16世紀のオデュッセイア

尾方佐羽

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第3章 フィガロは広場に行く1 ニコラス・コレーリャ

ラヴェンナの戦い 1512年 カンブレー同盟戦争

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<教皇ユリウス2世、フランス王ルイ12世、神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世、フェラーラ公アルフォンソ・デステ、フェラーラ公妃ルクレツィア・ボルジア、エルコレ、ソッラ、ニコラス、フランス軍総司令官ガストン・ド・フォア公爵>

 ローマの教皇を中心とした勢力とフランス・フェラーラ・神聖ローマ帝国からなる勢力ができあがりつつある中、公会議はその重要な道具として使われようとしている。
 先んじて、フランスと神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世らが枢機卿(すうききょう、すうきけい)を数名付けてイタリア半島のピサで公会議を開くことを宣言した。それに対して、教皇がローマのサン・ジョヴァンニ・イン・ラテラーノ大聖堂での公会議開催を宣言する。

 そもそも、公会議というのはローマ・カトリック教会の最高議決機関であり、その時期・時代における最重要課題について討議する場である。カトリックの聖職者が出席を義務付けられ、ギリシア正教の聖職者も出席した。その大半が1週間や2週間などの会期で済まない。20年ほどかかる例もあるのである。よって滅多には開催されない。21世紀までに開催されたのは21回しかないのである。
 それを一国の王が召集できるというのは奇妙にも思える。このことには教会の大分裂(シスマ)や聖職叙任権闘争など、ときの教皇と為政者の利害が対立してきたことが大きく影響している。中世までは神聖ローマ皇帝が公会議を召集し、議長まで務めることもあった。教皇はそのようなときは出席せず代理を立てているが、教皇と皇帝、聖職者と世俗の権力者のどちらかの力が強いかを示す場でもあった。そして、どちらかが強いのかなどと考える前に、どちらも兼ねてしまえばよいと考える者もいる。

 実際、神聖ローマ皇帝はピサ公会議で自身が教皇となる野望さえ持っていたのだ。

 この時は豪商フッガー家から費用を融通してもらえずに断念している。教皇になるには途方もない額の資金が必要になるからだ。それは枢機卿への付け届けに使われるのだが。
 平時の皇帝は教皇庁とほどほどの距離を保っているが、神聖ローマ皇帝という特殊な称号(西欧世界第一の王)を与えられた者の多くはローマの支配者になるという潜在的な野心を持つ。

 キリスト教を公認したのは、ローマ皇帝だった(313年コンスタンティヌス帝のミラノ勅令による)。

 今回のピサ公会議の召集についても、前例があるので手順さえ踏んでいれば常識外れではないのである。

 しかし、ユリウス2世にそんな建前(たてまえ)が考慮できるはずはなかった。彼はとにかく、フランスの影響力をイタリア半島から排除したい。そして教皇の力を確立しておきたい。カンブレー同盟の先陣を切って馬に乗って出かけるのもそのような意思にもとづくものだった。

 ユリウス2世はもう若くはない。公会議の召集をかけた頃、すでに68歳になっている。ボローニャに滞在(従軍)しているときも、ローマに帰ってからも熱に倒れた。運よく3日ごとの熱(マラリア)のような伝染病ではなかったようだが、体力は著しく衰えていたと考えられる。それでも、彼が倒れたことで、ピサ公会議(フランスと神聖ローマ帝国による)は開催時期が延期された。ユリウス2世にとってそれは幸運なことだった。自身の公会議開催に手を打つことができるからである。

 体調を回復した教皇は1511年の秋以降、ピサ公会議派潰しに全力で取り組む。そしてローマのラテラーノ公会議を正式なものであると主張していくのだ。

 まずは潰す方である。1511年10月、ピサ公会議派の5人の枢機卿が破門に処せられた。教皇の意思はピサにはよくよく伝わったので、公会議開催地だからという理由だけで、とばっちりが来ないかとびくびくするばかりである。11月開催の公会議に向けて、代表者はピサに入りはじめている。もっとも、それはフランス人の枢機卿らがほとんどだった。ユリウス2世の回復とピサ公会議に対する妨害の気配を察して、神聖ローマ帝国からは代表が来ていない。この辺りの政治的判断は絶妙としか言いようがない。

 そのような情勢下、フランスの代表はすべて兵士による護衛付きでのピサ入りである。しかし、ピサの市民もこの代表団には非常に冷淡な態度を取らざるを得ない。宿泊や店の利用を遠慮してもらう、などの消極的な方法ではあるのだが、そのような空気を作るだけでも十分な打撃を与えることができるのである。教皇寄り中立の立場を取る近隣のフィレンツェ共和国がさすがにまずいと、宿や食事を確保していたほどである。たびたび本編に登場しているフィレンツェ特使のマキアヴェッリも、フランス王ルイ12世に開催地の変更を申し入れた。「現状では開催は困難である」ということである。それは現実的な見解であった。

 結局ピサ公会議は場所をミラノにリヨンにと変更を続けた末に、雲散霧消(うんさんむしょう)するのである。ユリウス2世の目論見(もくろみ)どおりになったのだ。

 さて、一方のラテラーノ公会議の準備は順調にすすめられた。
 サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラーノ大聖堂、ローマの4大あるいは5大聖堂の一とされる古刹(こさつ)である。教会大分裂(シスマ)の後は、中心がサン・ピエトロ大聖堂に置かれたために古色蒼然(こしょくそうぜん)となっていたが、由緒正しいことにかけてはどの大聖堂にも劣らない。ここで、1512年から5年にわたり公会議が開かれることになる。

 ただし、その大半はカンブレー同盟戦争と同じ時期にあたっている。政治情勢によって、戦争の状態によって大きく左右される公会議ということになる。



 その頃、フェラーラではルクレツィアがエステンセ城内で司祭と打ち合わせをしていた。

 フェラーラにある教会の修繕や新たな修道院の設立の可能性などについて、話をするのである。
 フェラーラがローマの教皇と対立関係にあるこの時、ルクレツィアは公国領内にデステ家が敬虔(けいけん)なキリスト教徒であることを示す必要があると思っていた。自身の体調がすぐれないことも大きな理由だったが、彼女は生まれたときから聖職者の娘であった。聖職者には子がいないことが前提だったので、公式には子ではないのだが、実際は動かしようがない、教皇アレクサンデル6世の娘であった。
 そして、アレクサンデル6世の血を受けたものは、みなその威勢の反動を受けるかのようにひっそりと影をひそめてしまっていた。きょうだいのチェーザレ、ホアン、ホフレ……ホフレだけはナポリで健在だが、もう表舞台に出てくることはない。アレクサンデル6世の子の中でただひとり、ルクレツィアが最も恵まれた環境に置かれることになった。

 それだけに、アレクサンデル6世を嫌っていた現在の教皇にとってはフェラーラが目の上のたんこぶなのである。ルクレツィアがアルフォンソにしっかりと守られており、政治には一切関与せず、ミューズのような存在であり続けていたので、潰すこともできない。フェラーラがユリウス2世と対立するのも、そのような事情が少なからずあった。

 妻が教会や修道院のために力を尽くそうとしている。夫のアルフォンソはもちろん彼女に賛同していた。
 ふわふわしてつかみどころがなく、他の男の愛情を遠慮なく受ける彼女に対して内心は嫉妬の感情を抱えることもあったが、エルコレを産んで以降、彼女は変わったように思える。フェラーラの救済のためにではなく、信仰心に基づいて行動している。

 それは、ボルジア家に対する悪評を和らげるのに十分な役割を果たしていたし、現教皇が世俗的な権力争いに奔走しているのと好対照であった。

 宗教と信仰は別のところにある。そして人々が常に心の底で重んじるのは信仰なのである。

 ソッラは子どもたちを連れてよく教会に行く。イタズラをして人に迷惑をかけたあとも、読み書きがよくできて褒めてあげるときも、常にそれを神に報告するかのように、教会に行った。ルクレツィアもそれについていくことがある。
 いつだったか、ソッラはチェゼーナでミケーレを癒した夜のことについて、ルクレツィアに打ち明けたことがあった。以降は二人で必ず教会に行き、広場に行くことにしたのだと。
 教会と広場は太陽と空のようなものでいつもともにある。

 チェゼーナの話を聞いたルクレツィアは本当につらそうな顔をした。

「兄は、チェーザレは、ミケロット(ミケーレ)の苦しみが分かっていたのかしら……分かっていたと思うのだけれど……兄は自分の夢にミケロットも殉じてくれると信じていたのね。兄も、私が妹だから言うわけではないけれど、やっぱりそのような苦しみがあったと思っているの。私ね、兄のことが何となく分かるの。表情ひとつ変えないときでも、怒ったり、悲しんだり、叫んだりしているのよ。ミケロットもそれは分かっていたのだと思う。ただ、つらいわね。私は人に手をかけたりせずに済んできた。ミケロットは違う。誰もしたがらない役目をしていたわ。きっと、自分の手を呪わしいものと思っていたでしょう」

 ソッラはうなずく。そしてエルコレとニコラスは教会の中庭でじゃれあっているのを眺めながら言う。

「そうですね……あんなに美しい手をしていたのに……自分の手は好きではないと言っていました。でも、フォルリで私の絵を描いてくれたんです」

 ルクレツィアは目を丸くした。
「絵? 絵ですって? ミケロットが? まさか!」
 ソッラは笑う。
「はい、私が描いてくれと言ったら、しぶしぶ描いてくれました」

「ああ、ソッラ、それはまず私に見せてくれなければダメよ! ミケロットの絵なんて、レオナルド・ダ・ヴィンチの絵より貴重なものよ。あぁ、譲ってなんて言わないわ、もちろん。でも絶対に見せてね」

 はしゃいでいるルクレツィアを見ながら、ソッラはレオナルド・ダ・ヴィンチのことを思い出した。ミケーレの手をどんな彫刻よりも美しいと言ってくれた人、その人は誰よりも美というものをよく知っている天才芸術家だった。

 最近、ミラノのシャルル・ダンボワーズ伯が亡くなったとソッラは聞いた。ミケーレが刺されて死んでしまった後、茫然自失の状態だったソッラを保護してフェラーラまで送り届けてくれた人だった。ミケーレが死んだのはダンボワーズ伯のせいではないのに、しばらくはミラノがミケーレを殺したかのように思えた。それでも、「本当によくしてくださったのに」、とソッラは思う。ほんの少し前のことなのに、ずいぶん時間が経ってしまったような気分になる。
 私の中のミケーレも、いつかそんな風に薄れていってしまうのかしら、とソッラは少し悲しくなる。あんなに見つめ合って、肌のぬくもりを感じて、たくさんたくさんキスをして、身も心もひとつに溶けてしまうほど愛し合っていたのに……だんだん薄れていってしまうのかしら。

 物思いにふけるソッラを見て、ルクレツィアは空を見上げてつぶやく。

「ソッラ、あなたと話していると、私がローマの教皇邸宅で固まって過ごしていた、長い長い時間がやわらかくほぐされるように思えるわ。時間は経っていく。思い出は遠くなっていく。でもね、あのときミケロットはこう思っていたのかしらって気付くことがあるの。そうすると、古びた私の記憶に鮮やかな色がつくのよ。ミケロットは仲間うちでは笑ったりしていたなって。だから、あなたにミケロットと過ごした大切な時間があることは、古びて色あせたりしないと思うの。それに……」

 ソッラはルクレツィアの言葉の続きを待つ。ルクレツィアはこどもたちを見る。

「ミケロットは生きているわ。あの子は日に日にミケロットにそっくりになる。ミケロットはニコラスの中に生きているわ」

 エルコレとニコラスが母親たちのところに駆けてくる。そして、エルコレがソッラに言う。

「ソッラ、ニコラスがまた描きたいって言うんだ」

 ソッラはうん、うんとうなずいてニコラスに紙とチョークを渡す。ニコラスはにっこりと笑ってそれを受け取ると、おもむろに石畳の上に座り込んで教会のアウトラインをなぞりはじめた。この頃になると、ニコラスは目に留まったものを何でも、生物でも建物でも描きたいというようになっている。

「これはニコラスだけに与えられた贈り物ね。私もじきに肖像画を描いてもらうわ」とルクレツィアが笑う。


 一方、ピサ公会議の消滅で面子(めんつ)が丸潰れになったフランス王ルイ12世が黙っているはずはない。さっそく戦闘再開の準備をはじめている。
 総司令官のシャルル・ダンボワーズ伯が亡くなったことによって軍の再編をすすめる必要もあった。すでに名うての軍人(コンドッティアーレ)トリヴルツィオ将軍が任命されていたが、老齢の彼に替えて新たに若きガストン・ド・フォア公爵を司令官として付けることとした。


 ピサ公会議がなしくずし的に消滅の道をたどることが明らかになった後、本格的な戦闘がはじまった。


 はじめに軍を進めたのはヴェネツィアだった。すでにフランスが駐屯していたプレッシアに対して1512年1月、攻撃がはじまった。1月25日にはプレッシアが陥落する。この時点でガストン・ド・フォアのフランス軍はフェラーラ近郊まで到着していたが、その先、プレッシアに至る平坦な進路には兵が多く防備のために待機していると考えられた。
 季節が真冬なので、平坦な道を来るほかないとヴェネツィア側は当然思っていたからである。

 しかし、それぐらいのことは承知しているド・フォアは山中を迅速に移動する進路を取った。まずは雪の中を9レグア(45km)移動してボローニャに入る。そしてこの時代からすれば韋駄天のように、川をいくつも越え、足元のぬかるむ道をひた走り、36レグア(180km)を移動する。そして敵のヴェネツィア(カンブレー同盟軍)が予想していたよりずっと早く、3日間でプレッシアに到着する。

 2月17日、プレッシアに到着したフランス軍はヴェネツィアの守備勢が大砲を仕掛けるよりも早く城砦内に入り込むことに成功した。そして大量の歩兵による戦闘に入った。激烈な市街戦がまるまる2日間続いた。
 2月19日、プレッシアは再びフランス軍が奪取した。

 しかしこの真冬の激闘における、軍人・市民も何も見境のない殺戮・強姦・収奪は酸鼻(さんび)を極めた。収奪が済んだ家は暖を取るために火が放たれ、強姦が済んだ身体は四つ裂きにされ、幼児の遺骸は城門に大釘で打ち付けられた。

 決戦のときが近づいている。

 ガストン・ド・フォアは3月、その場をラヴェンナに定める。ここはローマに抜ける街道の重要な中継点であり、ヴェネツィア軍が補給基地にしている場でもあった。ここを叩けばカンブレー同盟を総動員せざるを得ないだろう。そのような狙いがあったのだ。

 1512年の春だった。

 ミラノを出発したフランス軍は4月3日にラヴェンナまで6レグア(30km)の位置にあるコチニョーラに到着した。そして、アルフォンソ・デステ率いるフェラーラ軍もフランスに加勢し大量の大砲とともにラヴェンナを目指す。フランス軍の総勢は援軍も含め、重装騎兵1900、軽騎兵3000、ランツクネヒト(ドイツ傭兵)を含む歩兵1万8000のおよそ2万3000人。アルフォンソ・デステが持参した約50門の最新式大砲がそれを支援する。

 対するカンブレー同盟軍は、重装騎兵1700、軽騎兵1500、歩兵(スイス傭兵を含む)1万3000の計1万6000人。大砲は25門。

 これらの軍勢がラヴェンナのロンコ川沿いに布陣して、と言いたいところだが、布陣したのはフランス軍だけでカンブレー同盟軍は少し後方に待機している。その合間にフランス軍は悠々と体勢を整える余裕を持つことができた。

 フランス軍の前進によって戦いははじまった。彼らは軍隊として統制が取れている。
 それまでの中世の戦争とは趣を変えていた。
 のべつまくなしに進むのではなく、それぞれの役割、戦術が全体に浸透していたのである。フランス軍はまず、扇形の隊形をとって進み、ある程度まで接近したところで砲手が仕掛ける。大砲が発射され、敵方からも応酬がある。その隙にアルフォンソの砲兵が大砲を素早く適した位置まで移動させる。大砲を何十門も素早く動かすのは至難の業だったので、何かしら運搬の工夫をしていたのかもしれない。いずれにしても、新たな位置から放たれた砲弾は狙い定めたように敵の重装騎兵の群れに命中する。アルフォンソのフェラーラ軍以外の位置にある大砲も続けざまに砲弾を放ち、敵の最前線で続々と重装騎兵が倒れる。これが接近戦のきっかけだった。同盟軍の重装騎兵が続々とフランス軍に向かってくる。甲冑の騎士たちが金属音を激しくぶつけ合う、まさに激突である。

 その間にフェラーラ軍の大砲は重装騎兵の背後にいる軽騎兵に狙いを定めた。こんどは軽騎兵も突撃をはじめる。重装騎兵の戦いの塊を広げるように軽騎兵もそこに加わっていく。その機をみて、フランスの歩兵が細かく隊形を分け、前に進む。そこに同盟軍の鉄砲隊が攻撃を仕掛ける、歩兵隊は不利な戦況に陥り少し後退をはじめる。

 その中でフランス軍の大物に犠牲者が出た。
 イブ・ダレグレである。もうお忘れの読者も多いかと思うが、かつて、チェーザレ・ボルジアとともにフォルリ攻略戦を戦った勇将だ。ダレグレは自身の息子が馬から引きずり下ろされ、槍で串刺しにされるさまを目の当たりにして、理性を失い敵陣に突撃した。そして、彼も倒れた。

 戦いは重装騎兵、軽騎兵、歩兵の3手に分かれ、まだ続いている。軽騎兵の戦いはフランス軍優勢、歩兵については同盟軍優勢、そして重装騎兵についてはどちらがどちらかもう判別できないほど激しい戦いが続いていた。兜は飛ばされたり、戦いずらいと打ち捨てられ、槍ではなく剣を手にしての白兵戦(はくびょうせん)である。やらなければやられる、もうそれしかない。

 この段に及んでフランス軍にはまだ、予備の重装騎兵がいた。彼らにガストン・ド・フォアは進発を命じる。これが決定打となる。同盟軍の重装騎兵隊は全滅状態となった。ここで情勢の不利をみた同盟軍の総司令官カルドーナ(スペインのナポリ総督、コルドーバ将軍の後継者)は全軍に退却命令を出した。しかし、伝令を出そうにも死闘が繰り広げられている一帯で誰が敵で誰が味方なのか判別もつかない状況になっていた。

 勝利が見えてきたフランスのガストン・ド・フォア総司令官はここで気が昂進したのかさらに最後の激戦が繰り広げられている一角に突っ込んだ。しかし、それが致命的な誤りだった。

 彼はあっという間に、死に物狂いで戦うスペイン兵に囲まれてその人生を終えることになった。


 朝の8時から夕方の4時まで繰り広げられたこの戦いの後、ロンコ川のほとりには1万4000の死体が累々と重なった。犠牲者の3分の2は砲撃や接近戦で倒れた同盟軍、3分の1は接近戦で倒れた者が大半のフランス軍だった。

 フランス軍勝利!

 その報を聞いたすぐ側のラヴェンナ、続いてリミニ、フォルリ、チェゼーナ、イーモラ、ファエンツァがフランス軍に開城の意思を伝えてきた。勇敢な総司令官を失ったフランス軍の雰囲気は沈鬱なものだったが、一団は堂々とラヴェンナに入城したのだった。

 こうして、かつてチェーザレ・ボルジアが教皇軍総司令官として手に入れたロマーニャ地方はフランス軍の手におちることになったのである。

 そして、ラテラーノ公会議が目前に迫っていた。
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