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番外編
ふたりの不等号
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ぼふ、と沈み込むソファにはまだ慣れない。
癖のようにテーブルの上の携帯電話をチェックして、特に何も通知がないのを確認して戻し、腰を上げる。
無駄にデカいソファの周りをウロウロして、目についたハンディクリーナーを手に取り、棚の隙間に突っ込む。引っ張り出した毛の束にはろくにホコリなどついていなかった。
当然だ。この家の中はどこもかしこも隅々まで、敬太が毎日掃除しているのだから。
なんなら棚の清掃はさっき終えたばかりだ。
どうしてもやることがなくなって、拭き掃除までしたつやつやと光るフローリングをとぼとぼ歩き、再びソファにぼふ、と沈む。
「…………ひま」
通知のない携帯をまた覗いている自分に気づき、うんざりと溜息を吐き出す。
ひと月ほど前に居酒屋のアルバイトを辞めた。
これまで敬太は常に金に困っていた。精一杯働いてはいたが、非正規雇用ばかり掛け持ちで、元から体が丈夫なわけでもなく、きつい怪我や病気にでもなればたちまち生活が立ち行かなくなる自覚はあった。
かといって要領が良くなく、頼れるものもない敬太は現状を変えることができず、身をすり減らすように生きていた。
そんな日常に突然、ぽとりと落ちるように現れた存在が、敬太の何もかもを変えてしまった。
「連絡なし、か」
携帯をチェックするのはこれで三度目だ。いや、朝から数えればもっと。
同居人兼恋人であるこの家の名義人、千崎 茉莉の連絡を待っているのは、なにも色っぽい理由ではない。
居酒屋のバイトがなくなり、タイミング良く(悪く、かもしれない)洋食屋の改装工事で一週間全く働き口のなくなった敬太に、彼が何か用事を頼んでくれやしないかと期待しているのだ。
マツリの方も、敬太があまりにヒマを持て余している現状に配慮し、家事や買い物を依頼してくれる。
しかし元々敬太はこの家の料理以外の家事をすべて担っている。普段掃除しない天井やランプシェード、キッチンや風呂場の換気扇まで清掃してしまえば、いよいよやることがない。
いくら広い、広すぎるほどの家とはいえ、雑事はもう残っていなかった。
「……ひまだ」
独り言でもつぶやかなければやっていられないとばかりに、ソファに体を投げ出して天井を見上げた。
敬太はこれまで6回の引っ越し経験がある。
幼い頃、父の異動についていった。その後、父がいなくなって母に連れられ逃げるように地方を移った。それから、上京してきて幼馴染と住んだ一室。彼と決別して転がり込んだボロアパート。マツリと出会い、恋人になって、移り住んだマンション。そして今。
最初の一回目は覚えていないほど幼かったが、それを差し引いても人より多い転居数ではないだろうか。
そう考えれば己の人生は、波瀾万丈なものと言えるのかもしれない。
最後の引っ越しはごく最近だ。
なんとしてもあのボロアパートから敬太を引きずり出したかったらしいマツリは、まず一般的な不動産仲介で部屋を探しアパートを転出した。移った先は壁の厚い鉄筋コンクリートの中層マンションで、快適な住環境に敬太を慣れさせ、数カ月後に再び引っ越しを打診してきた。
荷ほどきがまだ完全ではなかった頃に「家賃がずっと安くなる」「職場にも近くなる」「引っ越し代金がほとんど掛からない」などと毎日のように囁かれ、折れた先にあったのは、マツリの親族が所有するというタワーマンションの高層階の部屋だった。
「詐欺の手法だったよな……」
一度要求を飲ませればあとはなし崩し。どこかで聞いたような手口だ。
その上「勉強でも資格取得でもやりたいことをやるべき」などと促され、流されるままバイトを減らした敬太は、家賃の支払いどころか光熱水費すら払わず、一般的な都内の居住費用に比べれば微々たる管理費と修繕積立金なるものだけを口座引落されながら日々過ごしている。
たしかに、一度は諦めた大学への進学や、正規雇用への道を目指してみてもいいと思った。
だからといって敬太の現状は、恵まれすぎ。これに尽きる。
敬太とマツリは対等だ。
少なくとも敬太はそう思っている。
たとえマツリのほうが圧倒的に稼ぎがあっても、身長体重学歴ルックス何もかもが負けていても、ベッドの中ですら組み敷かれるポジションだとしても、対等だと自負している。
マツリだって、敬太を見下したり軽んじたりすることはない。その気配すらない。
少しでもそういう気配が漂えば即座に鉄拳制裁を行うつもりではあるが、敬太がそうしたコンプレックスに敏感なことをよく理解しているのだろうと思う。
なのに焦燥感が消えない。
地に足がついていないような、それを強要されているような。
流され続けてまたどこか知らない場所に、自分の意志など関係なく、いつか意思などなくして、潮に流されるクラゲのように流されていくのではないかという、恐怖に似た焦り。
こんなことをつらつら考えるのは、何もしていないからだ。ヒマすぎるからだ。
わかっていても、今まで極めて激務だった敬太はヒマの潰し方など知らない。
働き詰めの生活を送ることで感情も過去も無理やり追い出していた敬太には、今がつらすぎる。
「────っ!」
頭を掻き毟りたくなったその時、ガラスのローテーブルを不快な音が震わせた。
すぐさま携帯を手に取る。
予想通りそこにはマツリからのメッセージが表示されていた。
内容は予想に反して、お使いや雑用の頼み事ではなかった。
「昼飯は、食べた、勉強は……これから、と」
敬太を心配し、何をしているか問う、優しくて何の意味もないメッセージ。
それに相好を崩し、ニヤつきながら返事を書く自分はきっと滑稽に見えることだろう。しかしそれを咎めるものはいない。
現状に焦りを感じるのは事実だ。しかし一方で、この恵まれた時間を無駄にすべきではないとも理解している。
埃一つない書棚からそこそこの厚さのテキストを抜き出す。
テーブルにテキストとノート、筆記用具を広げ、携帯を隅に置き、敬太はソファから降りて足元のカーペットに座り込んだ。数日前の続きから黙々と問題を解いていく。
今も昔も、考えすぎる時は目の前に課題を用意して真っ直ぐ取り組むに限る。
不器用な敬太にはそれしかできないのだった。
■ ■ ■
歩き方を気にしなくても音の響かない廊下を進み、金属の擦れる異音など一切しない玄関を引き開ける。
「ただいま……」
少し控えめな声量になるのは、あの古アパートで暮らした日々が染み付いているからではない。
「あ、やっぱり寝てる」
リビングのテーブルの前で、ソファの足元にもたれるように眠り込んでいる恋人の姿に、マツリは思わず微笑んだ。
起こさないようにそっとソファの上に横たわらせ、ブランケットを掛けてやる。
隣人がティッシュを抜く音すら聞こえるほど薄い壁の部屋で何年も生きていた彼は、ちょっとやそっとのことでは起きない。その割に、出勤のためのアラームは寝過ごすことがないのだから不思議だ。
共に暮らし始めてからというもの、敬太は目に見えて健康になっていった。
いつも疲れ切って、己の人生を投げ出すように生き急いでいた敬太は、ストレスの少ない住環境と栄養バランスに気を使った食事、金の心配のない生活を得てみるみる変わった。
痩けていた体にうっすら肉がつきはじめ、溜め息ばかりだった口から笑みが溢れることが増えた。
バイトを一つ減らしたため時間的余裕も生まれ、やることを探して家の中をうろちょろすることもあるほどだ。
指先まで疲労がこびりつき、重い影を背負っていた青年はもはや見る影もない。
「敬太さん、ベッドで寝よ?」
「んー……」
よく眠っているところを起こすのはしのびなかったが、ここで寝かせたくはない。
揺り起こすと、敬太はソファに身を起こし目元を擦った。
「あー寝てた……おかえり」
「ただいま。このまま起きる? ごはんにしようか」
「ん……」
まだ完全に覚醒していない敬太は頭をふらふらさせている。
張り詰めるほどに気を張って生きていた過去の彼からは想像できないほど、リラックスした姿にマツリの口元はゆるむ。
飲食店勤務のわりに料理がからきしな恋人の代わりに手早く夕食を整える。食卓がすっかり整うまで起きてこなかった敬太は、おいしそうな匂いに満ちたテーブルを見下ろしてバツの悪そうな顔をした。
「悪ぃ……」
「敬太さんが謝ることないよ。さ、食べよ」
取り止めなく今日あったことを報告し合いながら食卓を囲む。
敬太は外出しなかったらしく、天気と家事の話しかできないことを時折もどかしそうにしていた。
マツリは何度でも、敬太が家にいてくれれば安心して外へ出られる、帰ってこられると伝える。そうでなければ不安で仕事が手につかないと、半ば脅しのような言葉も添える。
卑怯な物言いの自覚はある。が、もしまた敬太がマツリを見限り、今度は追い出されるのではなく出ていかれてしまったら……きっと二度と見つけられない。
それだけは避けたくて、でも強引なことはしたくなくて、マツリは日々言葉を尽くして敬太を手元に縫い留めるしかない。本当は外になんか出ず仕事も放り出して、四六時中傍にいたいくらいなのだが。
「それはやめろ。働け」
「はい……」
冷たく突き放され、しょんぼりと項垂れる。
素性を隠していたせいで敬太を傷つけ、距離を置かれた過去の一件はマツリにとってもはやトラウマだ。
二度と同じことが起きないよう、敬太には隠しごとは一切せず、実家から卒業アルバムを取り寄せ、役所で戸籍謄本まで出して見せた。
卒アルは楽しそうにめくってくれた敬太も、戸籍謄本にはドン引きしていたが、後悔していない。マツリの誠意がわずかでも伝わったのならすべての手間に価値がある。
「敬太さん」
「ん」
そうした過去があるからこそ、今腕の中に求めたものがある。
呼べば応え、引き寄せれば素直に胸に寄りかかってくれる、年上の恋人が愛おしくて仕方がない。
髪にキスをして、こめかみを指でなぞりながら額に唇を落とすと、わずかに甘く潤んだ眼と視線が絡む。唇同士を触れ合わせれば、もっと欲しくなる。
「敬太さん……」
全身を無防備に預けてくれる敬太の体に手を這わせ、まだまだ薄い腹を撫でる。
すると、敬太が零すように笑った。色っぽい空気が漂いかけていた中でその声は、少し無邪気にすぎる。
「なに?」
「いや、あんた……ヤりたいときは前からそうやって腹撫でてくるよな、と思ったらおかしくて」
「えっ」
完全に無意識だった。そんな癖が自分にあったとは。
予想外の事実に呆然とするマツリに、のしかかるように姿勢を変え、敬太は艶然と微笑んだ。
「あんたの『お誘い』に俺がどう返してたか、覚えてるか?」
忘れたことなどない。
マツリへ「振り向いて」くれた敬太をぎゅっと抱きしめ、余裕なく口唇へと噛みついた。
あぁ、もうだめだ。
彼はマツリと自分を対等だと信じているようだが、実情は違う。
マツリはいつだって敬太の匙加減で心身を操られているし、翻弄されることが嬉しいのだ。いつだって不利なのはマツリのほう。
「敵わないな、敬太さんには」
唯一明確にマツリが敬太を乱し、翻弄することができる場────寝室のベッドへと二人が向かったのは、それからすぐのことだった。
癖のようにテーブルの上の携帯電話をチェックして、特に何も通知がないのを確認して戻し、腰を上げる。
無駄にデカいソファの周りをウロウロして、目についたハンディクリーナーを手に取り、棚の隙間に突っ込む。引っ張り出した毛の束にはろくにホコリなどついていなかった。
当然だ。この家の中はどこもかしこも隅々まで、敬太が毎日掃除しているのだから。
なんなら棚の清掃はさっき終えたばかりだ。
どうしてもやることがなくなって、拭き掃除までしたつやつやと光るフローリングをとぼとぼ歩き、再びソファにぼふ、と沈む。
「…………ひま」
通知のない携帯をまた覗いている自分に気づき、うんざりと溜息を吐き出す。
ひと月ほど前に居酒屋のアルバイトを辞めた。
これまで敬太は常に金に困っていた。精一杯働いてはいたが、非正規雇用ばかり掛け持ちで、元から体が丈夫なわけでもなく、きつい怪我や病気にでもなればたちまち生活が立ち行かなくなる自覚はあった。
かといって要領が良くなく、頼れるものもない敬太は現状を変えることができず、身をすり減らすように生きていた。
そんな日常に突然、ぽとりと落ちるように現れた存在が、敬太の何もかもを変えてしまった。
「連絡なし、か」
携帯をチェックするのはこれで三度目だ。いや、朝から数えればもっと。
同居人兼恋人であるこの家の名義人、千崎 茉莉の連絡を待っているのは、なにも色っぽい理由ではない。
居酒屋のバイトがなくなり、タイミング良く(悪く、かもしれない)洋食屋の改装工事で一週間全く働き口のなくなった敬太に、彼が何か用事を頼んでくれやしないかと期待しているのだ。
マツリの方も、敬太があまりにヒマを持て余している現状に配慮し、家事や買い物を依頼してくれる。
しかし元々敬太はこの家の料理以外の家事をすべて担っている。普段掃除しない天井やランプシェード、キッチンや風呂場の換気扇まで清掃してしまえば、いよいよやることがない。
いくら広い、広すぎるほどの家とはいえ、雑事はもう残っていなかった。
「……ひまだ」
独り言でもつぶやかなければやっていられないとばかりに、ソファに体を投げ出して天井を見上げた。
敬太はこれまで6回の引っ越し経験がある。
幼い頃、父の異動についていった。その後、父がいなくなって母に連れられ逃げるように地方を移った。それから、上京してきて幼馴染と住んだ一室。彼と決別して転がり込んだボロアパート。マツリと出会い、恋人になって、移り住んだマンション。そして今。
最初の一回目は覚えていないほど幼かったが、それを差し引いても人より多い転居数ではないだろうか。
そう考えれば己の人生は、波瀾万丈なものと言えるのかもしれない。
最後の引っ越しはごく最近だ。
なんとしてもあのボロアパートから敬太を引きずり出したかったらしいマツリは、まず一般的な不動産仲介で部屋を探しアパートを転出した。移った先は壁の厚い鉄筋コンクリートの中層マンションで、快適な住環境に敬太を慣れさせ、数カ月後に再び引っ越しを打診してきた。
荷ほどきがまだ完全ではなかった頃に「家賃がずっと安くなる」「職場にも近くなる」「引っ越し代金がほとんど掛からない」などと毎日のように囁かれ、折れた先にあったのは、マツリの親族が所有するというタワーマンションの高層階の部屋だった。
「詐欺の手法だったよな……」
一度要求を飲ませればあとはなし崩し。どこかで聞いたような手口だ。
その上「勉強でも資格取得でもやりたいことをやるべき」などと促され、流されるままバイトを減らした敬太は、家賃の支払いどころか光熱水費すら払わず、一般的な都内の居住費用に比べれば微々たる管理費と修繕積立金なるものだけを口座引落されながら日々過ごしている。
たしかに、一度は諦めた大学への進学や、正規雇用への道を目指してみてもいいと思った。
だからといって敬太の現状は、恵まれすぎ。これに尽きる。
敬太とマツリは対等だ。
少なくとも敬太はそう思っている。
たとえマツリのほうが圧倒的に稼ぎがあっても、身長体重学歴ルックス何もかもが負けていても、ベッドの中ですら組み敷かれるポジションだとしても、対等だと自負している。
マツリだって、敬太を見下したり軽んじたりすることはない。その気配すらない。
少しでもそういう気配が漂えば即座に鉄拳制裁を行うつもりではあるが、敬太がそうしたコンプレックスに敏感なことをよく理解しているのだろうと思う。
なのに焦燥感が消えない。
地に足がついていないような、それを強要されているような。
流され続けてまたどこか知らない場所に、自分の意志など関係なく、いつか意思などなくして、潮に流されるクラゲのように流されていくのではないかという、恐怖に似た焦り。
こんなことをつらつら考えるのは、何もしていないからだ。ヒマすぎるからだ。
わかっていても、今まで極めて激務だった敬太はヒマの潰し方など知らない。
働き詰めの生活を送ることで感情も過去も無理やり追い出していた敬太には、今がつらすぎる。
「────っ!」
頭を掻き毟りたくなったその時、ガラスのローテーブルを不快な音が震わせた。
すぐさま携帯を手に取る。
予想通りそこにはマツリからのメッセージが表示されていた。
内容は予想に反して、お使いや雑用の頼み事ではなかった。
「昼飯は、食べた、勉強は……これから、と」
敬太を心配し、何をしているか問う、優しくて何の意味もないメッセージ。
それに相好を崩し、ニヤつきながら返事を書く自分はきっと滑稽に見えることだろう。しかしそれを咎めるものはいない。
現状に焦りを感じるのは事実だ。しかし一方で、この恵まれた時間を無駄にすべきではないとも理解している。
埃一つない書棚からそこそこの厚さのテキストを抜き出す。
テーブルにテキストとノート、筆記用具を広げ、携帯を隅に置き、敬太はソファから降りて足元のカーペットに座り込んだ。数日前の続きから黙々と問題を解いていく。
今も昔も、考えすぎる時は目の前に課題を用意して真っ直ぐ取り組むに限る。
不器用な敬太にはそれしかできないのだった。
■ ■ ■
歩き方を気にしなくても音の響かない廊下を進み、金属の擦れる異音など一切しない玄関を引き開ける。
「ただいま……」
少し控えめな声量になるのは、あの古アパートで暮らした日々が染み付いているからではない。
「あ、やっぱり寝てる」
リビングのテーブルの前で、ソファの足元にもたれるように眠り込んでいる恋人の姿に、マツリは思わず微笑んだ。
起こさないようにそっとソファの上に横たわらせ、ブランケットを掛けてやる。
隣人がティッシュを抜く音すら聞こえるほど薄い壁の部屋で何年も生きていた彼は、ちょっとやそっとのことでは起きない。その割に、出勤のためのアラームは寝過ごすことがないのだから不思議だ。
共に暮らし始めてからというもの、敬太は目に見えて健康になっていった。
いつも疲れ切って、己の人生を投げ出すように生き急いでいた敬太は、ストレスの少ない住環境と栄養バランスに気を使った食事、金の心配のない生活を得てみるみる変わった。
痩けていた体にうっすら肉がつきはじめ、溜め息ばかりだった口から笑みが溢れることが増えた。
バイトを一つ減らしたため時間的余裕も生まれ、やることを探して家の中をうろちょろすることもあるほどだ。
指先まで疲労がこびりつき、重い影を背負っていた青年はもはや見る影もない。
「敬太さん、ベッドで寝よ?」
「んー……」
よく眠っているところを起こすのはしのびなかったが、ここで寝かせたくはない。
揺り起こすと、敬太はソファに身を起こし目元を擦った。
「あー寝てた……おかえり」
「ただいま。このまま起きる? ごはんにしようか」
「ん……」
まだ完全に覚醒していない敬太は頭をふらふらさせている。
張り詰めるほどに気を張って生きていた過去の彼からは想像できないほど、リラックスした姿にマツリの口元はゆるむ。
飲食店勤務のわりに料理がからきしな恋人の代わりに手早く夕食を整える。食卓がすっかり整うまで起きてこなかった敬太は、おいしそうな匂いに満ちたテーブルを見下ろしてバツの悪そうな顔をした。
「悪ぃ……」
「敬太さんが謝ることないよ。さ、食べよ」
取り止めなく今日あったことを報告し合いながら食卓を囲む。
敬太は外出しなかったらしく、天気と家事の話しかできないことを時折もどかしそうにしていた。
マツリは何度でも、敬太が家にいてくれれば安心して外へ出られる、帰ってこられると伝える。そうでなければ不安で仕事が手につかないと、半ば脅しのような言葉も添える。
卑怯な物言いの自覚はある。が、もしまた敬太がマツリを見限り、今度は追い出されるのではなく出ていかれてしまったら……きっと二度と見つけられない。
それだけは避けたくて、でも強引なことはしたくなくて、マツリは日々言葉を尽くして敬太を手元に縫い留めるしかない。本当は外になんか出ず仕事も放り出して、四六時中傍にいたいくらいなのだが。
「それはやめろ。働け」
「はい……」
冷たく突き放され、しょんぼりと項垂れる。
素性を隠していたせいで敬太を傷つけ、距離を置かれた過去の一件はマツリにとってもはやトラウマだ。
二度と同じことが起きないよう、敬太には隠しごとは一切せず、実家から卒業アルバムを取り寄せ、役所で戸籍謄本まで出して見せた。
卒アルは楽しそうにめくってくれた敬太も、戸籍謄本にはドン引きしていたが、後悔していない。マツリの誠意がわずかでも伝わったのならすべての手間に価値がある。
「敬太さん」
「ん」
そうした過去があるからこそ、今腕の中に求めたものがある。
呼べば応え、引き寄せれば素直に胸に寄りかかってくれる、年上の恋人が愛おしくて仕方がない。
髪にキスをして、こめかみを指でなぞりながら額に唇を落とすと、わずかに甘く潤んだ眼と視線が絡む。唇同士を触れ合わせれば、もっと欲しくなる。
「敬太さん……」
全身を無防備に預けてくれる敬太の体に手を這わせ、まだまだ薄い腹を撫でる。
すると、敬太が零すように笑った。色っぽい空気が漂いかけていた中でその声は、少し無邪気にすぎる。
「なに?」
「いや、あんた……ヤりたいときは前からそうやって腹撫でてくるよな、と思ったらおかしくて」
「えっ」
完全に無意識だった。そんな癖が自分にあったとは。
予想外の事実に呆然とするマツリに、のしかかるように姿勢を変え、敬太は艶然と微笑んだ。
「あんたの『お誘い』に俺がどう返してたか、覚えてるか?」
忘れたことなどない。
マツリへ「振り向いて」くれた敬太をぎゅっと抱きしめ、余裕なく口唇へと噛みついた。
あぁ、もうだめだ。
彼はマツリと自分を対等だと信じているようだが、実情は違う。
マツリはいつだって敬太の匙加減で心身を操られているし、翻弄されることが嬉しいのだ。いつだって不利なのはマツリのほう。
「敵わないな、敬太さんには」
唯一明確にマツリが敬太を乱し、翻弄することができる場────寝室のベッドへと二人が向かったのは、それからすぐのことだった。
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