働いたせいかもしれない。
 レイチェルは続いてプリンを口にした。
「プリンも美味しい。本当にラウルが作ったの?」
「疑っているのか」
 ラウルは紅茶を手に取りながら尋ねた。
「ううん、驚いただけ」
 レイチェルは無邪気にそう答えると、ふわりと甘く柔らかい笑みを浮かべた。
「ありがとう、私のお願いをきいてくれて」
 ラウルはそれだけで自分の行動が報われたように感じた。

「レイチェル、真面目な話がある」
「真面目な話?」
 真剣な表情で切り出したラウルに、レイチェルは小首を傾げて尋ねた。ちょうど食べ終わったプリンのカップを机の上に戻す。
 ラウルはじっと彼女の瞳を見つめて口を開いた。
「そろそろ魔導の方も学んでいかなければならない」
 今日のように、レイチェルを実験体にしようとする人間がまた現れないとも限らない。自分が事前に察知できれば潰すつもりだが、陰で計画を進める輩がいても不思議ではない。彼女は未知の領域を抱える危うい存在である。下手にいじれば、魔導を暴発させてしまうかもしれない。いざというとき、その危険性を少しでも減少させるためには、彼女に魔導の制御を学ばせる必要があるのだ。
 レイチェルは机の上で小さなこぶしを握りしめ、ゆっくりとうつむいた。
「……魔導はやりたくない」
「高度なものをやろうということではない。ただ、少なくとも制御だけは学ぶべきだと考えている」
 ラウルは落ち着いた口調で説得しようとする。
 だが、レイチェルは首を小さく横に振った。
「私には制御なんて必要ないわ」
「なぜそう思う」
 ラウルは表情を動かさず冷静に尋ねた。
「私にはほとんど魔導力がないの。ラグランジェ失格の出来損ないだって」
 レイチェルは顔を上げ、にっこりと微笑んで言った。
「……誰がそんなことを言った」
「ユリアっていう親戚のお姉さん」
 確かに、隠れた魔導力を抜きにして考えれば、彼女の魔導力はラグランジェ家の中では劣る方になるだろう。それでも、ほとんど魔導力がないとは言いすぎだ。出来損ないなどという明らかな中傷の言葉を選んでいることから考えると、彼女に何か恨みでもあるのかもしれない。ラグランジェ家の内情はよく知らないが、本家次期当主の婚約者ともなれば、妬みを受けることもあるのだろう。
「おまえにも魔導力はある。それは魔導を学んでいけばわかることだ」
「ユリアに言われたからってだけじゃなくて、自分でも力がないことはわかっているの」
 レイチェルは微笑みを保ったまま言った。
 ラウルは眉根を寄せた。
「おまえは自分のことをわかっていない」
「いいの、悲観なんてしていないから」
 レイチェルは澄んだ声で言う。
「それでも私は幸せよ。みんな私を責めたりしないもの。きっとこのままでいいの。私に魔導は必要ないと思うわ。お仕事をすることもないし……16歳になったら、私、サイファと結婚するから」
 ラウルの眉が僅かに動いた。険しい表情でレイチェルに鋭い視線を向ける。
「……おまえはそれでいいのか」
「えっ?」
 レイチェルは大きく瞬きをした。
「その結婚はおまえが望んだことなのかと訊いている」
「望んだっていうか……そう決まっているから……」
 彼女は戸惑ったような表情で首を傾げ、曖昧に答えた。
 ラウルはまっすぐ彼女を見たまま質問を続ける。
「他人に決められた人生を歩んで、それで幸せなのか」
「私はサイファが好きだし、みんな優しくしてくれるし、それでいいって思ってるんだけど……」
 レイチェルは自信のなさそうな声で言う。表情は次第に曇っていった。
「おまえの本当にやりたいことは何だ。自分で考えたことはあるのか」
 ラウルは責め立てるように畳み掛けた。
 レイチェルは困惑したように蒼い瞳を揺らした。小さな口をきゅっと結び、難しい顔でゆっくりとうつむく。机の上に置いた自分の手をじっと見つめた。
「……悪い、余計なことを言った」
 ラウルは頭に手をやり、溜息をついて詫びた。
 レイチェルとサイファの婚約については、これまでもずっと小さな棘のように心に引っかかっていた。彼女の意向など少しも考慮されずに決められたことである。口に出すことはなかったが、常に疑問には思っていた。
 彼女に不満そうな様子は見られなかった。むしろ、幸せそうに見えた。
 だが、それは、初めから他の選択肢をすべて排除されていたためだろう。生まれたときからサイファの婚約者と決められ、16歳で結婚して家庭に入るのだと言い聞かされて育った。他のことは考えも及ばなかったに違いない。言い方は悪いが洗脳のようなものだ。
 現実として、彼女がそれを受け入れるしかないことは理解している。彼女ひとりの力ではどうすることもできない問題だ。そうだとすれば、下手に自分の考えなど持たない方が幸せなのかもしれない。
 しかし、不条理な運命を当然のように受け入れている彼女を目の当たりにすると、無性に腹立たしく感じられた。それは自分の勝手な感情である。相手に押しつけてはならないものだ。
 そう、彼女をこんなふうに問い詰めるべきではなかった。
 そもそもラウルは他人には干渉しないようにしている。誰がどういう人生を送ろうと、自分には関係のないことだ。レイチェルについては、様々ないきさつもあり、特別な感情がなかったとはいわないが、それでも積極的に関わろうとはしなかった。
 だが、今日は――。
 彼女に関することにおける今日の行動は、どれも普通ではない。完全に自分の基準から外れている。いまだに過去の面影を引きずっているのだろうか。いや、そうではない。研究所でアルフォンスに言った理由は嘘ではないが、それはレイチェルに面影を重ねているということではなく、彼女を同じような目に遭わせたくないという思いである。
 ラウルは立ち上がった。冷蔵庫から小さなカップを取り出し、レイチェルの前に置く。それは、先ほどと同じプリンだった。余分に作ってあったものである。
「食べろ」
「うん……」
 レイチェルは曇った表情のまま小さく頷いた。だが、じっとしたまま手を伸ばそうとはしなかった。
「紅茶ももう一杯飲むか」
「うん……」
 ラウルは無言でレイチェルに背を向け、ヤカンに水を入れて火に掛けた。青い炎をじっと見つめる。その青の放つ強い光が、何か自分を挑発しているように感じられた。そんなふうに思うなどどうかしている――小さく溜息をつき、後ろのレイチェルに視線を向ける。
 彼女はそっとプリンに手を伸ばしていた。それをすくって口に運ぶと、ようやく少し微笑みを取り戻した。

「わかったわ」
 二個目のプリンを食べ終わり、二杯目の紅茶を飲んでいたレイチェルは、唐突に大きく瞬きをしてそう言うと、ティーカップをソーサに戻した。テーブルに腕をついて身を乗り出す。
「ラウル、私にプリンの作り方を教えて」
「……何を言っている」
 ラウルは怪訝に目を細めて言う。彼女の発言はあまりに突飛なものだった。いったい何がわかったというのだろうか。何を思ってそんなことを言い出したのだろうか。まるで見当がつかない。
「私、このプリンを食べて元気が出たの。幸せを感じたの。だから、私もこのプリンを作ってみたい、作れるようになりたいなって」
「なぜそうなる……」
「これが私のやりたいことよ。ちゃんと自分で考えたの」
 レイチェルはにっこりとして言った。
 ラウルはじっと彼女を見つめる。確かにやりたいことはあるのかと尋ねたが、そういうことをいったのではない。人生をどうするのかということを尋ねたつもりだった。しかし、確かにいきなりそんな大きなことは考えられないだろう。的外れの理解不能な結論でも、彼女が自分で考えて出したのならば、それはそれで前向きといえる。
「おまえ、何か料理をしたことがあるのか」
「お茶を淹れたこともないわ」
 レイチェルは清々しいくらいにあっけらかんと答えた。
「……やめておけ、死ぬぞ」
 ラウルは眉をひそめ、低い声で言った。
「ラウルに迷惑は掛けないわ。作り方だけ教えて。すぐに作れるようになるとは思わないから、家で何度も練習しながら頑張るつもり」
「余計に不安だ」
「ねえ、お願い。お母さまに見てもらいながらにするから」
 レイチェルは顔の前で両手を組んで懇願した。大きな蒼い瞳が小さく揺れる。
 ラウルは腕をつき、額を押さえた。それほど難しいことではないのだが、お茶すら淹れたことのない彼女には危険な作業だ。火傷でもしかねない。だが、こんなにも必死な彼女を見たのは初めてである。そこまでの強い希望であれば叶えてやるべきではないか――そんな気持ちになる。
「……絶対にひとりではやるな」
 レイチェルはぱっと顔を明るくして体を起こした。
「ありがとう、約束は絶対に守るから心配しないで」
「今日はもう遅い。あしたでいいな」
 ラウルは疲れた声でそう言うと、腕を組んで溜息をついた。
 そんなラウルの心情を知ってか知らずか、レイチェルは両手を組んで浮かれた声で言う。
「いつになるかわからないけれど、上手に作れたらラウルにも持ってくるわね」
「食べられるものしか受け付けんぞ」
「ええ、精いっぱい頑張るわ」
 レイチェルは愛くるしい笑顔で答えた。
 これも我が侭といえばそうだ。だが、今までの我が侭とは違う。単に誰かに何かをしてもらおうというのではなく、自分で考えて努力しようとしている。これまでの彼女にはなかった姿勢である。まだ恐ろしいくらいに危うく未熟だが、彼女は自分の意志を持って歩き始めたのかもしれない。それが良いことなのか悪いことなのか――ラウルにはわからなかった。
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