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5.過去を話した
しおりを挟む「橘、最近顔色がいいな」
「え?」
洋食屋でのバイトが終わりかけた頃。
いつも仏頂面の店長がいきなりそんなことを言い出し、敬太は困惑した。
意味もなく頬に手を滑らせる。
「なんだ、恋でもしてんのか?」
「してませんよ。そんなヒマないです」
「枯れてんなぁ若者よ」
中年オヤジらしいヤジを飛ばされすぐに否定したが、思い当たる節がないこともなかった。
恋ではない。マツリの手料理のことだ。
近頃はそれが楽しみで、深夜のバイトを入れずに帰宅することがやや増えた。
必然的に睡眠時間が増え、栄養バランスも整い、ついでに同居人との「適度な運動」も加わって、敬太の生活品質は上がってきているらしい。
よもや他人から見てわかるほどに変化が出ているとは思っても見なかったが。
さらに追及したくてウズウズしている店長にさっさと退勤を告げ、店を出る。
エプロンを外してバッグを肩に掛ける動作も心なしか急いて、一刻も早く家に帰りたいと思っているのがバレてしまいそうだ。
今日はどんな夕食だろう。
これまでは、飲食店に勤めているのに料理のことなど考えもしなかった。それが最近では、マツリの用意する食事が楽しみで仕方がない。
これが胃袋を掴まれるということなのだろうか。
だとしたら敬太はなんてチョロい男だろう。すっかりマツリの術中にはまっているのかもしれない。
しかし相手は顔と名前しか知らない、いつか出ていく男だ。
(不毛だ……)
それでも足取りが、そして心までも軽く感じるのは、昨日の夜のことがあるからだろう。
「俺さぁ、前もこうやって男と暮らしてたんだよ」
狭い布団でマツリと「運動」した後、気怠い雰囲気の中、枕を抱えて呟く。
沈んだ声になってしまわないよう気をつけたせいか、妙に明るくてバカっぽい声色になってしまった。
ちらりと伺ったマツリは、いつも通り垂れ下がった髪の向こうで何を考えているか分からない。それでも耳を傾けていることを表すためか、ゆっくりと敬太の後ろ髪を指先で梳いた。
「うち、親父が蒸発してさ。借金抱えて、母さんとがんばってたんだけど……ずっと暗ーく、親父に恨み言ばっか言うのにまだ未練がある母さんのこと見てたら、気持ちが折れちゃって。地元の幼馴染がこっちに上京するからって誘ってくれて、出てきたんだ」
二人でシェアするのだからと、最初に住んだのはマンションの一室だった。
学生向け物件で、部屋が二つにリビング、申し訳程度のキッチン。家族以外と暮らすのは初めてだったが、幼馴染とは長い付き合いだったので不安はなかった。
同居人は大学に進学した。敬太はフリーターとして一日中働いて、いくらかを仕送りとして田舎に送った。洋食屋の夫婦とはその頃からの付き合いだ。
「俺は根っからのゲイってわけじゃなかったんだけど、あいつはそうだったみたいでさ。そういうシーンを見ちまって。俺は気まずくなりたくなくて、受け入れたんだ。実際偏見とかなかったし。そしたらいつの間にか体の関係になって……」
同性愛者である彼がどんな思いで敬太と同居していたのか、聞いたことはない。
もしかしたら以前から好意を寄せられていたのかもしれない。もしくはなんとも思っていなかったが、同居人で性欲処理できるのなら手間がないと考えたのかもしれない。
敬太と彼の間に甘い睦言や触れ合いはなかった。
「今考えたらひでぇやつだよな」
はは、と笑った声は意図せず乾いたものになった。
マツリは変わらず髪を梳いて、時折頭を撫でてくるだけだ。それがなんだか背中を押されているようで、口が滑るのが止まらない。
「それでまぁ、何年かそんな感じで……あいつは大学卒業して、社会人になって、すれ違いが増えた。ますますヤるだけの関係みたいになって……」
そして、また見てしまった。
決定的な瞬間を。
「ホントひでぇやつなんだよ。一回俺に見られたからゲイバレしたのにさ、今度は女を部屋に連れ込んで……。終いには、女と結婚するから出ていけって。さすがにムカついて二、三発殴ったけどな」
あてつけみたいに家具や家電を持っていってやろうかと考えたが、あの女が使ったかもしれないと思うと嫌で触りたくもなかった。
幸い荷物は多くなかったから、今でも愛用のボストンバッグと紙袋にありったけ自分のものを詰めて家を出た。
しばらくはネットカフェやカプセルホテルを点々とし、洋食屋夫妻の好意で数日泊めてもらうこともあった。
疲れ果てて彼らに一晩の宿を求めた時は、逆になぜ早く言わないのかと怒られたくらいだった。居心地が良くてしばらく置いてもらっていた。
「洋食屋のバイトはちょっと遠いって言ったろ? でも世話になったし、もう第二の親みたいな気持ちで……辞めるに辞めらんないんだ」
毎食のように美味いメシを大量に出されるので、ずっと彼らの元にいたら激太りしていただろうと言うと、マツリもくすりと笑う。
「それでなんとかここを見つけて、転がり込んで……だから懐かしいんだよ。帰ってきて、マツリのメシがあるとさ、店長たちの家で過ごした数日間を思い出すんだ。嫌な記憶がセットなのはいただけないけどな」
そう言って、敬太は自分で驚いた。
ずっと癒えない生傷のように抱えていた過去が「懐かしい」と言えるほど遠く感じられる。
裏切られて捨てられた。相手が男だから誰にも言えなかった。愚痴のようなものを吐いたのもずいぶん久しぶりだ。
マツリは相槌すら打たなかったが、ずっと聞いていてくれた。
説教じみたことも言わない、共感も表さない。ただ傍で髪を撫でてくれていただけ。
そういう態度が救いになることもあるのだと、敬太は初めて知った。
「悪かったな、変な話聞かせて。でもちょっとスッキリしたよ」
「……そっか」
「人に話すとラクになんだな。それともマツリが聞き上手なのか」
「そんなことは、ないと思うよ」
表情のすべては伺えないが、マツリの口元は綻んでいた。それに安心する。
相変わらずマツリは恋人ではないし、詳しい素性も知らない。それでもいいではないかと最近は思う。
子供の頃から一緒で、なにもかも知り尽くしたと思っていた相手とだってかんたんに縁が切れるのだ。いっそ何も知らないくらいが丁度いい。
「寝るか。いい加減寒いし」
「うん。おいで」
毛布を肩まで被り、腕を広げたマツリの胸元に入り込む。
もぞもぞと場所を探って、良い具合のところに収まった。目が覚めたとき目前にマツリの顔があっても敬太は驚かなくなってきた。
このまま彼の存在が奥深くまで根付いてしまうと、別れる時つらいかもしれない。
でも、これは恋ではない。いつでも失う覚悟をしていればきっと大丈夫。自らに言い聞かせる。
髪の隙間から月明かりを反射する瞳が覗いていて、それが無性にきれいだと思った。
(なんだよ、眼がきれいだって……月明かりって……)
昨日の夜のことを思い起こして、妙に少女めいた考えを持ってしまった自分が気色悪い。
ただマツリはそこらでは見られない綺麗な容姿だし、クセは強いが細くて艷やかな黒髪や、なかなか拝めない瞳は少し青みがかっていて、現実感を忘れさせる。
そういう意味では、敬太がらしくなく詩的なことを思ってしまうのはマツリのせいと言えるだろう。
そもそも同居人とのなんでもない会話を思い出して浸ったりすること自体、らしくなくセンチメンタルだ。
責任転嫁して納得したところで、乗っていた電車が最寄り駅についた。
周囲の人間と歩調を合わせ、吐き出されるように街に降り立つ。
近頃は時間が過ぎるのも早く感じる。
アパートを目指して歩きながら、そろそろ歯磨き粉がきれそうなことを敬太は不意に思い出した。
本来はドラッグストアなどで買ったほうがいいのかもしれないが、今使っているものが駅前の小さな薬局に売っているのかどうかわからない。かといって歯磨き粉のために都心へ出て大型ドラッグストアに行くというのも考えものだし、以前買った場所でまた買えばいいだろう。
「……ん? あれは……」
歯磨き粉を以前買った店───住宅街のコンビニへ足を向けた。
煌々と照らされる白い灯りが見えるようになり、店の前で揉めている男女の姿が目に入る。
その片方、背の高い男がマツリに似ているような気がして、敬太は思わずブロック塀の影に隠れた。
(って、なんで俺が隠れなきゃいけないんだよ。ふつうに声かけてすれ違えばいいだろ……)
それでもどうしても踏ん切りがつかない。
コンビニから敬太が隠れている場所まではまだかなり距離があるし、こちらは暗がりだ。向こうからこちらを見つけることはできないだろう。敬太は塀から顔だけ出して、店の前を伺った。
マツリはいつか見た、洗練されたスーツ姿だった。
その上、いつも鬱陶しく垂れ下がっていた前髪はすべて取り払われていた。ワックスを使っているのか、前髪の大部分を後ろへ流して額を露出させている。
猫背でもなく背はしゃんと伸びていて、そうしているとマツリは非の打ち所がない美形だ。
素顔を見る機会がなければ、敬太の家で背中を丸めているモサモサ頭とあのマツリを同一人物だと判断することはできないだろう。
相手の女性に見覚えはない。
長い髪で顔はよく見えないが、身につけている服やバッグ、かかとの高い靴などが見えた。上等なシルエットから、身なりにかなり気を使うタイプの若い女性と見える。
どうやらマツリは彼女になにか激しく問い詰められているらしい。困った様子で腰が引けている。
状況はまったく分からないが、もしなにかトラブルに巻き込まれているのなら助けに入ったほうがいいのかもしれない。
ブロック塀から身を乗り出した敬太は、マツリの腕が女性の背に回る場面をしっかりと見た。
「……!」
口角泡を飛ばす勢いでマツリに詰め寄っていた女性は、泣き出してしまったらしい。
マツリに背中を押されながらゆっくりと歩いていく。
二人が向かう先は、コンビニの正面に立ち並ぶマンションのようだった。高級志向のコンビニが建っているのにふさわしい、新しくて高層な建築物が多い再開発エリアだ。
敬太の脳内では、さまざまな可能性が飛び交っていた。
マツリはあの女性を彼女の家に送っていくだけだろう。
会社の同僚とかだろうか。
もしくは家族かもしれない。姉とか妹とか。
なにせ敬太はマツリのことを何一つ知らないのだ。勤め先も、家族構成も。
敬太はいつの間にかふらふらと歩き出していた。
ずっと先を行く二人に糸で引かれでもしているように、夢遊病者のように、おぼつかない足元で進んでいく。
やがてマツリたちは大きなマンションの根本に来た。
見上げるほど高い建物。ガラス張りのエントランスは柔らかなオレンジの光で、余所者を威圧し、住人を迎え入れようとしている。
マツリが女性の背に触れたまま、内ポケットからカードケースらしき小さな四角いものを取り出した。
それをエントランスの奥にある機械へ翳すと、ガラス扉が魔法みたいにすうっと開く。
二人の影がそこへ吸い込まれて消えるのを、敬太は呆然と見送った。
今だけは視力が良い自分を呪いたくなった。
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