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15. 臆病な心
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「説明、してもらおうか」
アルフォンスは応接間に入るなり、ソファに座っていたラウルを激しく睨みつけ、低く唸るように言った。抑えきれない怒りを、それでも懸命に抑えようとしている様子が窺える。
アリスから連絡を受けるとすぐに、アルフォンスは研究所から飛んで帰ってきた。仕事どころではなかったのだろう。真っ先にレイチェルの部屋へと駆け込み、自分の目でその無事を確認してきたようだ。彼女が少しでも負傷していたら、この程度の怒りではすまなかったに違いない。我を忘れてラウルを殺そうとしたかもしれない。娘を溺愛している彼なら十分にありえることだ。
「アルフォンス、とりあえず座ったら?」
「……ああ」
アリスの冷静な声に促され、アルフォンスはラウルの正面に腰を下ろした。革張りのソファが小さな摩擦音を立てて深く沈む。その間も、彼はずっと睨みをきかせたままだった。今にも爆発しそうなピリピリとした気が、その全身から発せられていた。
「何があった」
概要についてはアリスから聞いているだろうが、それでもラウルは省略せず、一から説明を始めた。自分がどう考えたかということは述べず、起こした行動と起こった現象のみを淡々と伝えていく。
アルフォンスは膝の上で両手を組み合わせ、ずっと下を向いたまま聞いていた。力の入った指先が小刻みに震えている。眉間には深い縦皺が刻まれ、もともと険しかった表情が、さらにその険しさを増していった。
ラウルが一通りの説明を終えると、アルフォンスはゆっくりと視線を上げた。じっと睨みつけながら、低い声で質問する。
「なぜ、レイチェルの力を目覚めさせようとした」
「それが可能だと感じたからだ」
ラウルは目を逸らすことなく端的に答えを返した。
瞬間、アルフォンスの瞳に激しい光が宿る。
「おまえにそんなことを頼んだ覚えはない。万一に備えて魔導の制御を学ばせることが目的だったはずだ」
「わかっている」
ラウルのその落ち着き払った態度が、アルフォンスの抑制した怒りに火をつけた。憤怒に顔を歪め、声を爆発させて逆上する。
「わかっていてなぜやった?! 好奇心か?! まるきり実験ではないか! いや、実験ならば万全の準備を整えて行う。その場の思いつきでやったおまえの方が余程たちが悪い!!」
応接間に迫力のある重低音が響き渡る。空気の振動が目に見えて伝わってくるようだった。
「浅はかな行動だったことは認める」
「認めればすむと思っているのか!!」
アルフォンスはローテーブルを踏みつけて身を乗り出すと、ラウルの胸ぐらを両手で掴み上げた。ティーカップとソーサが床に落ちて割れる。ラウルの白い布製の靴に、ぬるい紅茶が染みを作った。
「取り返しのつかないことになっていたかもしれないとわかっているのか? レイチェルに何かあったらどうするつもりだった? おまえにとっては物珍しいだけの存在かもしれんが、私にとっては何よりも大切な娘だ。もうおまえには預けられん。失望した……出て行け! おまえなどクビだ!!」
「アルフォンス、落ち着いて」
少し離れたところから、立ったままのアリスが声を掛けた。
しかし、今のアルフォンスにそれを聞き入れる余裕はなかった。むしろ逆効果だったのかもしれない。アリスをキッと睨みつけると、ますます激しく怒りをたぎらせる。
「おまえは落ち着きすぎだ! この男はレイチェルを危険にさらしたのだぞ?!」
「でも無事だったわ。ラウルでなければ、何事もなく収めることは出来なかったはずよ」
アリスはなおも諦めることなく、アルフォンスを宥めようとする。
「コイツと一緒でなければ、そもそも暴発を起こすこともなかった!!」
「そうとは限らないでしょう?」
「……それは……そうだが……」
アルフォンスは図星を指されて言葉に詰まった。悔しそうに奥歯を噛みしめてうつむく。レイチェルの隠れた魔導力は未知のもので、いつ目覚めるか、いつ暴発を起こすかもわからない。ただ、これまで何事もなく平穏に時が過ぎてきたので、その危険性の認識が薄らいでいたのだ。それは、アルフォンスだけではなく、ラウルもまた同じだった。
「だが、ラウルが暴発させたという事実は変わらんだろう!」
「ええ、そうね」
必死に言い返したアルフォンスの言葉を、アリスは拍子抜けするくらい素直に肯定した。
「だから、魔導はしばらく休ませるべきだと思うけれど、家庭教師は続けてもらってもいいんじゃないかしら。よくやってくれているもの。レイチェルがこれほど真面目に勉強するようになったのも、ラウルの指導のおかげでしょう? アルフォンス、あなたもそう言っていたじゃない」
ラウルの胸ぐらを掴む手から、少し力が抜けた。
アリスはさらに畳み掛ける。
「それに、ラウルには、今後しばらくレイチェルの経過を見守ってもらわなければならないわ。今回の影響がどのように出るかわからないもの。このことがきっかけで暴発を起こしやすくなるかもしれない。もちろん私たちも気をつけるべきだけれど、残念ながらラウルほど察知する能力はないから」
アルフォンスの口からもう反論の言葉は出てこなかった。ラウルから手を離し、どっしりとソファに腰を下ろすと、開いた両膝に腕を掛けてうなだれる。大きな背中が丸まって、小さく上下し、まるで泣いているように見えた。
アリスはラウルに振り向き、まっすぐに見つめながら、凛とした声で言う。
「ラウルもそれでいいわね。家庭教師、続けてくれるでしょう?」
「レイチェルの気持ち次第だ。彼女が望むのであれば続ける、望まないのであれば辞める」
ラウルは無表情のまま答える。配慮のない行動で怖がらせてしまった以上、彼女の方が自分を拒絶する可能性がある。その心情を無視するわけにはいかない。
「そうだな……何よりもあの子の意思を優先すべきだ」
アルフォンスもうなだれたままラウルに同調した。
アリスは顎を引き、ソファの二人をじっと睨むように見つめた。
「でも、ラウルには責任があるはずよ」
「出来ることはするつもりだ。家庭教師でなくとも経過を見守ることは可能だろう」
「そうね……」
アリスはしばらく考えてから顔を上げ、明瞭な口調で結論を述べる。
「では、ラウルの言ったとおりにしましょう。レイチェルが落ち着いたら意思を確認するわ。あの子が望めば続ける、拒否すれば辞める、その場合でも何らかの方法で経過は見守る。そういうことでいいわね」
「ああ」
「結果は明日中に連絡するわ」
「わかった」
ラウルはソファから立ち上がった。割れたティーカップの白い欠片をまたいで足を踏み出す。靴についた紅茶の染みは、もうだいぶ乾きかけているように見えた。
「すまなかった」
アルフォンスは大きな体をゆっくりと起こし、力のない声で言った。
「先ほどの非礼を許してほしい。君に悪気がなかったことはわかっている。実験などというつもりでなかったことも。研究所に来てもらったとき、私の代わりにレイチェルを守ってくれたことは忘れていない」
「責められて当然のことをした」
ラウルは振り返ることなく応じると、大きな足どりで応接間をあとにした。
「ラウル!」
廊下に出てきたアリスが、さらりと金の髪を揺らしながら、小走りで追いかけてきた。振り返ったラウルの前で足を止めると、胸もとに左手を当てて言う。
「さっきはきつい態度をとってしまってごめんなさい」
「おまえはするべきことをしただけだ」
アルフォンスが怒りで冷静さを失っていた以上、あの場を収束させるには、彼女が毅然とした態度で仕切るしかなかっただろう。そのことで彼女に反感を覚えたということはない。逆に見直したくらいである。いざというときは、アルフォンスよりも頼りになるのかもしれない。
アリスは小さく安堵の息をつき、にっこりと人なつこく微笑んだ。
「これからも私たちの力になってくれると嬉しいわ」
「ああ……」
その肯定の返事には、若干の迷いが滲んでいた。ラウルに異存があるわけではない。当然ながらそうするつもりであるし、そうしなければならないと思っている。だが、レイチェルがそれを望んでいるとは限らない。彼女は、もう自分など――。そのことが抜けない棘のように心に疼きを与えていた。
それを敏感に感じ取ったのか、アリスは補足するように言う。
「レイチェルのことなら心配ないと思うわ」
「どういうことだ」
「あなたを拒絶したりしないってこと。レイチェルに言われたのよ、ラウルは悪くないから責めないでって。魔導のことは怖がっているかもしれないけれど、あなたのことは大丈夫なんじゃないかしら。まだ信頼しているみたいよ」
ラウルは無表情のまま、僅かにうつむいた。奥歯を強く噛みしめる。
「……帰る前にもう一度レイチェルの様子を見たい」
「ええ、どうぞ」
アリスはくすりと笑う。
「あっ、でも、寝ていたら起こさないでもらえるかしら」
「わかった」
ラウルは静かに答えると、二階へ続く階段を上っていく。その歩みを導くように、上方から色づいた光が降り注いでいた。
二階の突き当たりにあるレイチェルの部屋――。
ラウルはその扉の前で足を止めた。数ヶ月前に彼女の家庭教師を始めて以来、毎日のように訪れている場所である。もうすっかり見慣れた光景だ。だが、今は何か少し違って見える。僅かな緊張を感じつつ、白い扉をノックした。
しばらく待ったが、返事はなかった。物音ひとつ聞こえない。
おそらく彼女は眠っているのだろう。アリスには起こすなと言われている。このまま帰るべきだということはわかっていた。それでも、どうしても諦めきれなかった。せめて顔だけでも見たいと思う。音を立てないように扉を開き、静かに足を踏み入れた。
広い部屋の奥に、天蓋つきの大きなベッドが置かれている。
彼女はそこに眠っていた。布団が掛けられているため、首もとまでしか見えないが、淡いピンク色の寝衣を身につけているようだ。脇には椅子が置いてあった。ラウルが家庭教師のときにいつも使っているものだ。アルフォンスかアリスのどちらかが、ここに持ってきて座ったのだろう。ラウルもそこに腰を下ろす。
そのとき、レイチェルの目が開いた。
澄んだ蒼の瞳は、迷うことなく、深い濃色の瞳を捉える。
ラウルの鼓動は大きく打った。
まるで心まで見透かされるようだった。それでも、その瞳の持つ強い引力には抗えず、少しも目を離すことができない。喉が渇いていくのを感じる。ごくり、と唾を飲み込んでから、平静を装いつつ口を開く。
「悪かった、起こしてしまって」
「起きていたわ」
レイチェルは少し掠れた声で答えると、肘をついて上半身を起こそうとする。だが、ラウルはそれを制止した。細い肩を押さえてベッドに戻す。
「寝ていろ」
「ラウルと話がしたいの」
「そのままでも話はできる」
「私、どこか悪いの?」
レイチェルは不安そうに顔を曇らせて尋ねた。
ラウルは布団を掛け直しながら言う。
「体に損傷はないが、少し衰弱が見られる。無理な魔導が体に負担を掛けたのだ。心配は不要だ。ただ、体力を回復させるために、少なくとも今日一日は安静にしている必要がある。大人しく横になっていろ。医師としての命令だ」
その説明に納得したのか、レイチェルはもう起き上がろうとしなかった。小さく息を吐くと、天蓋を見つめて目を細める。
「無理な魔導……暴発……私がラウルの力を受け止められなかったからなのよね」
「いや、そうではない。あれは……」
ラウルはそう言いかけて口をつぐんだ。暴発を起こした強大な魔導力は、レイチェル自身が潜在的に持っているものだ――そんなことを知ったら、彼女は余計に怯えることになるかもしれない。自分の力だと思わない方が、まだましなのかもしれない。
「ラウルの力が私の中に入ってくるのは感じたわ」
レイチェルはゆっくりとラウルに顔を向けた。大きな瞳でじっと見つめる。
「私はその力を受け止めなければならなかった。でも、私にはそれだけの器がなかった。だから、行き場をなくした魔導力が暴発してしまった。そういうことでしょう?」
彼女の解釈はそれなりに筋が通っていた。いっそ、そういうことにしてしまった方がいいのかもしれないと思う。だが、積極的に肯定するほどの潔さは持ち合わせていなかった。何も答えを返さず、ただ沈黙するだけである。それが肯定を示すことになると知りながら――。
「ごめんなさい、ラウル、お父さまに怒られたわよね」
レイチェルは申し訳なさそうに目を細めて、謝罪の言葉を口にする。
「おまえは何も悪くない。悪いのは私だ。私の行動が配慮に欠けていたからだ」
ラウルは早口で畳み掛けるように言った。その事実だけは明確に伝えたかった。彼女が自分を責めることなどあってはならないのだ。
「ラウル、お願いがあるの」
「何だ」
「サイファにはこのことを内緒にしておいて」
レイチェルは思い詰めた表情で、真摯に頼み込む。
「なぜだ」
「心配をかけたくないの。サイファってすごく心配性だから、暴発を起こしたなんて知ったら、どんな行動をとるかわからない。ラウルもきっとまた怒られてしまうわ」
「わかった、サイファには何も言わない」
ラウルは彼女の目を見つめて答える。
「だが、さっきも言ったが、私は怒られて当然のことをした。おまえが気を遣う必要はない」
「優しいのね、ラウルは」
レイチェルはそう言って微笑んだ。だが、それは力のない儚いものだった。疲労からきているというよりも、何か精神的なものが影響しているように感じられた。
ふと、その目から一筋の涙が伝った。
そのことに彼女自身が驚いているようだった。はっと目を見開くと、慌てて手のひらで拭う。しかし、すぐにまた拭いきれないほど溢れ出し、髪と枕を濡らしていく。やがて、彼女は泣き顔を隠すように両腕で目を覆った。浅い呼吸でしゃくり上げながら嗚咽する。それでも、声だけは必死に抑えようとしていた。
「レイチェル……」
ラウルはどうしていいかわからず、ただ名前を呼ぶことしかできなかった。
「わ……たし……力がなくて……魔導が下手で、ごめんなさい」
レイチェルは泣きながら、弱々しく震える声で言った。
頭をガツンと殴られたような衝撃がラウルを襲う。
このときまで気づけなかった。
彼女がそれほどまでに気にしていたとは、それほどまでに自分を責めていたとは――。
「レイチェル、違う、そうではない」
「私のことを嫌いにならないで……っ」
縋るような悲痛な声が、胸を掻きむしる。焼けるように熱く、痛い。
ラウルはようやく理解した。
単に魔導を怖がっていたわけではない。
単に訓練を不安がっていただけではない。
彼女が最も怯えていたことは別にあった。
それは、魔導を使えない自分を拒絶されること――。
だから、これほどまで頑なに魔導の訓練を拒否してきたのだろう。魔導を使えない自分を見せたくない、知られたくないという一心だったに違いない。
ラグランジェ家にとっては、魔導がすべてだといっても過言ではない。
その一族に生まれながら、思うように魔導を扱えない彼女が、どのような気持ちでいたのか。今ならばおおよそ想像がつく。たとえ誰かに何かを言われなくとも、居心地の悪さは感じるだろう。実際には「ラグランジェ失格」「出来損ない」などの酷い言葉を浴びせられることもあったらしい。それを真に受けたとしたら、彼女が自分を責めるようになるのも不思議ではない。
それでも、サイファや両親に心配を掛けないように、その気持ちをひた隠しにし、努めて明るく振る舞っていたのだ。もしかしたら、魔導の力がなくとも気にしないと自分に言い聞かせ、思い込もうとしていたのかもしれない。
だが、今は、脆く臆病な心を守るものすべてが崩れてしまっている――。
「レイチェル、きのうも言ったはずだ。嫌いになどならない」
レイチェルは両腕で目を覆ったまま、頭を強く左右に振った。
「ラウルは私に幻滅している。でも、優しいからそれを認めないだけ!」
「レイチェル、私を見ろ」
ラウルは椅子から腰を上げ、彼女の両手首を掴んで腕を開いた。少しの抵抗はあったが、ラウルの力に敵うはずもない。すぐにその腕は白いシーツに押しつけられた。しかし、それでもなお、彼女はラウルを見ることを拒んだ。怯えたように目蓋を震わせながら、きつく目をつむっている。そして、苦しげに浅い息を繰り返すと、閉じた目の端から新しい涙を溢れさせた。
「レイチェル……」
ラウルは呟くように名を呼んだ。押し潰されそうなほどに胸が苦しい。折れんばかりの細い手首を掴んだまま、真上から目を細めて彼女を見下ろすと、そっと身を屈めて顔を近づけた。
長い焦茶色の髪が音もなくシーツに落ちる。
重なる自分の唇と彼女の唇。
長い、無言の会話。互いの気持ちを確かめ合う術――。
時が止まったかのような錯覚。
時計の秒針の音が引き戻す現実。
名残惜しげにゆっくりと体を起こしていく。
ベッドの上のレイチェルは、大きく目を見開き、ただ呆然とラウルの顔を見上げていた。泣くことも、瞬きすることも、そして息をすることすら忘れているように見える。固まったまま身じろぎひとつしない。
「私を信じろ」
ラウルは深く静かな声を落とす。そして、彼女の腕を押さえていた手を離すと、濡れた目もとを親指で拭った。温もりを伝えるように、大きな手で柔らかな頬を包み込む。
ようやく、レイチェルは安堵したように表情を緩ませた。僅かにこくりと頷いて、小さな微笑みを見せる。もう大丈夫、そう言っているかのようだった。
新たなひとしずくが目尻から零れ落ちる。だが、彼女はもうそれを拭おうとはしなかった。
ラウルは部屋を出て白い扉を閉めると、そこにもたれかかった。小さく息を吐いてうつむく。そして、眉根を寄せて額を押さえると、無造作に前髪を掴んだ。
どうかしている――。
なぜ、あんなことをしてしまったのだろうか。二度とすべきではないと思っていたことだ。
彼女を慰めようとしたわけではない。彼女を泣きやませようとしたわけではない。
おそらく、そこにあったのは根源的な衝動だけだ。
行動を起こしたときには何も考えていなかった。考えるより先に体が動いていたのだ。
ラウルはそのことが何よりも怖かった。
アルフォンスは応接間に入るなり、ソファに座っていたラウルを激しく睨みつけ、低く唸るように言った。抑えきれない怒りを、それでも懸命に抑えようとしている様子が窺える。
アリスから連絡を受けるとすぐに、アルフォンスは研究所から飛んで帰ってきた。仕事どころではなかったのだろう。真っ先にレイチェルの部屋へと駆け込み、自分の目でその無事を確認してきたようだ。彼女が少しでも負傷していたら、この程度の怒りではすまなかったに違いない。我を忘れてラウルを殺そうとしたかもしれない。娘を溺愛している彼なら十分にありえることだ。
「アルフォンス、とりあえず座ったら?」
「……ああ」
アリスの冷静な声に促され、アルフォンスはラウルの正面に腰を下ろした。革張りのソファが小さな摩擦音を立てて深く沈む。その間も、彼はずっと睨みをきかせたままだった。今にも爆発しそうなピリピリとした気が、その全身から発せられていた。
「何があった」
概要についてはアリスから聞いているだろうが、それでもラウルは省略せず、一から説明を始めた。自分がどう考えたかということは述べず、起こした行動と起こった現象のみを淡々と伝えていく。
アルフォンスは膝の上で両手を組み合わせ、ずっと下を向いたまま聞いていた。力の入った指先が小刻みに震えている。眉間には深い縦皺が刻まれ、もともと険しかった表情が、さらにその険しさを増していった。
ラウルが一通りの説明を終えると、アルフォンスはゆっくりと視線を上げた。じっと睨みつけながら、低い声で質問する。
「なぜ、レイチェルの力を目覚めさせようとした」
「それが可能だと感じたからだ」
ラウルは目を逸らすことなく端的に答えを返した。
瞬間、アルフォンスの瞳に激しい光が宿る。
「おまえにそんなことを頼んだ覚えはない。万一に備えて魔導の制御を学ばせることが目的だったはずだ」
「わかっている」
ラウルのその落ち着き払った態度が、アルフォンスの抑制した怒りに火をつけた。憤怒に顔を歪め、声を爆発させて逆上する。
「わかっていてなぜやった?! 好奇心か?! まるきり実験ではないか! いや、実験ならば万全の準備を整えて行う。その場の思いつきでやったおまえの方が余程たちが悪い!!」
応接間に迫力のある重低音が響き渡る。空気の振動が目に見えて伝わってくるようだった。
「浅はかな行動だったことは認める」
「認めればすむと思っているのか!!」
アルフォンスはローテーブルを踏みつけて身を乗り出すと、ラウルの胸ぐらを両手で掴み上げた。ティーカップとソーサが床に落ちて割れる。ラウルの白い布製の靴に、ぬるい紅茶が染みを作った。
「取り返しのつかないことになっていたかもしれないとわかっているのか? レイチェルに何かあったらどうするつもりだった? おまえにとっては物珍しいだけの存在かもしれんが、私にとっては何よりも大切な娘だ。もうおまえには預けられん。失望した……出て行け! おまえなどクビだ!!」
「アルフォンス、落ち着いて」
少し離れたところから、立ったままのアリスが声を掛けた。
しかし、今のアルフォンスにそれを聞き入れる余裕はなかった。むしろ逆効果だったのかもしれない。アリスをキッと睨みつけると、ますます激しく怒りをたぎらせる。
「おまえは落ち着きすぎだ! この男はレイチェルを危険にさらしたのだぞ?!」
「でも無事だったわ。ラウルでなければ、何事もなく収めることは出来なかったはずよ」
アリスはなおも諦めることなく、アルフォンスを宥めようとする。
「コイツと一緒でなければ、そもそも暴発を起こすこともなかった!!」
「そうとは限らないでしょう?」
「……それは……そうだが……」
アルフォンスは図星を指されて言葉に詰まった。悔しそうに奥歯を噛みしめてうつむく。レイチェルの隠れた魔導力は未知のもので、いつ目覚めるか、いつ暴発を起こすかもわからない。ただ、これまで何事もなく平穏に時が過ぎてきたので、その危険性の認識が薄らいでいたのだ。それは、アルフォンスだけではなく、ラウルもまた同じだった。
「だが、ラウルが暴発させたという事実は変わらんだろう!」
「ええ、そうね」
必死に言い返したアルフォンスの言葉を、アリスは拍子抜けするくらい素直に肯定した。
「だから、魔導はしばらく休ませるべきだと思うけれど、家庭教師は続けてもらってもいいんじゃないかしら。よくやってくれているもの。レイチェルがこれほど真面目に勉強するようになったのも、ラウルの指導のおかげでしょう? アルフォンス、あなたもそう言っていたじゃない」
ラウルの胸ぐらを掴む手から、少し力が抜けた。
アリスはさらに畳み掛ける。
「それに、ラウルには、今後しばらくレイチェルの経過を見守ってもらわなければならないわ。今回の影響がどのように出るかわからないもの。このことがきっかけで暴発を起こしやすくなるかもしれない。もちろん私たちも気をつけるべきだけれど、残念ながらラウルほど察知する能力はないから」
アルフォンスの口からもう反論の言葉は出てこなかった。ラウルから手を離し、どっしりとソファに腰を下ろすと、開いた両膝に腕を掛けてうなだれる。大きな背中が丸まって、小さく上下し、まるで泣いているように見えた。
アリスはラウルに振り向き、まっすぐに見つめながら、凛とした声で言う。
「ラウルもそれでいいわね。家庭教師、続けてくれるでしょう?」
「レイチェルの気持ち次第だ。彼女が望むのであれば続ける、望まないのであれば辞める」
ラウルは無表情のまま答える。配慮のない行動で怖がらせてしまった以上、彼女の方が自分を拒絶する可能性がある。その心情を無視するわけにはいかない。
「そうだな……何よりもあの子の意思を優先すべきだ」
アルフォンスもうなだれたままラウルに同調した。
アリスは顎を引き、ソファの二人をじっと睨むように見つめた。
「でも、ラウルには責任があるはずよ」
「出来ることはするつもりだ。家庭教師でなくとも経過を見守ることは可能だろう」
「そうね……」
アリスはしばらく考えてから顔を上げ、明瞭な口調で結論を述べる。
「では、ラウルの言ったとおりにしましょう。レイチェルが落ち着いたら意思を確認するわ。あの子が望めば続ける、拒否すれば辞める、その場合でも何らかの方法で経過は見守る。そういうことでいいわね」
「ああ」
「結果は明日中に連絡するわ」
「わかった」
ラウルはソファから立ち上がった。割れたティーカップの白い欠片をまたいで足を踏み出す。靴についた紅茶の染みは、もうだいぶ乾きかけているように見えた。
「すまなかった」
アルフォンスは大きな体をゆっくりと起こし、力のない声で言った。
「先ほどの非礼を許してほしい。君に悪気がなかったことはわかっている。実験などというつもりでなかったことも。研究所に来てもらったとき、私の代わりにレイチェルを守ってくれたことは忘れていない」
「責められて当然のことをした」
ラウルは振り返ることなく応じると、大きな足どりで応接間をあとにした。
「ラウル!」
廊下に出てきたアリスが、さらりと金の髪を揺らしながら、小走りで追いかけてきた。振り返ったラウルの前で足を止めると、胸もとに左手を当てて言う。
「さっきはきつい態度をとってしまってごめんなさい」
「おまえはするべきことをしただけだ」
アルフォンスが怒りで冷静さを失っていた以上、あの場を収束させるには、彼女が毅然とした態度で仕切るしかなかっただろう。そのことで彼女に反感を覚えたということはない。逆に見直したくらいである。いざというときは、アルフォンスよりも頼りになるのかもしれない。
アリスは小さく安堵の息をつき、にっこりと人なつこく微笑んだ。
「これからも私たちの力になってくれると嬉しいわ」
「ああ……」
その肯定の返事には、若干の迷いが滲んでいた。ラウルに異存があるわけではない。当然ながらそうするつもりであるし、そうしなければならないと思っている。だが、レイチェルがそれを望んでいるとは限らない。彼女は、もう自分など――。そのことが抜けない棘のように心に疼きを与えていた。
それを敏感に感じ取ったのか、アリスは補足するように言う。
「レイチェルのことなら心配ないと思うわ」
「どういうことだ」
「あなたを拒絶したりしないってこと。レイチェルに言われたのよ、ラウルは悪くないから責めないでって。魔導のことは怖がっているかもしれないけれど、あなたのことは大丈夫なんじゃないかしら。まだ信頼しているみたいよ」
ラウルは無表情のまま、僅かにうつむいた。奥歯を強く噛みしめる。
「……帰る前にもう一度レイチェルの様子を見たい」
「ええ、どうぞ」
アリスはくすりと笑う。
「あっ、でも、寝ていたら起こさないでもらえるかしら」
「わかった」
ラウルは静かに答えると、二階へ続く階段を上っていく。その歩みを導くように、上方から色づいた光が降り注いでいた。
二階の突き当たりにあるレイチェルの部屋――。
ラウルはその扉の前で足を止めた。数ヶ月前に彼女の家庭教師を始めて以来、毎日のように訪れている場所である。もうすっかり見慣れた光景だ。だが、今は何か少し違って見える。僅かな緊張を感じつつ、白い扉をノックした。
しばらく待ったが、返事はなかった。物音ひとつ聞こえない。
おそらく彼女は眠っているのだろう。アリスには起こすなと言われている。このまま帰るべきだということはわかっていた。それでも、どうしても諦めきれなかった。せめて顔だけでも見たいと思う。音を立てないように扉を開き、静かに足を踏み入れた。
広い部屋の奥に、天蓋つきの大きなベッドが置かれている。
彼女はそこに眠っていた。布団が掛けられているため、首もとまでしか見えないが、淡いピンク色の寝衣を身につけているようだ。脇には椅子が置いてあった。ラウルが家庭教師のときにいつも使っているものだ。アルフォンスかアリスのどちらかが、ここに持ってきて座ったのだろう。ラウルもそこに腰を下ろす。
そのとき、レイチェルの目が開いた。
澄んだ蒼の瞳は、迷うことなく、深い濃色の瞳を捉える。
ラウルの鼓動は大きく打った。
まるで心まで見透かされるようだった。それでも、その瞳の持つ強い引力には抗えず、少しも目を離すことができない。喉が渇いていくのを感じる。ごくり、と唾を飲み込んでから、平静を装いつつ口を開く。
「悪かった、起こしてしまって」
「起きていたわ」
レイチェルは少し掠れた声で答えると、肘をついて上半身を起こそうとする。だが、ラウルはそれを制止した。細い肩を押さえてベッドに戻す。
「寝ていろ」
「ラウルと話がしたいの」
「そのままでも話はできる」
「私、どこか悪いの?」
レイチェルは不安そうに顔を曇らせて尋ねた。
ラウルは布団を掛け直しながら言う。
「体に損傷はないが、少し衰弱が見られる。無理な魔導が体に負担を掛けたのだ。心配は不要だ。ただ、体力を回復させるために、少なくとも今日一日は安静にしている必要がある。大人しく横になっていろ。医師としての命令だ」
その説明に納得したのか、レイチェルはもう起き上がろうとしなかった。小さく息を吐くと、天蓋を見つめて目を細める。
「無理な魔導……暴発……私がラウルの力を受け止められなかったからなのよね」
「いや、そうではない。あれは……」
ラウルはそう言いかけて口をつぐんだ。暴発を起こした強大な魔導力は、レイチェル自身が潜在的に持っているものだ――そんなことを知ったら、彼女は余計に怯えることになるかもしれない。自分の力だと思わない方が、まだましなのかもしれない。
「ラウルの力が私の中に入ってくるのは感じたわ」
レイチェルはゆっくりとラウルに顔を向けた。大きな瞳でじっと見つめる。
「私はその力を受け止めなければならなかった。でも、私にはそれだけの器がなかった。だから、行き場をなくした魔導力が暴発してしまった。そういうことでしょう?」
彼女の解釈はそれなりに筋が通っていた。いっそ、そういうことにしてしまった方がいいのかもしれないと思う。だが、積極的に肯定するほどの潔さは持ち合わせていなかった。何も答えを返さず、ただ沈黙するだけである。それが肯定を示すことになると知りながら――。
「ごめんなさい、ラウル、お父さまに怒られたわよね」
レイチェルは申し訳なさそうに目を細めて、謝罪の言葉を口にする。
「おまえは何も悪くない。悪いのは私だ。私の行動が配慮に欠けていたからだ」
ラウルは早口で畳み掛けるように言った。その事実だけは明確に伝えたかった。彼女が自分を責めることなどあってはならないのだ。
「ラウル、お願いがあるの」
「何だ」
「サイファにはこのことを内緒にしておいて」
レイチェルは思い詰めた表情で、真摯に頼み込む。
「なぜだ」
「心配をかけたくないの。サイファってすごく心配性だから、暴発を起こしたなんて知ったら、どんな行動をとるかわからない。ラウルもきっとまた怒られてしまうわ」
「わかった、サイファには何も言わない」
ラウルは彼女の目を見つめて答える。
「だが、さっきも言ったが、私は怒られて当然のことをした。おまえが気を遣う必要はない」
「優しいのね、ラウルは」
レイチェルはそう言って微笑んだ。だが、それは力のない儚いものだった。疲労からきているというよりも、何か精神的なものが影響しているように感じられた。
ふと、その目から一筋の涙が伝った。
そのことに彼女自身が驚いているようだった。はっと目を見開くと、慌てて手のひらで拭う。しかし、すぐにまた拭いきれないほど溢れ出し、髪と枕を濡らしていく。やがて、彼女は泣き顔を隠すように両腕で目を覆った。浅い呼吸でしゃくり上げながら嗚咽する。それでも、声だけは必死に抑えようとしていた。
「レイチェル……」
ラウルはどうしていいかわからず、ただ名前を呼ぶことしかできなかった。
「わ……たし……力がなくて……魔導が下手で、ごめんなさい」
レイチェルは泣きながら、弱々しく震える声で言った。
頭をガツンと殴られたような衝撃がラウルを襲う。
このときまで気づけなかった。
彼女がそれほどまでに気にしていたとは、それほどまでに自分を責めていたとは――。
「レイチェル、違う、そうではない」
「私のことを嫌いにならないで……っ」
縋るような悲痛な声が、胸を掻きむしる。焼けるように熱く、痛い。
ラウルはようやく理解した。
単に魔導を怖がっていたわけではない。
単に訓練を不安がっていただけではない。
彼女が最も怯えていたことは別にあった。
それは、魔導を使えない自分を拒絶されること――。
だから、これほどまで頑なに魔導の訓練を拒否してきたのだろう。魔導を使えない自分を見せたくない、知られたくないという一心だったに違いない。
ラグランジェ家にとっては、魔導がすべてだといっても過言ではない。
その一族に生まれながら、思うように魔導を扱えない彼女が、どのような気持ちでいたのか。今ならばおおよそ想像がつく。たとえ誰かに何かを言われなくとも、居心地の悪さは感じるだろう。実際には「ラグランジェ失格」「出来損ない」などの酷い言葉を浴びせられることもあったらしい。それを真に受けたとしたら、彼女が自分を責めるようになるのも不思議ではない。
それでも、サイファや両親に心配を掛けないように、その気持ちをひた隠しにし、努めて明るく振る舞っていたのだ。もしかしたら、魔導の力がなくとも気にしないと自分に言い聞かせ、思い込もうとしていたのかもしれない。
だが、今は、脆く臆病な心を守るものすべてが崩れてしまっている――。
「レイチェル、きのうも言ったはずだ。嫌いになどならない」
レイチェルは両腕で目を覆ったまま、頭を強く左右に振った。
「ラウルは私に幻滅している。でも、優しいからそれを認めないだけ!」
「レイチェル、私を見ろ」
ラウルは椅子から腰を上げ、彼女の両手首を掴んで腕を開いた。少しの抵抗はあったが、ラウルの力に敵うはずもない。すぐにその腕は白いシーツに押しつけられた。しかし、それでもなお、彼女はラウルを見ることを拒んだ。怯えたように目蓋を震わせながら、きつく目をつむっている。そして、苦しげに浅い息を繰り返すと、閉じた目の端から新しい涙を溢れさせた。
「レイチェル……」
ラウルは呟くように名を呼んだ。押し潰されそうなほどに胸が苦しい。折れんばかりの細い手首を掴んだまま、真上から目を細めて彼女を見下ろすと、そっと身を屈めて顔を近づけた。
長い焦茶色の髪が音もなくシーツに落ちる。
重なる自分の唇と彼女の唇。
長い、無言の会話。互いの気持ちを確かめ合う術――。
時が止まったかのような錯覚。
時計の秒針の音が引き戻す現実。
名残惜しげにゆっくりと体を起こしていく。
ベッドの上のレイチェルは、大きく目を見開き、ただ呆然とラウルの顔を見上げていた。泣くことも、瞬きすることも、そして息をすることすら忘れているように見える。固まったまま身じろぎひとつしない。
「私を信じろ」
ラウルは深く静かな声を落とす。そして、彼女の腕を押さえていた手を離すと、濡れた目もとを親指で拭った。温もりを伝えるように、大きな手で柔らかな頬を包み込む。
ようやく、レイチェルは安堵したように表情を緩ませた。僅かにこくりと頷いて、小さな微笑みを見せる。もう大丈夫、そう言っているかのようだった。
新たなひとしずくが目尻から零れ落ちる。だが、彼女はもうそれを拭おうとはしなかった。
ラウルは部屋を出て白い扉を閉めると、そこにもたれかかった。小さく息を吐いてうつむく。そして、眉根を寄せて額を押さえると、無造作に前髪を掴んだ。
どうかしている――。
なぜ、あんなことをしてしまったのだろうか。二度とすべきではないと思っていたことだ。
彼女を慰めようとしたわけではない。彼女を泣きやませようとしたわけではない。
おそらく、そこにあったのは根源的な衝動だけだ。
行動を起こしたときには何も考えていなかった。考えるより先に体が動いていたのだ。
ラウルはそのことが何よりも怖かった。
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