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第6章 海の巡礼路(東洋編) フランシスコ・ザビエル
足りないもの、足りているもの 1542年 ゴア(インド)
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〈フランシスコ・ザビエル、アルフォンソ・デル・ソーザ総督、セサル・アスピルクエタ〉
1542年5月6日、私たちはゴアに到着した。
順風満帆と言えればよかったのだが、一つ、たいへん残念なことが起こったことを報告しなければならない。私たちやソーザ総督がモザンビークまで乗船してきた旗艦のサンティアゴ号がインド沿岸の浅瀬で座礁したのだ。船は結局沈没して大量の積荷は海の藻屑となった。不幸中の幸いと言おうか、場所が浅瀬だったため乗員は皆自力で脱出して無事だった。リスボンでポルトガル国王のジョアン3世から下賜(かし)されたたくさんの書物は早々に積み替えていたため、難を逃れた。これらが海に沈んでしまったら、私も意気消沈していただろう。
何より犠牲者が出なかったことに、私は感謝の祈りを捧げていた。
ここは自然が形成した良港だった。ほどよい具合でふたつの大きな入江に囲まれて、中洲の島のようになっているこの地は、波の影響もほどよく緩和されているのではないかと思う。物資の行き来にもたいへん都合がよい土地だ。
私たちは城壁を越えてゴアの町に入った。
そこはポルトガルの町といってさしつかえなかった。行き交う人々も、聞こえてくる言葉もポルトガル人が大半だ。ここがポルトガルの海辺の町ではないのかと一瞬錯覚するほどだ。
いや、あれほど背の高い南国の木はポルトガルにはないだろう。
それに、湿気の多いあの暑さは、それまで私がいたどの土地にもないものだった。日光にさらされているとダラダラと汗が流れて、ふらふらしてくる。この時が私と「たいへん熱く湿った地域(アジアの熱帯)」のはじめての出会いだった。
ヴァスコ・ダ・ガマのゴア初到着(1498年)から数えて45年が経っている。その時に上陸したのはたった13人だった。
そこから下って1510年、アフォンソ・アルブケルケ率いる1000人のポルトガル艦隊がこの地に拠点を築こうと襲来する。この地を治めていたビジャープル国と戦闘になる。激しい抵抗を受けてポルトガル隊は大きな打撃を受けた。しかし、アルブケルケはあきらめなかった。一端撤退したあとに再度、前回の倍の人数(2000人)でゴアの攻略に取りかかったのだ。
このとき、インドの大半を手中にしていた北のヴィジャヤナガル国はビジャープル国を支援せず、黙認する形をとった。ポルトガルと秘密裏に交渉していたと考えられる。
そして、ゴアはポルトガルの領地となったのだ。
アルブケルケが最初にゴアに到着したとき、そこにあったのはビジャープル国の砦だけだった。それから30年ほどで、このような立派な町ができるのかと私は感嘆した。建物はどれも立派な石造りだった。設計する者や大工や石工がいなければとてもできるものではない。それだけではない。総督の邸宅をはじめ住む人の住宅も、病院も、聖堂も、ものを売る店も、鍛冶屋もある。リスボンを模して町を造っていったと言われるが、確かに要塞を王宮に見立てれば、リスボンの風景に通ずるものがあった。
ただよく見れば、ポルトガル人が大半だと思っていた人々の中には、ちらほらと現地の人らしい姿も見える。それだけではない、言葉を聞いていると外国の人も数多くいるようだ。
ここが貿易の拠点であるとともに、ポルトガルのアジア領域における「首都」でもあることをうかがわせた。
船はアフリカ大陸を折れて南から来るだけではない。北からも西からも東からも来るのだ。
それが海路の自由さでもあるだろう。
ただ、季節によって変わる風に航行が左右される点で、たいへん不自由になることは言うまでもない。
◆◆
私たちはさっそく、ゴアの王立病院で看護や告解を聞く任務につく。ヴェネツィアでも、ローマでも、あるいはゴアに至る航路でもしてきたことなので、自然なことだった。従者のセサルも看護の手伝いにつく。
これ以降、航海中よりもはるかに多くの人と接する機会を持つことになる。
だいたい1日はこのように過ぎていく。
午前中は病院の患者のために告解や聖体拝領をおこなう。今度は一般の信徒が告解に訪れる。告解に訪れる人は引きもきらなかったので、この時間は息つく間もなかった。
午後になると、今度は未決囚の人々の告解を聞くために留置場に赴く。それが終わると、王立病院の近くにある『聖母の小聖堂』に行き、こどもたちに祈りの言葉を教えたりする。
ポルトガル人と現地の人の間にこどもが次々と生まれていたので、こどもの数はたいへん多かった。それはマラッカでも同じだった。アントニオ、あなたもよく知っているだろう。
そのように、私が10人いても足りないほどの日々がはじまった。私と一緒にリスボンを出たミセル・パウロたちはモザンビークに留まって次の船を待っている。まだまだゴアには到着しない。
私の様子を見たソーザ総督からの助言も受けて、ほどなく、病院の運営はミゼリコルディア(ポルトガル語ではMisericórdia)が中心となって担うこととなった。ゴアではこの組織が早くから作られていたのだ。
アントニオ、あなたにミゼリコルディアの話をきちんとしたことがあっただろうか。そんな暇はなかったかもしれない。
13世紀にイタリア半島のフィレンツェで信徒の互助組織ができた。この組織は『兄弟会』と呼ばれ、慈善活動に取り組む。具体的には救貧院、孤児院、療養施設などの運営主体となっていったのだ。それがイタリア半島の各地に広がる。兄弟会が広く普及したのは、度重なる十字軍の遠征で地域の諸侯が財政難に陥ったり、各国の勢力争いによって戦乱が続いたことと無縁ではないだろう。
この兄弟会が慈悲会、すなわち『ミゼリコルディア』として定着し、今日まで続いているのだ。15世紀にはポルトガルで王立のミゼリコルディアも創設された。したがって、ゴアのそれも王が承認のもと作られていた。とは言っても、実際に活動する信徒たちの献身があってこそ運営できるものだ。一緒に活動を始めてみて、ゴアのミゼリコルディアにおける信徒の結束は他より堅固だと私は思った。たいへん助かったことは言うまでもない。
それは、母国から遠く離れた人々にとって、心の支えになるからだと思う。奉仕される側にとっても、する側にとっても。
手を付けなければならないことはたくさんあった。どれから話したらよいのかわからないほどだ。ただ、このときの活動は簡単に言い換えればゴアにいるポルトガル人のためのものといえる。すでにキリスト教の洗礼を受けている信徒が対象だということだ。
この先、異教徒の中に入って宣教活動をすることは想定していたが、この時点ではまず信徒のために必要なものを揃える必要があった。例えば、祈りの文を記したもの、使徒信条など礼拝や自分の家で祈るときに使う簡易なものである。
私は日課の合間を縫って、ポルトガル語でそれらのものを忠実に、そして簡便に書き起こした。ジョアン3世から下賜された聖書などの書物があったので、記憶だけで書くことはなく、ポルトガル語の筆記に困ることもなかった。
〈全能であり、天地万物の創造主である父なる神を信じます。神のひとりの御子であり、私たちの主なるイエズス・キリストを信じます。聖霊によりてみごもり、おとめマリアよりお生まれになられたことを信じます。ポンシオ・ピラトの権力の下で苦しみを受け、十字架につけられ、死んで葬られたことを信じます。古聖所にくだって、三日目に復活されたことを信じます。天に昇って全能の父である神の右に座し給うことを信じます。生ける人と死せる人を裁くために天より来られることを信じます。聖霊を信じます。聖なるカトリック教会を信じます。諸聖人の通功、罪の許しを信じます。肉身のよみがえりを信じます。永遠の生命を信じます。アーメン〉※1
聖書もそうだが、書物は不足していた。グーテンベルグにはじまる活版印刷術はヨーロッパではもう当たり前のものになっていたが、ゴアには印刷機もないし、それを作る技術を持つ者がいない。この頃にはオスマン・トルコや中国にもそれぞれ印刷術があり普及していたのに、間にあるこの地域は忘れ去られたような格好である。
アントニオ、この時期にゴアで印刷したい文書があった場合、どうしたと思う?
印刷したい文書をポルトガルまで船で運んでいって、リスボンで印刷させる。その完成品をまた船で運んで来るのだ。どんなに急いでも完成品を見るまでに1年かかる。場合によっては倍以上かかるし、海の藻屑にもなりうる。これはさすがにどうだろうと思ったよ。
ローマで小さい頃から印刷機に馴染んでいたというセサルは、「作ろうと思えば作れるだろうに」と苦笑していた。
「Ho trascorso i miei giorni d'infanzia a Subiaco. C'era una tipografia.」
(私がこどもの頃住んでいたスビアーコには、印刷所があった)
セサルはローマ近郊の町で生まれ育ったのだ。私はそれをこのときに初めて知った。
セサルによれば、教皇庁で大量に印刷する必要のあるものは、郊外にある印刷所で版を作って刷っていた。それがスビアーコにあり、こどもの彼はよくのぞきに行っていたという。セサルの幼少期を思い浮かべることが難しかったので、私は腕組みをして首を傾げていた。
「いたずらして、壊したりしたのでしょう?」
「いや、使い方を教えてもらっていた」とセサルはさらりと言う。幼児にそれが可能かどうかはわからないが、セサルならばありえるとも思ったよ。こどもの頃に印刷機を操っていた元枢機卿(すうきけい、すうききょう)の姿を懸命に頭に描いていたが、愉快な話だった。
印刷の技術は宣教活動をするのにたいへん重要なものであるとここで気がついたのだ。
◆◆
それらが軌道に乗った頃にようやく、私はローマへの手紙を書くことにした。何より、リスボンに向けて出航する船で運ばれるので風向きが逆になるのを待つ必要がある。急いで通信(手紙)を書くこともなかった。
ゴア到着まで、ゴアでの日々について詳細な報告をするのは、広くイエズス会員へ宛てることにした。そしてイニゴ(イグナティウス・ロヨラ、イエズス会の総長)には今のゴアの状況に合った宣教の方法について意見を求める手紙を書き綴った。
万事、一から考える必要があった。なぜなら、私の行動一つ一つが今後の見本になるのだから。そして迷うことも少なからずあった。この時点ではともに活動する人も少なく、いや、ほとんどおらず、できることが限られていた。
ただ幸いなことに、ゴアには聖堂があり、他の修道会の司祭もいた。また、長い船旅をともにしたソーザ総督は私にたいへん協力的だったので、考えを伝えやすい。環境はある程度整っていたのだ。ソーザ総督は、修道士や司祭を養成する学校の設立が必要だと考えていて、私もそれには同感だった。ポルトガルから聖職者が年に何人か来るといっても、十分な数ではない。マンシラスのように、修道士として渡航してきた人を司祭にする環境を整えなければならない。ましてや、現地の人々に宣教活動を行うのであればまったく足りない。
それに加えて、現地の人であれ、敬虔で熱心な信徒には修道士、将来的には司祭への道を開いておかなければならない。
学校の設立は急務だった。
山ほど考えることがあって、私は始終ああでもない、こうでもないと余裕のない表情をしていたのだろう。ある夜、セサルが私に告げた。
「バチカンとまったく同じしきたりを守るのは難しい。最低何が必要か、ということを留めておくべきだろう。そうだな……聖トマスはどうしただろうか。そのように考えてみたらいいのかもしれない」
セサルの言うことには私も同感だった。
ソコトラ島の原始的なキリスト教の信仰、それが厳密に聖トマスが伝えたそのままではなくとも……1500年の間には、いろいろなことがあっただろう……時を経て、それが残っていたことの意義はたいへん大きい。
行く先々の人々をよく見て、迷ったら信仰の原点に立ち返る、そこから始めようと思ったのだ。
※1 引用『聖フランシスコ・ザビエル全書簡1』(河野純徳訳 平凡社)
1542年5月6日、私たちはゴアに到着した。
順風満帆と言えればよかったのだが、一つ、たいへん残念なことが起こったことを報告しなければならない。私たちやソーザ総督がモザンビークまで乗船してきた旗艦のサンティアゴ号がインド沿岸の浅瀬で座礁したのだ。船は結局沈没して大量の積荷は海の藻屑となった。不幸中の幸いと言おうか、場所が浅瀬だったため乗員は皆自力で脱出して無事だった。リスボンでポルトガル国王のジョアン3世から下賜(かし)されたたくさんの書物は早々に積み替えていたため、難を逃れた。これらが海に沈んでしまったら、私も意気消沈していただろう。
何より犠牲者が出なかったことに、私は感謝の祈りを捧げていた。
ここは自然が形成した良港だった。ほどよい具合でふたつの大きな入江に囲まれて、中洲の島のようになっているこの地は、波の影響もほどよく緩和されているのではないかと思う。物資の行き来にもたいへん都合がよい土地だ。
私たちは城壁を越えてゴアの町に入った。
そこはポルトガルの町といってさしつかえなかった。行き交う人々も、聞こえてくる言葉もポルトガル人が大半だ。ここがポルトガルの海辺の町ではないのかと一瞬錯覚するほどだ。
いや、あれほど背の高い南国の木はポルトガルにはないだろう。
それに、湿気の多いあの暑さは、それまで私がいたどの土地にもないものだった。日光にさらされているとダラダラと汗が流れて、ふらふらしてくる。この時が私と「たいへん熱く湿った地域(アジアの熱帯)」のはじめての出会いだった。
ヴァスコ・ダ・ガマのゴア初到着(1498年)から数えて45年が経っている。その時に上陸したのはたった13人だった。
そこから下って1510年、アフォンソ・アルブケルケ率いる1000人のポルトガル艦隊がこの地に拠点を築こうと襲来する。この地を治めていたビジャープル国と戦闘になる。激しい抵抗を受けてポルトガル隊は大きな打撃を受けた。しかし、アルブケルケはあきらめなかった。一端撤退したあとに再度、前回の倍の人数(2000人)でゴアの攻略に取りかかったのだ。
このとき、インドの大半を手中にしていた北のヴィジャヤナガル国はビジャープル国を支援せず、黙認する形をとった。ポルトガルと秘密裏に交渉していたと考えられる。
そして、ゴアはポルトガルの領地となったのだ。
アルブケルケが最初にゴアに到着したとき、そこにあったのはビジャープル国の砦だけだった。それから30年ほどで、このような立派な町ができるのかと私は感嘆した。建物はどれも立派な石造りだった。設計する者や大工や石工がいなければとてもできるものではない。それだけではない。総督の邸宅をはじめ住む人の住宅も、病院も、聖堂も、ものを売る店も、鍛冶屋もある。リスボンを模して町を造っていったと言われるが、確かに要塞を王宮に見立てれば、リスボンの風景に通ずるものがあった。
ただよく見れば、ポルトガル人が大半だと思っていた人々の中には、ちらほらと現地の人らしい姿も見える。それだけではない、言葉を聞いていると外国の人も数多くいるようだ。
ここが貿易の拠点であるとともに、ポルトガルのアジア領域における「首都」でもあることをうかがわせた。
船はアフリカ大陸を折れて南から来るだけではない。北からも西からも東からも来るのだ。
それが海路の自由さでもあるだろう。
ただ、季節によって変わる風に航行が左右される点で、たいへん不自由になることは言うまでもない。
◆◆
私たちはさっそく、ゴアの王立病院で看護や告解を聞く任務につく。ヴェネツィアでも、ローマでも、あるいはゴアに至る航路でもしてきたことなので、自然なことだった。従者のセサルも看護の手伝いにつく。
これ以降、航海中よりもはるかに多くの人と接する機会を持つことになる。
だいたい1日はこのように過ぎていく。
午前中は病院の患者のために告解や聖体拝領をおこなう。今度は一般の信徒が告解に訪れる。告解に訪れる人は引きもきらなかったので、この時間は息つく間もなかった。
午後になると、今度は未決囚の人々の告解を聞くために留置場に赴く。それが終わると、王立病院の近くにある『聖母の小聖堂』に行き、こどもたちに祈りの言葉を教えたりする。
ポルトガル人と現地の人の間にこどもが次々と生まれていたので、こどもの数はたいへん多かった。それはマラッカでも同じだった。アントニオ、あなたもよく知っているだろう。
そのように、私が10人いても足りないほどの日々がはじまった。私と一緒にリスボンを出たミセル・パウロたちはモザンビークに留まって次の船を待っている。まだまだゴアには到着しない。
私の様子を見たソーザ総督からの助言も受けて、ほどなく、病院の運営はミゼリコルディア(ポルトガル語ではMisericórdia)が中心となって担うこととなった。ゴアではこの組織が早くから作られていたのだ。
アントニオ、あなたにミゼリコルディアの話をきちんとしたことがあっただろうか。そんな暇はなかったかもしれない。
13世紀にイタリア半島のフィレンツェで信徒の互助組織ができた。この組織は『兄弟会』と呼ばれ、慈善活動に取り組む。具体的には救貧院、孤児院、療養施設などの運営主体となっていったのだ。それがイタリア半島の各地に広がる。兄弟会が広く普及したのは、度重なる十字軍の遠征で地域の諸侯が財政難に陥ったり、各国の勢力争いによって戦乱が続いたことと無縁ではないだろう。
この兄弟会が慈悲会、すなわち『ミゼリコルディア』として定着し、今日まで続いているのだ。15世紀にはポルトガルで王立のミゼリコルディアも創設された。したがって、ゴアのそれも王が承認のもと作られていた。とは言っても、実際に活動する信徒たちの献身があってこそ運営できるものだ。一緒に活動を始めてみて、ゴアのミゼリコルディアにおける信徒の結束は他より堅固だと私は思った。たいへん助かったことは言うまでもない。
それは、母国から遠く離れた人々にとって、心の支えになるからだと思う。奉仕される側にとっても、する側にとっても。
手を付けなければならないことはたくさんあった。どれから話したらよいのかわからないほどだ。ただ、このときの活動は簡単に言い換えればゴアにいるポルトガル人のためのものといえる。すでにキリスト教の洗礼を受けている信徒が対象だということだ。
この先、異教徒の中に入って宣教活動をすることは想定していたが、この時点ではまず信徒のために必要なものを揃える必要があった。例えば、祈りの文を記したもの、使徒信条など礼拝や自分の家で祈るときに使う簡易なものである。
私は日課の合間を縫って、ポルトガル語でそれらのものを忠実に、そして簡便に書き起こした。ジョアン3世から下賜された聖書などの書物があったので、記憶だけで書くことはなく、ポルトガル語の筆記に困ることもなかった。
〈全能であり、天地万物の創造主である父なる神を信じます。神のひとりの御子であり、私たちの主なるイエズス・キリストを信じます。聖霊によりてみごもり、おとめマリアよりお生まれになられたことを信じます。ポンシオ・ピラトの権力の下で苦しみを受け、十字架につけられ、死んで葬られたことを信じます。古聖所にくだって、三日目に復活されたことを信じます。天に昇って全能の父である神の右に座し給うことを信じます。生ける人と死せる人を裁くために天より来られることを信じます。聖霊を信じます。聖なるカトリック教会を信じます。諸聖人の通功、罪の許しを信じます。肉身のよみがえりを信じます。永遠の生命を信じます。アーメン〉※1
聖書もそうだが、書物は不足していた。グーテンベルグにはじまる活版印刷術はヨーロッパではもう当たり前のものになっていたが、ゴアには印刷機もないし、それを作る技術を持つ者がいない。この頃にはオスマン・トルコや中国にもそれぞれ印刷術があり普及していたのに、間にあるこの地域は忘れ去られたような格好である。
アントニオ、この時期にゴアで印刷したい文書があった場合、どうしたと思う?
印刷したい文書をポルトガルまで船で運んでいって、リスボンで印刷させる。その完成品をまた船で運んで来るのだ。どんなに急いでも完成品を見るまでに1年かかる。場合によっては倍以上かかるし、海の藻屑にもなりうる。これはさすがにどうだろうと思ったよ。
ローマで小さい頃から印刷機に馴染んでいたというセサルは、「作ろうと思えば作れるだろうに」と苦笑していた。
「Ho trascorso i miei giorni d'infanzia a Subiaco. C'era una tipografia.」
(私がこどもの頃住んでいたスビアーコには、印刷所があった)
セサルはローマ近郊の町で生まれ育ったのだ。私はそれをこのときに初めて知った。
セサルによれば、教皇庁で大量に印刷する必要のあるものは、郊外にある印刷所で版を作って刷っていた。それがスビアーコにあり、こどもの彼はよくのぞきに行っていたという。セサルの幼少期を思い浮かべることが難しかったので、私は腕組みをして首を傾げていた。
「いたずらして、壊したりしたのでしょう?」
「いや、使い方を教えてもらっていた」とセサルはさらりと言う。幼児にそれが可能かどうかはわからないが、セサルならばありえるとも思ったよ。こどもの頃に印刷機を操っていた元枢機卿(すうきけい、すうききょう)の姿を懸命に頭に描いていたが、愉快な話だった。
印刷の技術は宣教活動をするのにたいへん重要なものであるとここで気がついたのだ。
◆◆
それらが軌道に乗った頃にようやく、私はローマへの手紙を書くことにした。何より、リスボンに向けて出航する船で運ばれるので風向きが逆になるのを待つ必要がある。急いで通信(手紙)を書くこともなかった。
ゴア到着まで、ゴアでの日々について詳細な報告をするのは、広くイエズス会員へ宛てることにした。そしてイニゴ(イグナティウス・ロヨラ、イエズス会の総長)には今のゴアの状況に合った宣教の方法について意見を求める手紙を書き綴った。
万事、一から考える必要があった。なぜなら、私の行動一つ一つが今後の見本になるのだから。そして迷うことも少なからずあった。この時点ではともに活動する人も少なく、いや、ほとんどおらず、できることが限られていた。
ただ幸いなことに、ゴアには聖堂があり、他の修道会の司祭もいた。また、長い船旅をともにしたソーザ総督は私にたいへん協力的だったので、考えを伝えやすい。環境はある程度整っていたのだ。ソーザ総督は、修道士や司祭を養成する学校の設立が必要だと考えていて、私もそれには同感だった。ポルトガルから聖職者が年に何人か来るといっても、十分な数ではない。マンシラスのように、修道士として渡航してきた人を司祭にする環境を整えなければならない。ましてや、現地の人々に宣教活動を行うのであればまったく足りない。
それに加えて、現地の人であれ、敬虔で熱心な信徒には修道士、将来的には司祭への道を開いておかなければならない。
学校の設立は急務だった。
山ほど考えることがあって、私は始終ああでもない、こうでもないと余裕のない表情をしていたのだろう。ある夜、セサルが私に告げた。
「バチカンとまったく同じしきたりを守るのは難しい。最低何が必要か、ということを留めておくべきだろう。そうだな……聖トマスはどうしただろうか。そのように考えてみたらいいのかもしれない」
セサルの言うことには私も同感だった。
ソコトラ島の原始的なキリスト教の信仰、それが厳密に聖トマスが伝えたそのままではなくとも……1500年の間には、いろいろなことがあっただろう……時を経て、それが残っていたことの意義はたいへん大きい。
行く先々の人々をよく見て、迷ったら信仰の原点に立ち返る、そこから始めようと思ったのだ。
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