16世紀のオデュッセイア

尾方佐羽

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第9章 手折られぬひとつの花 カトリーヌ・ド・メディシス

あの日々はもう戻らず 1535年 フォンテーヌブロー

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〈マリア・サルヴィアーティ、ルクレツィア・サルヴィアーティ、アレッサンドロ・メディチ、イッポーリト・メディチ、前教皇クレメンス7世、コジモ・メディチ、カトリーヌ・ド・メディシス〉

 1535年がやってきて、カトリーヌはそれなりの注意を周囲に払わなければならなかったものの、パリ近郊フォンテーヌブローで平穏な日々を過ごしていた。さきに述べたような、「女どうしの争い」があったとしても、それが刃傷沙汰になったり戦争になったりしなければ、結局は大きなことではないのだ。
 ただし、「女どうしの争い」がのちに大変な事件を引き起こす可能性がないわけではない。のちに証明されるだろう。

 カトリーヌの側にはマリア・サルヴィアーティがいる。メディチ家の出身でカトリーヌの親戚にあたるこの女性は、寡婦であることをひとときも忘れずに極度に地味な服を身につけていた。修道女に準ずるような服で、髪は常に隠されていた。その出で立ちは華美な服装を好む女性が大半の宮廷で、逆にひときわ目立っていた。

 マリアは常にカトリーヌの側にいる。
 このような場所で新参者が肩身の狭い思いをすることは想像に難くない。いくらフランス語の基礎は覚えてきたといっても、カトリーヌがイタリア半島出身の外国人であることは変えようがない。
 マリアは母ルクレツィアに頼まれて、この役目を引き受けた。ルクレツィアの判断は正しかった。そこそこ若く体力があり、感情を抑制できる人間でなければ、このような仕事は務まらないだろう。
 寡婦になって、息子の養育にすべてを捧げてきたーー彼女のような人が適役だったのだ。

 教皇クレメンス7世が逝去した後、マリアはフィレンツェの母ルクレツィアに長い手紙を書いていた。メディチ家の女性の中で最も本筋に近く年長のルクレツィアである。いろいろなことで煩わされるのではないかと考えて、心配してのことである。
 その返信は1535年に入ってから届いた。

 疲れた様子の母が切々と綴った、イタリア語の長い長い手紙である。

〈マリア、

 この手紙は厳封して送りますが、あなたも他言はしないようにしてちょうだい。
 もちろん、カトリーヌにも。

 クレメンス7世が亡くなってフィレンツェも落ち着かない雰囲気になっています。でもそれはローマ劫略の後のように、共和国政府が蜂起しようというものではない。アレッサンドロの乱暴な行動がフィレンツェに不穏な空気を与えているのです。

 マリア、教皇さまの死因が毒によるものだと、あなたは耳にしたかもしれません。ローマでは新教皇パウルス3世の指示で捜査がまだ続いているけれど、じきに犯人探しは終わりになるでしょう。その内情はわからないけれど、証拠が得られていないと往々にしてそうなるということです。

 これに最も衝撃を受けたのはアレッサンドロでした。彼は極度に用心深くなり、側近として付いている者すら信用しなくなりました。常に剣やナイフを携帯し、食事やワインはいつも毒味をさせるありさまです。そして、また蜂起が起こるのではないかと、市中を監視する体制を取り、密告を奨励するようになりました。そのために、拘束される人が毎日出ています。

 そこまで不安になる理由は、私にはよくわかるのです。アレッサンドロが公ではないにしても、クレメンス7世の子だということをみんなが知っている。その強大な後ろ楯をなくして、自分の立場が根底から崩れるように思っているのでしょう。思えば、アレッサンドロは以前からそう思っているふしがありました。人々に対して傲慢に振る舞うのは、大きな不安の裏返しなのです。

 それは分かっていたので、私はアレッサンドロに、「ロレンツォもコジモも、メディチ家の興隆を築いた人々は常に市民の側に立ち、謙虚になることを美徳としてきたのだから、それに倣いなさい」と、やんわりと言い続けてきました。
 そしてローマに皆が滞在していたとき、私は教皇さまにもアレッサンドロのことを話しました。こう言っては何だけれど、私のほうがアレッサンドロと暮らした時間は長いのです。けれど、それはあまり理解していただけないようでした。フィレンツェの治世を預ければそれで万事上手くいくと思われていたのです。

 そう、それは正しい選択ではなかった。

 クレメンス7世に毒を盛ったのは、イッポーリトかその意を受けた者の仕業だという噂も聞こえてきています。ええ、アレッサンドロはそう思い込んでいます。イッポーリトはあちこち飛び回っているけれど、誰かに命じて毒を盛らせたのだと。イッポーリトはフィレンツェに赴任するよう新教皇さまに命じられましたけれど、それがどのような影響を及ぼすのかと考えると、おそろしい。
 とてもおそろしいの、マリア。
 アレッサンドロとイッポーリトが殺し合いにならないかと。

 本当にここだけの話だけれど、イッポーリトがそれをしたとしても何の不思議もないの。
 カトリーヌとの婚約がなくなったことも、意に反して聖職者になったことも、フィレンツェから遠く離されたことも、すべてクレメンス7世が決めたことなの。そして、愛していたカトリーヌも修道院にぽんと放り込まれ、しまいにはフランスに嫁に出されてしまった。
 だから、イッポーリトが深い恨みを持っていたとしても何の不思議もないわ。

 あの子の人生は、クレメンス7世の命令に左右されてばかりだった。

 ねえ、マリア、私は最近思い出すの。
 小さな小さなカテリーナと、少年のアレッサンドロとイッポーリト、彼らと暮らしていた時のことを。あの頃は楽しかったわ。アレッサンドロの巨大な不安も、イッポーリトの深い恨みもあのときはなかったわ。
 美味しい食事を囲んで、たあいない話で笑って、アレッサンドロはカテリーナの馬を引き、カテリーナはイッポーリトと本を読み……そんな、彼らにとって幸せな日々のことを思い出すのよ。

 どうしてこんなことになってしまったのかしら。
 彼らの心の平安はいつ訪れるのかしら。

 カテリーナ、いえ、カトリーヌだったわ。
 あの子には、あの子にだけは幸せになってほしい。
 身内で憎み合って、いつか取り返しのつかないことになるような、そんな経験はしてほしくない。公爵妃として安泰で過ごしてほしい。

 マリア、カトリーヌのことよろしくお願いします。

 あと、あなたの息子コジモはとても元気よ。元気過ぎてもう……最近ようやく髭が生えてきたのだけれど、軍人風に整えています。あの子はよく、こう言って私を慰めてくれるの。

「僕がフィレンツェと、おばあさまを守りますから安心して」

 それが今の私の、かすかな希望です。
 コジモとともに、あなたとカトリーヌのことを祈っています。

ルクレツィア・サルヴィアーティ〉


 マリアはこの手紙を読み終わって就寝する。しかし、ベッドに入っても目が冴えて、眠れなくなる。そして考えている。

 考えた結果は翌朝カトリーヌに伝えられた。

「いったん、フィレンツェに戻りたいと思います。どうぞお許しください」
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