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第9章 手折られぬひとつの花 カトリーヌ・ド・メディシス
『最後の審判』に打たれる男 1542年 ローマ
しおりを挟む〈ミケランジェロ・ブォナローティ、ジョルジョ・ヴァザーリ、コジモ・ディ・メディチ〉
1542年、ところはローマ教皇庁にあるシスティーナ礼拝堂である。
この礼拝堂には、旧約聖書の『天地創造』を描いた巨大な天井画がある。天井画というのはこの頃にはいくらでもあったが、『天地創造』は破格の存在である。天井の梁や装飾も含めてになるが、大きさは約13m×36mにもなる。旧約聖書にモチーフを採った数々の場面の中央にある『アダムの創造』だけでも4.8m×2.3mのサイズなのだ。
1541年も終わりに近づいた頃、礼拝堂の祭壇の背後に新しい壁画が描かれた。これもかなり大きいもので、14m×12mある。寸法だけいっても見当がつかないかもしれないが、礼拝堂に入ったとたんに人々は例外なく、息を飲んで圧倒される。
天の高みの中央にはイエス・キリストと聖母マリア、下方右手には地獄、左手には大地が描かれ善悪を対比させている。描かれている人は何百にものぼる。
文字通り聖書の世界に踏み込んだかのような気持ちになるだろう。
とはいえ、この時点で完成したばかりの壁画を見られるのは限られた人々である。教皇庁の聖職者やそこに駐在する者だけだ。お披露目はされていたが今日のように誰でも見られるわけではないのである。
この時点では描かれたほとんどの人が服を身に付けてはいなかった。それゆえに、バチカンの中ではこの絵に対して侃々諤々の議論となっている。この絵は5年の歳月をかけて描かれたので、衣服の件については完成以前から人の口の端にのぼっていた。
ただ絵を依頼した当の本人、教皇パウルス3世は絵の人々が衣服を身につけないことを了承していた。もし、服を着た人間を描けといったら、描き手は仕事を断っただろう。
そもそもが乗り気ではなかったのだから。
許可を得てシスティーナ礼拝堂を拝観している男がいた。
彼はローマに何年か滞在したこともあったが、このところはフィレンツェに居を構えている。今回ローマを再訪したのは、この絵の作者に会うためだった。そして、その前に『最後の審判』を見ておきたかったのだ。彼は他の誰もがそうするように、礼拝堂の入口から中を見たとたんに立ち尽くし、ことばを失っていた。
「何という……ことだ」
しばらく経ってから、男はやっとそれだけ口にすることができた。そして、彼は奥につかつかと進み丹念に壁画を確かめ出した。
「これだけの凄まじい絵が描けるのは、天から才能を与えられた者だけだ……私にはできない、決してできない」
そういうと彼は短く祈り、礼拝堂をあとにした。
この時、『天地創造』と『最後の審判』の作者であるミケランジェロ・ブォナローティはローマに住んでいた。ローマ教皇庁の専属画家・建築家という職を与えられ、衣食住が保証されている。もっともミケランジェロはそれで贅沢三昧な暮らしをするようなことはなかった。
着たきり雀で靴も脱がず、弟子が靴を脱がそうとしたら、足の皮も剥がれてしまったという逸話があるほどだ。
それは仕事のせいかもしれない。齢66の老芸術家には、まだ教皇庁からの依頼が積み重なっていた。いくつかの広場の設計、そして教皇庁のシンボルであるサン・ピエトロ大聖堂の設計も後年託されるのである。
この聖堂の改築には長い長い紆余曲折があった。もともとの話が出たのがこの世紀の初めのことである。それが資金難に陥り、神聖ローマ帝国での贖宥状の乱発に至る。マルティン・ルターがカトリック教会に質問状を出し、教会改革運動が始まったきっかけである。
この時点でミケランジェロはそれには着手していない。
ミケランジェロは自身の邸宅で、中断していた仕事を再開していた。4代前の教皇ユリウス2世の廟所の設計と彫像の制作である。これは本人に直接依頼されたのだが、かの教皇が逝去してからもう30年近く経っている。ずいぶんと長い留保案件となっていた。
その間のゴタゴタについては別の章に記した。(※)
男はミケランジェロの邸宅を訪れて、久しぶりにその顔を見た。
ミケランジェロも男の顔を見て、相好を崩す。
「ああ、ジョルジョ!ジョルジョなのか。ずいぶんと立派な服を着て、その黒い外套はフィレンツェの外交官のようだぞ。ひょろっとしてはいるが、いっぱしの貫禄がついたようだ。まあ、そこに座ってくれ」
そう言われたジョルジョ・ヴァザーリは会釈をして、かつての師匠を見つめている。
「師匠は……変わりませんね」
「ん? 変わらず偏屈者とでも言うか。ああ、髪は白くなったし、目は窪んできたし、要するに……老いぼれた」
「腰を悪くされたとバチカンで聞きましたが……」とヴァザーリは心配そうに尋ねる。
ミケランジェロは口をとがらせてうなずく。
「ああ、足場から落ちたんだ。頭からだったら天に召されていたことだろう。礼拝堂の絵を描いているときにそんなことになったら験が悪いだろう。腰を痛めただけで済んだことはありがたいと思わなければな」
ミケランジェロは『最後の審判』の制作中に大怪我をしていたのである。
「もう大丈夫なのですか」
「だいぶよくなった。ああ、そういえばおまえはニコラスと連絡を取っているのか」とミケランジェロが聞く。
「ニコラス!前にローマに来たときに手紙を出したきりですから、もうだいぶ前ですね。まだティッツィアーノの工房にいるのだと思いますが……」とヴァザーリはかつての弟子仲間を思い出しながら言う。
「ニコラスはポルトガルまでおっ母さんを探しに行ったんだ。一昨年かな。そのあとで一度ローマに来てここに寄っていったよ」
ミケランジェロがにこやかに昔話をしているのを見て、ヴァザーリは安心する。
そしてできるだけさりげなく、かつての師匠に切り出す。
「師匠、今回私はコジモ・メディチ公の使者として伺ったのです。そのお話を聞いていただけませんか」
ミケランジェロはきょとんとしている。
「ああ、『黒隊のジョヴァンニ』の息子か。それで、フィレンツェの若き君主が私にどんな用なのだ?
フィレンツェにはやりかけの仕事をいくつか残してきたが、もう依頼主はとうに天に召された。もう反故になっていると思うが、そのことか?」
「それもあります」とヴァザーリは話し始めた。
※ニコラス・コレーリャが主人公の章の複数の箇所に記述があります
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