16世紀のオデュッセイア

尾方佐羽

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第3章 フィガロは広場に行く1 ニコラス・コレーリャ

饗宴(きょうえん) 1512年 ローマ

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〈ローマ教皇ユリウス2世、フランス王ルイ12世、ミケランジェロ・ブォナローティ、ラファエロ・サンティ、銀行家アゴスティーノ・キージ〉

 1512年5月、ローマで開かれるラテラーノ公会議が目前に迫っていた。

 情勢は流動的である。さきのラヴェンナの戦いでフランスが勝利した直後である。宗教という意味では一歩先んじた形のローマ教皇ユリウス2世だが、この戦いの余波でフランスがどのような手を打ってくるかは読めない。
 それでも、フランス軍は総司令官のガストン・ド・フォアが戦死していることもある。ラヴェンナの勢いそのままでローマまですぐに進攻することはないと思われた。

 さらに、フランス王は歴史を通じて敬虔なカトリックの信徒であったので、正式に布告されている公会議の場を戦場にすることは決してない。それが大方の見方だったし、実際にそうだった。
 ローマに進むことを主張する者と王ルイ12世の指示を仰いでからでないと、と主張する新司令官、ラ・バリーがお互い譲らない。ルイ12世からの命令は出ない。この体たらくに、フェラーラのアルフォンソ・デステは呆れてさっさと自軍に大砲を持たせて引き上げていってしまった。
 結局、ルイ12世は全軍をミラノに呼び戻した。前世紀末にも同じようなことがあったが、また前例を踏襲しただけだった。シャルル王のほうがいくぶんましだったかもしれない。

 もちろん、ユリウス2世にとっては非常に好都合だったことは間違いない。

 ローマには各国の聖職者が続々と集まりはじめていた。

 その会場であるサン・ジョヴァンニ・イン・ラテラーノ大聖堂からほんの少しだけ離れてみよう。
 

 教皇庁に荘厳な姿を誇るサン・ピエトロ大聖堂。その北にシスティーナ礼拝堂がある。この教皇庁専用の礼拝堂は外見こそ煉瓦を単純に積んだだけ、3階建ての地味な建物であるが、中身は絢爛豪華に彩られている。

 いや、彩りをつけられている真っ最中だ。

 システィーナ礼拝堂を彩る絵画、とりわけ天井画は今日に至るまでたいへん有名であることは説明する必要もない。ミケランジェロ・ブォナローティが精魂と首と頭を傾けて描いたものである。

 その絵がこの世の中にその姿をあらわしはじめていた。

 当のミケランジェロ・ブォナローティが所用で留守にしている間に、枢機卿に連れられた客人がふたり、この礼拝堂に来た。
 一人はアゴスティーノ・キージ、シエナの大銀行家である。もちろんローマにもそれなりの貢献をして、教皇庁から見て対岸にあたる、ティベレ川沿いの一等地に豪華な邸宅も構えている。そして、もうひとりはーーラファエロ・サンティである。彼らは外観の地味さにそぐわない、高い吹き抜けの明るい空間に入って思わず感嘆の声を上げている。

 たまにしかこの話に出てこないので、もうお忘れの方がいるかもしれない。
 ラファエロ・サンティ。ウルビーノ公国の宮廷画家の息子でフィレンツェ、ローマと活動の場を変えてきた。絵の才がずば抜けて優れているだけではなく、社交術にも長けていた。まだ20代ながら活動の場を移すたびに、工房はどんどん大きくなっていた。すでに、教皇庁内部の装飾として請け負っていた「アテナイの学堂」をはじめとする作品群は完成していた。
 ミケランジェロは孤軍奮闘して天井に向かっていたが、ラファエロは工房の人間を活用していたので、仕事が早かったのである。

 そして、ラファエロはこれから教皇庁のさらなる装飾に加えて、アゴスティーノ・キージ邸の装飾に取りかかる予定になっている。キージはラファエロにとって、最も大きな経済的後ろ楯であった。そのつてで今回、システィーナ礼拝堂に入ることができたのである。

「うわぁっ! これはすごい! 今にも人が飛び出してきそうだ。ミケランジェロさんって天才だな、やっぱり」

 興奮したラファエロは何のてらいもなく、床の上にべたっと寝転んだ。それを見たキージは笑っている。
「ああ、ラファエロ・サンティ、きみの気持ちはよく分かる。この飲み込まれるような勢い、素晴らしいこの天井画を十分に堪能するためには、きみのように見るのがいちばん適切であることは。しかし、ここは聖なる場で……」

 キージの忠告が耳に入っていたのかいないのか。ラファエロはおもむろに起き上がって、紙と細いチョークを何本も詰め込んだ袋をひっくり返した。準備完了だ。画家はその天井画を熱心に描きとりはじめた。

「それはミケランジェロ氏に怒られないか? ひょいと戻ってきたらどうする」とキージが心配そうにつぶやく。枢機卿も両腕を挙げて、肩をすくめている。ラファエロはにこっと笑って言う。

「ああ、それもいいですね。ぼくはずっと、ミケランジェロさんに憧れていたんですから」

 礼拝堂の床に座り込んで、足場越しの絵を模写するラファエロは、まるで無邪気な少年のようである。不思議な男だ、とキージは思う。この人好きのする性格はミケランジェロと対照的だ。

「おい、ここで何をしている?」

 その声にまず枢機卿がびくっとして振り向いた。そこには憮然とした表情のミケランジェロ・ブォナローティが立っている。キージは困惑している。少しばかりの沈黙があって、ラファエロがにこやかに天井画の作者に礼をした。

「ミケランジェロ様、私が是非にとキージ様にお願いして連れてきてもらったのです。不世出の芸術家による、まさに文字通り渾身の作品を見たいという欲求をどうして抑えられましょうか。何と素晴らしい、壮大で荘厳で、力強い天井画なのでしょう! 感動しました!」

 称賛の言葉を興奮した様子で語るラファエロの顔に邪気はない。しかし、ミケランジェロはなおも憮然とした表情を崩さない。キージも枢機卿もごくりと唾を飲んで見守るだけである。

「俺はおべっかを使う奴が嫌いだ。それに、あれはまだ完成していない。だから部外者は立ち入り禁止だと教皇庁にも伝えている。あれを見て何か盗もうと思ったのか。できるものならやってみるがよい」

 ミケランジェロはラファエロに何度か会う機会があったが、決して好感は持っていない。それは性格の違い、と一言で表現できるほど単純ではなかった。

 そもそも、ミケランジェロは彫刻が専門で絵画の依頼を進んで引き受けてはこなかった。もちろん、それは絵が描けないということではない。卓越した眼力と技量で彫刻を制作するためにたくさんのデッサンを描いてきたのだ。どれも見事な出来である。しかし、それは人体の理想的な姿をいかに立体的に造り上げるかーーという目的のためだけに使うものだった。作品ではないのである。

 この彫刻家は、今回の天井画の制作についてユリウス2世とたびたび衝突し、依頼を断るつもりだったのだ。それでも、ユリウス2世の、平たく言えばごり押しに根負けしてこの仕事に着手することになった。頑固だという点において、ふたりは似ているといえる。
 ミケランジェロには、「自分は他の追随を許さない存在だ」という強烈な自負がもちろんあっただろう。それゆえに、渋々引き受けたと言っても、仕事で手を抜くことはない。文字通り全身全霊を傾けて天井に向かったのである。

 「天地創造」をモチーフにした天井画完成までに費やした年月は何と4年半にもおよぶ。

 まだ後の話になるが、ミケランジェロはこの20年後に天井画に連続する祭壇画制作に着手することになる。

 「最後の審判」である。

 さて、孤高の立場を貫くミケランジェロにとって、幼い頃から社交界の雰囲気に馴染んで成長してきたラファエロは軽重浮薄(けいちょうふはく)にしか見えなかったようだ。そして周囲の人間も二人の対立を煽るように、「ローマ第一の芸術家は誰か」という、あまり後世から見ても有意義とは思えない、些末な話をはじめるのである。そのような状況におけるひとつの救いは、利害が対立する場合は別にして、ラファエロがこの競合を喜んでいたことである。

 だから巨匠の傑作を見たいと礼拝堂に潜り込んでみたりするのだ。

 ラファエロは子供が大人にまっすぐな疑問をぶつけるように、ミケランジェロに問う。

「僕は、素敵な絵を見ると、うずうずしてしまうんです。それを描きとめることが、盗むということならば、なるほど、僕は盗んでいるのだといえるでしょう。でも、ミケランジェロ様、それがこのローマの芸術の質を高め合うものになるとは思えませんか?」

 ミケランジェロは黙りこむ。ラファエロはにっこり微笑んで続ける。

「何より……僕はあなたを尊敬しています。あなたの彫刻を、この素晴らしい天地創造を、愛して止みません」

 ミケランジェロはため息をついた。
 そして、「競争することも、時には必要なのだろう。私は負けたりはしないが……さて、休憩だ」とだけ口にして、礼拝堂から出ていった。
 一同はホッとした。キージがラファエロに向かって、「いさかいにならずによかったな」とつぶやいてラファエロの方を見ると、彼はまた天井を見ながら紙に向かっている。キージはその様子を見て微笑む。

「ラファエロ、堂々とした態度だった。立派なものだ。もうきみは恋の病から立ち直ったのだね」

 彼の大失恋は、ウルビーノ公やキージはじめ周囲の人間によく知られている話だった。フェレンツェからローマに移るときも、シエナのパン屋の娘を連れていきたいとその土地の富豪であるキージに頼んだほどだったのだから。ただ、この手の話は当事者の合意に基づかなければいけない。特に、シエナのパン屋の娘はもう人妻なのだ。いくら当代きっての芸術家の願いだと言っても、そうそう通るものではない。

 それに、ローマでもこの画家は数々の女性の心とそれ以外のものを奪っている。いや、奪うまでもなく与えられていたのだが。

 ラファエロは苦笑する。

「そうですね、ウルビーノ公にもしばらく前に慰められました。聖母の顔がみんな彼女になっていやしないかと……」

 キージも苦笑する。ラファエロはつぶやくように言う。

「ええ、彼女は今でも僕の理想のモッデーラ(モデル)です。ただ、ご存じでしょう。その肌に触れることはもちろん、見ることすら、モッデーラとしてでも……もう僕の手には届かないようです。最近、その現実にようやく慣れてきましたよ」

 キージはうなずく。

 そして、「そうだな。ダンテもベアトリーチェを手に入れることはできなかった。だからこそ、永遠の存在に造り上げることができたのだと思うよ。それならば、きみも現実的に腰を落ち着けることを考えてみたらどうだろうか?」と告げる。

 ラファエロは微笑んで何も言わず、また紙に向かう。



 ローマにまだ軍靴の音は聴こえてこない。世紀を超えて残るであろう、芸術家の饗宴(きょうえん)がひそやかに続けられている。

 1512年5月3日、予定通りにラテラーノ公会議が開会した。
 全員が正装の列席者は教皇をはじめ、16人の枢機卿、12人の大司教、70人の司教、ドメニコ、フランチェスコ、アゴスティーノと主要修道会・会派の総長3人、ローマ駐在の各国大使、市民代表であるローマ市議会議員、貴族代表、護衛のロードス騎士団らで構成されている。戦争の影響など微塵も感じさせない、既定の盛大な公会議である。

 ここでユリウス2世は自信に満ちた態度で、ラテラーノ公会議の正統性と教会改革の必要性を説く。

 フランスがみずから退いてしまったことで、ラテラーノ公会議は教皇庁の権威を厳かに、高らかに誇ることになるのだ。

 この盛大かつ厳粛な公会議の様子を確かめさせ、「教皇に逆らうのは得策ではない」と判断した国があった。そして、自国の方向を変えることを決定した。
 それが戦争をまたあらぬ方向に進めることになる。

 方向を変えたのは、神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世だった。
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