16世紀のオデュッセイア

尾方佐羽

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第10章 ふたりのルイスと魔王1

彼女は城を去っていく 1560年 尾張

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〈織田信長、帰蝶〉

 永禄三年(一五六〇)年六月、桶狭間の戦いで織田上総介信長は長らく宿敵だった駿河・遠江の太守、今川義元を討ち果たした。これで尾張・三河から今川の勢力を一掃するのに邁進できる。いや、もうそこも緒についていた。少し前まで織田の同族同士で権力争いを繰り返していたことを考えれば、これは画期的な勝利だった。

 これを画期的というのに、ひとつ例を引いてみよう。さきに厳島合戦に勝利した毛利元就である。安芸吉田庄の国人領主だった彼は、地域の国人領主と結縁で協同体制を作り、息子たちに養子に出た家を乗っ取るような形で継がせ、時には調略という手段を使って厳島に至ったのである。家のみならず地域を面で巻き取っていったことで、弱体化していた周防・長門の太守を打ち破るだけの軍事力を得たのである。

 信長はそのような方法を取れなかった。
 身内は彼を亡きものにしようとしたし、旧い家臣にも信を置けなかった。尾張の国人たちの中には信長に反旗を翻す者が続いた。結縁した斎藤道三との同盟も道三の死でご破算になった。身内にも地域にも敵がいてひとつにまとめるどころではなかった。それをひとつずつ潰して、自身の軍を作っていくことでそれに向かってきたのだ。

 これまで何かにつけて阻んできた今川義元が倒れ、信長はようやく次への布石を打てるようになる。彼にとって義元がどれほど大きな軛となってきたことか。ほぼ十倍の数の敵を追い払って大将首を取ったという以上に、この勝利が信長に与ーえたものははかり知れないほど大きかった。

 尾張から外へ。
 さらに遠くへ。
 信長の前に大きな扉が開かれたのである。

 桶狭間の戦いの数ヶ月のち、信長の部屋に「折り入って話がある」と妻の帰蝶が訪れる。この数ヶ月、信長は彼女にほとんど会っていなかったので、妻の姿にしばし見いる。彼女はこのところ臥せりがちだったからか、おそろしく肌色は白く身体は柳のように細くなっている。
「久しくお目にかかっておりませんので、お忘れになったのでは」と帰蝶はほほえむ。
 信長は顎に手を当ててしばらく眺めたままでいる。
「いや、息災であるとは聞いとったでや。それにしても痩せてしもうたで」
「お言葉ありがたく頂戴いたします」

 帰蝶は体調が優れないことが最近多く、故郷の美濃に戻りたいという。その許しを得たいと赴いたのだ。しばらく信長も戦続きで妻に会っていなかったことを思う。
「わしもろくに見舞いもできず申し訳ない」
「いいえ、戦があったのですから仕方ありませぬ。それに、いろいろ精のつくものを贈ってくださいましたこと、お礼申し上げます」
 体調のこともあるが、信長が帰蝶と誼を通じなくなったのには他の理由もあった。
 信長には愛妾がいる。
 尾張の土豪、生駒八右衛門の娘、吉乃(きつの)という人である。もうかれこれ四年越しの関係で、すでに子もなしている。信長は正室の帰蝶をおもんばかって吉乃を清洲城に呼ぶことはなく、生駒の屋敷に通い続けていた。
 もちろん、その話はじきに帰蝶の耳にも入った。美濃の父が討たれた後で彼女も辛い思いをしていた頃である。だからこそ、信長も愛妾を側室として清洲に上げることなく、半ば公然の秘密として隠したのかもしれない。そのことについて帰蝶は一言も信長に抗議しなかった。そして、吉乃が男児を出産したときにも表には何の言も現さなかった。しかし、その頃から帰蝶は体調を崩すようになった。吉乃のことが影響していないはずはない。それは信長も分かっていた。

「生駒のこと、気に病んでおったんか」と信長は尋ねる。
「そうかもしれませぬし、違うかもしれませぬ。生駒どのはこの城に入らず過ごされておりますので、気に病んでも詮なきこと。何より、お屋形さまに男子をあげてくださったのには、心からお礼を申し上げたく思うております。私にはできぬことでしたゆえ」
 信長はうなだれる。
 帰蝶が子をなさないのを責めたことはない。まだ若い夫婦なので慌てる必要もないと考えていたし、帰蝶は美濃の姫らしく利発で興味深い人だったからだ。しかし口に出さないだけで、信長の子を孕まないことを帰蝶は深く思い悩んでいたのだった。それを今さら信長がどう慰めようが、事態は変わらない。
 二人の道はどこかで分かれてしまったのだ。

「美濃に行く当てはあるのか」と信長が問う。
「ええ、ずっと懇意にしている寺の住持さまが好きなだけ滞在してよいとおっしゃってくださったの」
「ああ、それならよいが。義兄殿からの誘いか」
 その質問は非常に重要なものだった。帰蝶はそれが分かっているので少し間を開けて答える。
「いいえ、兄とは一切文のやりとりをしておりませぬ。斎藤道三の娘としてではなく、身を隠して赴きまする。そう、あなたさまはきっとこれから美濃に攻め入るでしょうから、それが首尾よく行きましたら、私に稲葉山城をくださいませ」
 帰蝶の言葉を聞いて、思わず信長は笑いだした。笑いだしたのだが、その目が潤んでいる。
「帰蝶はまこと、比類なき女だで。聡いことこの上なく、よう道理をわきまえとる。帰蝶が男ならば、わしなぞ容易く倒せたでや」
「まあ、女でもできるかもしれませぬ」と帰蝶も笑う。
「かようになったこと、まこと済まぬ。稲葉山城を手に入れた際には、かならず帰蝶を城主に迎えるで」
「それでは、約束です」と帰蝶は微笑んで言う。

 そして二人は夫婦を終わらせたのである。

 帰蝶の言うとおり、信長の次の攻撃目標は美濃になるだろう。そしていつか、長良川の清流のほど近くに建つ稲葉山城を仰いで思い浮かべるのだ。

 最初の妻の面影を。

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