ピンクローズ - Pink Rose -

瑞原唯子

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24. 静かな決断

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 いつの頃からだろう、彼女のすべてを求める感情が芽生えたのは。
 しかしそれは心の奥底に留めておかなければならないものだった。
 そんなことはわかっているつもりだった。
 それなのに――。

 ラウルは目を細めて眼下に広がるバラ園を見下ろした。
 昨晩は一睡も出来ず、今朝になっても何も手につかず、気分転換のために外に出たのである。どこへ行くかは決めていなかったが、足は自然とここへ向かっていた。今の自分の状況を考えれば、それも当然のことだったのかもしれない。
 少し冷たい風が頬を掠めた。
 色鮮やかなバラ園をぐるりと見渡す。普段から人の少ないところだが、早朝のためか、今は誰ひとりとして見当たらない。静かだった。さわさわと葉の擦れる微かな音だけが耳に届いている。
 足を一歩踏み出した。
 彼女がきのう通った道をなぞるように、バラ園へと降りていく。
 相変わらず手入れは隅々まで行き届いていた。遠くで見ても、近くで見ても、非の打ち所のないくらいに整えられている。そしてそれを引き立てるように、花びらや葉にはいくつもの朝露が降り、清廉な朝の光を浴びて無垢に輝いていた。
 幾多のピンクローズに彩られた細道を進んでいく。
 すれ違い際に微かな風が起こり、淡く色づいた柔らかな花弁を揺らす。そこからキラリと光るひとしずくが滑り落ち、地面に弾けて消えた。
 何気なく顔を上げてあたりを見まわすと、隅にひっそりと佇む大きな木が目についた。引き寄せられるように、そのもとに足を進めて腰を下ろす。地面のひんやりとした感触が布越しに伝わってきた。立てた膝の上に腕をのせ、大きく顔を上げて目を細める。
 空は優しい色をしていた。
 ところどころにかかる薄い筋状の雲がゆっくりと形を変えていく。世界が止まったかのような静けさの中で、そのことだけが辛うじて時の流れを感じさせた。
 横からのそよ風が長めの前髪をさらさらと揺らす。
 ラウルは大きく息を吸い込み、ざらついた木の幹に体重を預けて目を閉じた。何も考えずに、ただそうしていたかった。強制的に思考を閉じる。しかし、それでも心のさざなみまでもを消すことは出来なかった。

「ラウル」
 頭上から降る澄んだ声とともに、日差しが遮られた。
 ラウルは目を開く。
 そこには、後ろで手を組んでにっこりと微笑むレイチェルが立っていた。逆光を浴びた細い金の髪が透けるように輝いている。後頭部にはいつもと同じ薄水色の大きなリボンがつけられていた。一瞬、幻覚かと思ったが、間違いなく現実である。
「なぜここへ来た」
「ラウルを探していたの」
 彼女はそう言うと、ラウルの隣に腰を下ろした。何かを敷くこともなく、直接、土の上に座った。ドレスが汚れるのではないかと思ったが、彼女はまったく気にしていないようだった。小さな手で軽く膝を抱えると、遠い空を見上げて言う。
「今朝、お父さまから話があったわ。あと三ヶ月って」
 ラウルはちらりと視線を流した。
「何と答えた」
「わかりました」
「……そうか」
 彼女はまっすぐに空を見ていた。その横顔はいつもと何ら変わりのないものだった。無理をしているようには見えない。
 ラウルは探るようにじっと彼女を見つめた。
 その視線に気づいたのか、レイチェルは不思議そうな顔で振り向いた。きょとんと瞬きをして小首を傾げる。しかし、ラウルと視線を絡ませて見つめ合うと、無防備に愛らしくニコッと微笑んだ。
 何も、何ひとつ変わっていない――。
 ラウルは僅かに目を細めた。彼女を取り巻く状況も、彼女自身も、すべて見事なくらいに以前のままだった。何かを変えるためにあんな行動を起こしたわけではない。だが、心のどこかで期待はしていたのだろう。いざこの現実を目の前に突きつけられると、どうしようもなく胸がざわめき、やるせない思いが湧き上がった。
 いっそ、連れ去るか――。
 あどけない笑顔を瞳に映しながら、ふとそんなことを思う。
 彼女ほどの魔導力があれば、おそらく、自分と同じ時間を生きることが可能になるはずだ。そうなれば、これから先の永い時間を彼女とともに過ごしていける。誰の手も届かないところで、自分の本来いるべき場所で。
 しかし、それは自分の身勝手な願いにすぎない。
 彼女は望んでいないだろう。両親やサイファと離れることも、時の流れを変えられることも。彼女のためを思うなら、やってはならないことだ。彼女を悲しませることも苦しませることも本意ではない。
 諦めるしかない。
 結局はいつもと同じ結論に辿り着く。違う筋道で考えても変わらない。これ以外の解決策は見つけられないのだ。見つけられないのではなく、そもそも存在しないのかもしれない。
「私ね……」
 レイチェルが空を見上げて静かに切り出した。
「ずっと続くような気がしていたの、こんな幸せな今の日々が。お父さまとお母さまのもとで暮らして、サイファと休日を過ごして、ラウルと一緒にお茶を飲んで……」
 淡々とそう言うと、僅かに目を伏せる。
「もちろん終わりが来ることはわかっていたけれど、遠い話のようで実感が持てなくて……でも、15歳の誕生日あたりから少しずつまわりが動き始めて、嫌でも実感させられるようになったわ。そのうちにラウルとも会えなくなるんだって寂しくて仕方なかった。それでもラウルを困らせたくなかったから、知らないふりをしようと思っていたの」
 それは初めて聞いた彼女の本心だった。
 ズクン、とラウルの胸が大きく疼く。自分のためを思っての行動だったとは思いもしなかった。そもそも知らないふりをしているとわかったのも昨日のことである。もっと早く気づくべきだった。寂しさを隠して無邪気に振る舞っていた彼女の心情を思うとやりきれない。
「私も男だったら良かったのに」
 先ほどまでの雰囲気とは一変した明るい声。
 ラウルは面食らって振り向き、怪訝に眉をひそめる。
「おまえ、何を言っている」
「そうしたら、サイファみたいに自由に会いにいけるでしょう?」
 レイチェルは顔を斜めにしてにっこりと微笑みかけた。屈託のない無邪気な笑顔である。しかし、もしかするとそれも無理をしているのかもしれないと思う。
「……ああ、そうだな」
 ラウルは目を細めて空を見上げた。
 隣のレイチェルもつられるように空を見上げた。
「これからも、サイファとは仲良くしてね」
「あいつは来るなと言ってもしつこく来る」
 サイファはこのところ足繁く医務室を訪れていた。もちろん患者としてではない。長居することこそ少ないが、仕事の合間や終わったあとに顔を見せ、軽く無駄話をしていくのだ。冷たくあしらっても一向に懲りる様子はなく、それどころか反応を楽しんでいる様子さえ窺えた。
 レイチェルは空を見たままくすりと笑った。
「サイファはラウルのことが大好きなの」
 それが事実かどうかはわからないが、ラウルにとってはどうでもいいことだった。はっきり言えば興味がない。彼がどう思っていようと自分には何の影響もないのである。
「ラウルもサイファのことが好きでしょう?」
「さあな」
 ラウルは頬杖をつき、素っ気なくはぐらかした。
 それでもレイチェルは引かなかった。
「好きだと思うわ」
「……おまえがそう言うのなら、そうなのだろう」
 考えてみれば、自分と彼女を繋ぐことができるのはサイファだけになる。彼女はそれを守ろうとしているのだろうか。それとも孤独なラウルを一人にさせまいとしているのだろうか。
 彼女が意図するものが何であるか、本当のところはわからない。
 だが、それを問いただす必要はないと思った。

 それきり二人の会話は途絶えた。
 草の匂いの混じった風が頬を撫でる。
 二人はただ空の青をその瞳に映していた。

 どれほどの時間、そうしていただろうか。
 気がつけば太陽は高い位置に来ていた。二人が座る場所には陰が落ち、強烈な白い日差しが足先を照らしている。
「私、そろそろ帰らないと」
 レイチェルはぽつりとそう言うと、地面に手をついて立ち上がろうとした。
 咄嗟にラウルはその手首を掴んだ。
 引き留めてどうするつもりだったのか、自分でもわからない。考えるよりも先に手が動いていた。怖がらせる前に放すべきだと思いつつも、手の力を抜くことが出来なかった。
 レイチェルは大きな瞳でじっとラウルを見た。
「さみしいの?」
 ラウルは目を大きく見開いた。返答に困った。顔を少しだけ逸らすと、無言のまま彼女の肩を抱き寄せる。レイチェルはなすがままラウルの胸に寄りかかった。瞬きをして不思議そうにラウルを見上げたが、視線が合うと、くすりと笑って幸せそうに目を閉じた。
 胸にかかる小さな重みが愛おしい。
 彼女の白く柔らかい頬に指先で触れた。ゆっくりと顎へと滑らせ、軽く持ち上げる。それでも目を閉じたままの彼女に、許されたような気になって、身を屈めてそっと唇を寄せた。
 だが、触れる寸前でそれを止めた。
 しばらくそのままじっとしていたが、やがて少しだけ顔を離して小さく溜息を漏らす。
 どうかしている――。
 こんなところを誰かに見られでもしたら言い訳のしようもない。ここは二人きりの部屋ではなく、王宮からは出入り自由の場所である。普段から人の少ないところではあるが、まったく誰もいないというわけではない。バラの手入れをしている人や、散歩をしている人たちが、遠くに数人ほど見えている。いつ目撃されてもおかしくない状況だ。
 レイチェルが何かを感じたのか目を開いた。
 その澄んだ大きな瞳に、ラウルは吸い込まれそうになる。くらりと目眩がして頭の中が真っ白になった。抗えぬ引力に落ちるようにそっと口づける。薄紅色の甘く柔らかい感触が頭の芯を痺れさせた。息を止めたままゆっくりと顔を離していく。
 レイチェルはニコッと笑った。
 曇りのないその笑顔を目にし、ラウルは胸が強く締めつけられた。彼女はわかっていない。ずるく身勝手な自分には、その笑顔を向けられる資格などないのだ。彼女の小さな体にまわした手に、無意識に力を込める。
 私は、弱い人間だ――。
 このままでは彼女の歩むべき人生を壊しかねない。もちろん壊すことなど望んではいない。だが、いっそ壊してしまいたいという黒い感情が潜んでいるのは事実だ。自分には衝動を抑える自信などない。取り返しのつかなくなる前に、決断しなければならないだろう。
 彼女と寄り添いながら鮮やかな青い空を見上げた。彼女も同じ空を見ている。交わされる言葉は何もない。ただ、穏やかな空気だけが二人を包んでいた。
 正午を告げる鐘が遠くで鳴り響いた。
 ラウルの心は決まった。
 だが、ここで彼女に話すつもりはない。気持ちの整理がついていないという以上に、二人のささやかな今を壊したくないという思いが強かった。
 おそらくこれが最後になるだろう。
 だから、せめてもう少しだけ、この時間が続いてほしいと願った。
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