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第6章 海の巡礼路(東洋編) フランシスコ・ザビエル
煙を噴く山と揺れる大地 1546年 アンボンからテルナテ島へ(インドネシア)
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〈フランシスコ・ザビエル、セサル・アスピルクエタ、コスメ・デ・トーレス、ファン・ディアス〉
1546年1月、私たちはマラッカからアンボンへ行くポルトガル船上にいた。
サン・トメ(インド)からマラッカの途中で出くわしたような暴風雨には出くわさなかったものの、所々で雨に降られた。それらはたいてい一過性のものであるが、なにぶん急である。雨に慌てて船室に潜り込むこともしばしばだった。
マラッカ海峡を抜けて、モルッカ諸島まではしばらくかかった。途中からは島々が多く、変化の多い景色が見られる。
アンボン(アンボン島、現在のインドネシア)に船が到着したのは、1546年の2月14日だった。この島は周囲30レグア(約150km)ほどの大きさだ。
この海域には海賊が出没するということだったが、主の思し召しか、私たちの船が襲撃されることはなかった。
アントニオ、私はほっと胸を撫で下ろしたよ。
これから進むモルッカ諸島の多くの島々がそうであるように、ここも鬱蒼と木々の生い茂る熱帯の森だった。
アンボン島に船が着くと現地の人々がこぞって出迎えてくれた。
ここにポルトガルの要塞はないが、人々は皆友好的だった。貿易で深い付き合いがあることがその理由だろう。私たちはさっそく、ポルトガル語を解する人を通訳に立てて島にある7つの村を訪ねて回ることにした。この島には以前、司祭が赴任してきて人々の改宗をすすめたということだった。信徒は8000人ほどいる。しかし、司祭は去って久しく、信徒となった人々を導く存在はない。放っておかれたままになっていたのだ。
どの村にも子ども、あるいはこれから生まれる子どもーーそれは妊娠している女性ということになるーーがたいへん多かった。私たちは通訳を通して、改宗した人々にとって子どもの洗礼が大切なのだと説明をした。
洗礼を受けたいという人々がたいへん多かったので、私たちはその仕事でたちまち手一杯になった。子どもたちの数は1000人以上にのぼったと思う。
しかし、熱帯の気候のためか、風土病か、それとも栄養や衛生状態のためか、洗礼を授けた新生児が亡くなる例が後を絶たない。それはこの時に限ったことではなく、新生児や乳児、幼児が亡くなるのは珍しくないということだった。病院を、無理なら医院、それでも無理ならばせめて医者を置いて環境を整えることが必要だと私は強く感じた。
子どもの魂が神の御許に安らかに旅立てるよう、私は心からの祈りを繰り返したのだ。それが私にできるたったひとつのことだった。
わたしに医学の知識があればと思ったことも一度や二度ではない。そうだな……ヴェネツィアの病院でも、ローマで伝染病が発生したときも、ゴアでも、インド南部の村々でもそうだった。ヨーロッパの医学はイスラム(アラビア)医学の影響を受けつつ発展してきた。治療の技術は世界でもっとも進んでいたはずだ。それをこの地域でも使うことができたらどれほどよいか。もちろん、聖職者が医療行為をするのは差し控えるべきであるのは承知している。
ただ、目の前で力尽きていく幼い命を次々と目の当たりにするのはーーたいへんつらいことだったのだ。
私たちが7つの村の訪問を終えた頃、アンボンの海辺に7隻のポルトガル船と1隻のスペイン船が入ってきた。これだけの船が入港したら、どうなるかわかるだろう、アントニオ。船員が海岸を占拠したようなものだ。もちろん、逗留する人のために簡易な住居は多く用意されているのだが、ゴアのような整った町に住むのと同じ環境にはならない。船に寝泊まりするものも多かった。
船団は風待ちのため3カ月ほどアンボンにとどまり、それからゴアに向かうということだった。私たちが乗ってきた船も同じ経路を行くので、一斉に出航することになった。
ただ私たちの進む方向は逆だ。なので船団を見送った後、現地の人々が航行している小型船でテルナテに行くことにしている。
スペイン船には8人の聖職者が乗っていた。じきに話をするようになる。そのうちアウグスティノ会の司祭が4人いた。私がイエズス会からポルトガル王の依頼でインドに派遣されたように、彼らはスペイン王によってメキシコに派遣されたのだ。
しかし言うまでもないが、私もセサルもスペイン語が準母国語だ。セサルには……母国語だろうか。
このとき、ポルトガル船とスペイン船が敵対関係にあったならば難しかっただろうが、当の船員同士が気さくに交流していたので、私たちもその輪に入ることがたやすかった。スペイン語で大いに話すのは本当に久しぶりで、楽しく感じたよ。
一方のセサルは無口になっていたが、諸々の事情を考えればそれは仕方ない。
アウグスティノ会の司祭二人が私の話を熱心に聞いてくれていた。名をコスメ・デ・トーレスとファン・ディアスという。お互いに、これまで例のない遠方への宣教に携わっていることもあって、すぐに意気投合したよ。長い航海の苦労、身体に堪える気候のこと、違う習慣と文化を持つ人々、本国から離れて横暴に振る舞う官吏……など共通点が多く、話題が尽きることがなかった。また、この二人は私の宣教方法にたいへん興味を持ってくれていた。具体的には使徒信条の翻訳から、祈りを子どもたちに教えることなどだが、彼らがあまりに感心するので、少し恥ずかしくなったほどだ。
とはいえ、船隊が来航したことで、今度はそちらの病人の看護をしたり告解を聞いたりすることで手一杯になった。つくづく、先に村々をまわっておいて正解だと思ったよ。それこそ、あっという間に2カ月が過ぎ、彼らは来たときと同じように大挙して去っていった。それは1546年5月17日のことだった。
見送りに出た私のところに、トーレス司祭とディアス司祭がやってきて、握手を求められた。私が喜んでそれに応じるとトーレス司祭が口をきゅっと結んで感極まったような表情になる。
「ザビエル司祭、きっとまた、お会いできますね」
「約束はできませんけれど、ぜひまた。神のご加護がありますように」と私はうなずいた。
トーレス司祭とディアス司祭にはまた出会うことになる。
彼らを見送ったのち、私たちは再びアンボン島の村々を訪問してしばらく時を過ごした。マレー語に訳した使徒信条や祈りの言葉は役に立ったようだ。村人たちはそれをきちんと覚えて、私に誇らしげに知らせてくれた。その時の喜びと言ったら!
芽吹いたこの恵みが大きな木に育つまで、見守っていられればよいのだが、私たちはすぐに去る必要があった。この芽を育てるために、聖職者がそれぞれの島に派遣され、活動に専念できるよう、ポルトガルの長官や総督、国王に依頼しなければならないと私は考えていた。アンボンで書いた手紙はゴアに向かう艦船に託していたが、テルナテでも再び書くつもりでいた。
手紙が確実に届いたかどうか、知る手段はないのだ。返信が来ればわかるのだが、そこまではかなりの月日がかかる。同じような内容でも、繰り返し書いておく必要があった。どれが届くか分からないからだ。
6月13日、私たちはアンボン島を出発した。私たちが乗ったのは、地元の人々が島と島の間を移動するときに使う、コラコラという船だった。帆船と帆掛け船の間といえばよいだろうか。それほど大きくない、昔ながらの船である。船頭が櫂(オール)を操って器用に波間を進んでいく。
島々を抜けてしばらく航行していると、時々、霧が辺りに立ち込めて視界が著しく悪くなる。雨が降っていないし、空は明るい。なので、霧の理由がわからない。船頭はポルトガル語を解さないし、私たちもまだマレー語に習熟していない。聞くことができなかったのだ。
セサルはしきりにその原因を考えている。そして、目を凝らして四方八方を見ている。そして、何かを見つけて私に声をかけてきた。
「フランシスコ、わかった。あれだ」
私は目を凝らしてセサルの指差した方角を眺めた。白く靄(もや)っているのではっきりとはしていない。ただ、指差した島の方角は一段と霧が濃くなっていた。何だろう、と私はさらに目を凝らす。するとその島にある大きな山から、もくもくと煙が上がっているのが見えた。霧だと思ったのは、あの煙のせいだったのか。
「すごい煙ですね。山火事でしょうか」と私はセサルに言う。
セサルは首を横に振る。
「違う。あれは山が噴火しているのだ」
私はこれまで、そのようなものを見たことがなかった。生まれ育ったスペインのピレネー山脈でそのような現象は起こらなかった。もし起こっていたら、たいへんな騒ぎになっていただろう。セサルは続ける。
「私もまともに見るのは初めてだ。ただ、ナポリで見たヴェスビオ山や対岸のストロンボリ、エトナ山など、イタリア半島の南には火を噴く山が多い。伝説によれば、全て溶かしてしまうほどの溶岩や噴石が噴き出し、町が丸々消えてしまうほどの被害も出たようだ。火を噴く山だと考えれば、あれぐらいの煙が上がっても不思議はない」
「あの山もそんな風に爆発するのですか」と私はおそるおそる聞く。
「さあ、それはテルナテで現地の人に聞いてみたらいい。話すきっかけになる」とセサルはこともなげに言う。何を恐れることがあるのだ、と言われたように感じて、私は首をすくめた。(※1)
ここまで海の道を辿ってきて実感したことがあった。旧約聖書にあるノアの方舟のような大雨は現実に起こることがまれだと思ってきたが、これだけ雨の多い場所にいると、あっても不思議ではないように思えたのだ。
40日降り続く大雨、洪水。
水は150日の間、大地を埋めつくし、引くことがなかった。さまようノアの舟……。
自分のいる場所で起こりづらいことも、まったく別の場所から見ると日常的に起こるものなのだ。言葉、習慣、文化など人に関わる部分だけではなく、雨も山も森も生き物も、万事がそうだ。セサルが見つけた煙を吐く山もそうだろう。
セサルはそれを自分の見た景色、歴史と結びつけて取り込もうとする。初めて見るものでも、そこに共通の何かを見いだし、喜んで受け入れるのだ。簡単なようだが、なかなかできることではない。
個人の意識をがらりと変容させるような事象に向かうのでも、彼はためらわないのだ。それは時に根なし草のような心情に囚われる旅人が、前に進むために必要な資質かもしれない。そして、その資質は誰もが持てるものではない。
霧に煙る景色を眺めながら、私はそんなことを考えていた。
テルナテには7月上旬に到着した。
テルナテに着いた後、知ったところによると、この辺りにはそのような噴火する山を持つ島が珍しくなく、煙だけではなく火柱を噴き上げ、高温の溶岩を排出し、すべてを押し流してしまうこともある。また噴火の際に石をはるか彼方まで吹き飛ばすという。
テルナテにある山もそうだと現地の人は言う。そのため、この島は地震が多かった。
地震もまた、私にとって初めての経験だったことを付け加えておかなければならないだろう。モーゼが顕現させたように、海がふたつに割れる光景は目にしなかったものの、大地が揺さぶられるという現象にも自然の脅威をまざまざと感じたのだ。
このテルナテ島にも私たちはしばらく留まることになる。
※1 インドネシア、フィリピンの一帯は環太平洋火山帯の中にありますが、その中でも活火山がたいへん多いところです。ピナツボ山(フィリピン)の噴火は記憶に新しいところです。日本もそこに含まれていることをご存じの方もいらっしゃると思います。これらの一帯はプレートの境界にあたり、海底の造山活動が活発です。そのため、地震も多いのです。
1546年1月、私たちはマラッカからアンボンへ行くポルトガル船上にいた。
サン・トメ(インド)からマラッカの途中で出くわしたような暴風雨には出くわさなかったものの、所々で雨に降られた。それらはたいてい一過性のものであるが、なにぶん急である。雨に慌てて船室に潜り込むこともしばしばだった。
マラッカ海峡を抜けて、モルッカ諸島まではしばらくかかった。途中からは島々が多く、変化の多い景色が見られる。
アンボン(アンボン島、現在のインドネシア)に船が到着したのは、1546年の2月14日だった。この島は周囲30レグア(約150km)ほどの大きさだ。
この海域には海賊が出没するということだったが、主の思し召しか、私たちの船が襲撃されることはなかった。
アントニオ、私はほっと胸を撫で下ろしたよ。
これから進むモルッカ諸島の多くの島々がそうであるように、ここも鬱蒼と木々の生い茂る熱帯の森だった。
アンボン島に船が着くと現地の人々がこぞって出迎えてくれた。
ここにポルトガルの要塞はないが、人々は皆友好的だった。貿易で深い付き合いがあることがその理由だろう。私たちはさっそく、ポルトガル語を解する人を通訳に立てて島にある7つの村を訪ねて回ることにした。この島には以前、司祭が赴任してきて人々の改宗をすすめたということだった。信徒は8000人ほどいる。しかし、司祭は去って久しく、信徒となった人々を導く存在はない。放っておかれたままになっていたのだ。
どの村にも子ども、あるいはこれから生まれる子どもーーそれは妊娠している女性ということになるーーがたいへん多かった。私たちは通訳を通して、改宗した人々にとって子どもの洗礼が大切なのだと説明をした。
洗礼を受けたいという人々がたいへん多かったので、私たちはその仕事でたちまち手一杯になった。子どもたちの数は1000人以上にのぼったと思う。
しかし、熱帯の気候のためか、風土病か、それとも栄養や衛生状態のためか、洗礼を授けた新生児が亡くなる例が後を絶たない。それはこの時に限ったことではなく、新生児や乳児、幼児が亡くなるのは珍しくないということだった。病院を、無理なら医院、それでも無理ならばせめて医者を置いて環境を整えることが必要だと私は強く感じた。
子どもの魂が神の御許に安らかに旅立てるよう、私は心からの祈りを繰り返したのだ。それが私にできるたったひとつのことだった。
わたしに医学の知識があればと思ったことも一度や二度ではない。そうだな……ヴェネツィアの病院でも、ローマで伝染病が発生したときも、ゴアでも、インド南部の村々でもそうだった。ヨーロッパの医学はイスラム(アラビア)医学の影響を受けつつ発展してきた。治療の技術は世界でもっとも進んでいたはずだ。それをこの地域でも使うことができたらどれほどよいか。もちろん、聖職者が医療行為をするのは差し控えるべきであるのは承知している。
ただ、目の前で力尽きていく幼い命を次々と目の当たりにするのはーーたいへんつらいことだったのだ。
私たちが7つの村の訪問を終えた頃、アンボンの海辺に7隻のポルトガル船と1隻のスペイン船が入ってきた。これだけの船が入港したら、どうなるかわかるだろう、アントニオ。船員が海岸を占拠したようなものだ。もちろん、逗留する人のために簡易な住居は多く用意されているのだが、ゴアのような整った町に住むのと同じ環境にはならない。船に寝泊まりするものも多かった。
船団は風待ちのため3カ月ほどアンボンにとどまり、それからゴアに向かうということだった。私たちが乗ってきた船も同じ経路を行くので、一斉に出航することになった。
ただ私たちの進む方向は逆だ。なので船団を見送った後、現地の人々が航行している小型船でテルナテに行くことにしている。
スペイン船には8人の聖職者が乗っていた。じきに話をするようになる。そのうちアウグスティノ会の司祭が4人いた。私がイエズス会からポルトガル王の依頼でインドに派遣されたように、彼らはスペイン王によってメキシコに派遣されたのだ。
しかし言うまでもないが、私もセサルもスペイン語が準母国語だ。セサルには……母国語だろうか。
このとき、ポルトガル船とスペイン船が敵対関係にあったならば難しかっただろうが、当の船員同士が気さくに交流していたので、私たちもその輪に入ることがたやすかった。スペイン語で大いに話すのは本当に久しぶりで、楽しく感じたよ。
一方のセサルは無口になっていたが、諸々の事情を考えればそれは仕方ない。
アウグスティノ会の司祭二人が私の話を熱心に聞いてくれていた。名をコスメ・デ・トーレスとファン・ディアスという。お互いに、これまで例のない遠方への宣教に携わっていることもあって、すぐに意気投合したよ。長い航海の苦労、身体に堪える気候のこと、違う習慣と文化を持つ人々、本国から離れて横暴に振る舞う官吏……など共通点が多く、話題が尽きることがなかった。また、この二人は私の宣教方法にたいへん興味を持ってくれていた。具体的には使徒信条の翻訳から、祈りを子どもたちに教えることなどだが、彼らがあまりに感心するので、少し恥ずかしくなったほどだ。
とはいえ、船隊が来航したことで、今度はそちらの病人の看護をしたり告解を聞いたりすることで手一杯になった。つくづく、先に村々をまわっておいて正解だと思ったよ。それこそ、あっという間に2カ月が過ぎ、彼らは来たときと同じように大挙して去っていった。それは1546年5月17日のことだった。
見送りに出た私のところに、トーレス司祭とディアス司祭がやってきて、握手を求められた。私が喜んでそれに応じるとトーレス司祭が口をきゅっと結んで感極まったような表情になる。
「ザビエル司祭、きっとまた、お会いできますね」
「約束はできませんけれど、ぜひまた。神のご加護がありますように」と私はうなずいた。
トーレス司祭とディアス司祭にはまた出会うことになる。
彼らを見送ったのち、私たちは再びアンボン島の村々を訪問してしばらく時を過ごした。マレー語に訳した使徒信条や祈りの言葉は役に立ったようだ。村人たちはそれをきちんと覚えて、私に誇らしげに知らせてくれた。その時の喜びと言ったら!
芽吹いたこの恵みが大きな木に育つまで、見守っていられればよいのだが、私たちはすぐに去る必要があった。この芽を育てるために、聖職者がそれぞれの島に派遣され、活動に専念できるよう、ポルトガルの長官や総督、国王に依頼しなければならないと私は考えていた。アンボンで書いた手紙はゴアに向かう艦船に託していたが、テルナテでも再び書くつもりでいた。
手紙が確実に届いたかどうか、知る手段はないのだ。返信が来ればわかるのだが、そこまではかなりの月日がかかる。同じような内容でも、繰り返し書いておく必要があった。どれが届くか分からないからだ。
6月13日、私たちはアンボン島を出発した。私たちが乗ったのは、地元の人々が島と島の間を移動するときに使う、コラコラという船だった。帆船と帆掛け船の間といえばよいだろうか。それほど大きくない、昔ながらの船である。船頭が櫂(オール)を操って器用に波間を進んでいく。
島々を抜けてしばらく航行していると、時々、霧が辺りに立ち込めて視界が著しく悪くなる。雨が降っていないし、空は明るい。なので、霧の理由がわからない。船頭はポルトガル語を解さないし、私たちもまだマレー語に習熟していない。聞くことができなかったのだ。
セサルはしきりにその原因を考えている。そして、目を凝らして四方八方を見ている。そして、何かを見つけて私に声をかけてきた。
「フランシスコ、わかった。あれだ」
私は目を凝らしてセサルの指差した方角を眺めた。白く靄(もや)っているのではっきりとはしていない。ただ、指差した島の方角は一段と霧が濃くなっていた。何だろう、と私はさらに目を凝らす。するとその島にある大きな山から、もくもくと煙が上がっているのが見えた。霧だと思ったのは、あの煙のせいだったのか。
「すごい煙ですね。山火事でしょうか」と私はセサルに言う。
セサルは首を横に振る。
「違う。あれは山が噴火しているのだ」
私はこれまで、そのようなものを見たことがなかった。生まれ育ったスペインのピレネー山脈でそのような現象は起こらなかった。もし起こっていたら、たいへんな騒ぎになっていただろう。セサルは続ける。
「私もまともに見るのは初めてだ。ただ、ナポリで見たヴェスビオ山や対岸のストロンボリ、エトナ山など、イタリア半島の南には火を噴く山が多い。伝説によれば、全て溶かしてしまうほどの溶岩や噴石が噴き出し、町が丸々消えてしまうほどの被害も出たようだ。火を噴く山だと考えれば、あれぐらいの煙が上がっても不思議はない」
「あの山もそんな風に爆発するのですか」と私はおそるおそる聞く。
「さあ、それはテルナテで現地の人に聞いてみたらいい。話すきっかけになる」とセサルはこともなげに言う。何を恐れることがあるのだ、と言われたように感じて、私は首をすくめた。(※1)
ここまで海の道を辿ってきて実感したことがあった。旧約聖書にあるノアの方舟のような大雨は現実に起こることがまれだと思ってきたが、これだけ雨の多い場所にいると、あっても不思議ではないように思えたのだ。
40日降り続く大雨、洪水。
水は150日の間、大地を埋めつくし、引くことがなかった。さまようノアの舟……。
自分のいる場所で起こりづらいことも、まったく別の場所から見ると日常的に起こるものなのだ。言葉、習慣、文化など人に関わる部分だけではなく、雨も山も森も生き物も、万事がそうだ。セサルが見つけた煙を吐く山もそうだろう。
セサルはそれを自分の見た景色、歴史と結びつけて取り込もうとする。初めて見るものでも、そこに共通の何かを見いだし、喜んで受け入れるのだ。簡単なようだが、なかなかできることではない。
個人の意識をがらりと変容させるような事象に向かうのでも、彼はためらわないのだ。それは時に根なし草のような心情に囚われる旅人が、前に進むために必要な資質かもしれない。そして、その資質は誰もが持てるものではない。
霧に煙る景色を眺めながら、私はそんなことを考えていた。
テルナテには7月上旬に到着した。
テルナテに着いた後、知ったところによると、この辺りにはそのような噴火する山を持つ島が珍しくなく、煙だけではなく火柱を噴き上げ、高温の溶岩を排出し、すべてを押し流してしまうこともある。また噴火の際に石をはるか彼方まで吹き飛ばすという。
テルナテにある山もそうだと現地の人は言う。そのため、この島は地震が多かった。
地震もまた、私にとって初めての経験だったことを付け加えておかなければならないだろう。モーゼが顕現させたように、海がふたつに割れる光景は目にしなかったものの、大地が揺さぶられるという現象にも自然の脅威をまざまざと感じたのだ。
このテルナテ島にも私たちはしばらく留まることになる。
※1 インドネシア、フィリピンの一帯は環太平洋火山帯の中にありますが、その中でも活火山がたいへん多いところです。ピナツボ山(フィリピン)の噴火は記憶に新しいところです。日本もそこに含まれていることをご存じの方もいらっしゃると思います。これらの一帯はプレートの境界にあたり、海底の造山活動が活発です。そのため、地震も多いのです。
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