16世紀のオデュッセイア

尾方佐羽

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第11章 ふたりのルイスと魔王2

お屋形は面構えが変わっとるで 1561~2 尾張と美濃の川沿い

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〈織田信長、斎藤龍興、前田又左衛門〉

 さて、小牧山に城と城下町を築いていた織田信長だが、専念していたわけではない。この城が「美濃を狙う拠点」としてのみで築かれたわけではないと書いたが、もちろん主たる目的はそれである。
 美濃も紆余曲折に見舞われていた。斎藤道三が長子の義龍にその座を追われ敗死して以降はぐらぐらと揺れた。義龍は美濃一国から領土拡大を期していたが果たせなかった。道三没後わずか5年、永禄4年(1561)に病に倒れ没した。父を追い落とすのに家臣らも結託したが、戦の世とはいえ父を討つという行為に人心が寄ってこなかったということもあるかもしれない。
 美濃は道三の末子、斎藤龍興が継ぐこととなったがまだ若く、美濃の外に進攻するという手段は取れなかった。その前に攻め込まれたからである。隣接する国、尾張の織田信長だけではなく、北近江の浅井長政も同様である。
 この辺りの争奪戦には相通じるひとつの意図がある。
 越中からの街道は、美濃を通り尾張に至る。
 越前からの街道は、近江を通り京に至る。
 尾張から京に行くには美濃を通り、伊勢、伊賀、近江を越えてゆく。
 道である。
 ただ近隣の国を攻めるというだけではなく、道に沿って領土を広げていき、京に至るという地図がこの地域の領主の頭の中にできていたのである。じきに、越前もその輪の中に入ってくる。

 さて、美濃の話である。
 代を継いだばかりの斎藤義龍は早々に織田信長と対峙しなければならなかった。永禄4年(1561)5月13日のことで、油断も隙もないというのはこのことであろう。織田信長は木曽川・飛騨川(長良川)を越えてきた。
「お屋形さま、敵は川を越え勝村に陣を構えておりゃあす。ここは、川向かいに軍勢を差し向けるべき」
 家臣の勧めに応じ、美濃勢は森辺(森部、現在の安八町、長良川と木曽川に挟まれた土地)に兵を構えた。そこに、信長の軍勢が一気に攻め込んできた。激しい鑓の打ち合いになる。しかし勝敗はすぐに決した。大将格であった長井甲斐守、日比野清実(きよざね)をはじめ、170人が討ち取られる。
 ここで活躍した人を一人紹介しないわけにはいかない。美濃勢の中心で大鑓をぶん回して敵をなぎ払っていた男である。
 実はこの男、信長には無断で戦闘に加わっている。「無断で」というのにはわけがある。この2年ほど前、信長の小姓だった拾阿弥をささいなことで斬り捨てて出奔、以降信長から出仕を禁止されていたからだ。
 通称「鑓の又左」と呼ばれる前田又左衛門(利家)である。
 日比野清実の家臣で足立六兵衛という男がいた。屈強な体躯、抜きん出た鑓の使い手である。その男が「鑓の又左」と対峙したのである。お互いに好敵手と認めての決闘ともいえる。激しい交戦のすえ、相手を倒したのは前田又左衛門だった。戦闘後、他にも取った首をぶら下げて信長の面前に出た又左衛門は、どかっと座り深々と頭を下げた。帰参は前にも一度しくじっているし、勝手に戦に出たことも詫びを入れなければならなかった。
「帰参を赦す」

 前田又左衛門は信長から以前より多い450貫文の扶持を与えられ、ようやく帰参が叶った。

 美濃攻めは間髪入れず続けられた。一気に稲葉山城(岐阜市)まで迫る勢いであろうかと思わせる。斎藤義興は稲葉山城(岐阜城)を出立し十四条という村(現在の岐阜県本巣郡)に大軍を駐留させる。信長勢は対岸の洲の俣に砦を築く。そして23日朝から戦闘が始まった。双方の足軽軍が敵と刃を合わせる。当初は数に勝る美濃勢が優勢で、信長の足軽勢はいったん下がり、美濃勢は北軽海(本巣郡)まで歩を進めたが、信長勢は態勢を立て直し、再度の戦闘になった。それは夜まで続く。信長の直臣らがここで活躍する。池田恒興と佐々成政が美濃方の重臣、稲葉又右衛門を討ち取ったのをはじめ情況は信長勢の圧倒的な優勢となった。これで意気をくじかれた美濃勢はほうほうのていで四散していった。
 一昼夜続いた戦闘は、信長勢の勝利で終わった。
 信長勢は強い。
 武勇に秀でた側近を黒母衣衆(くろほろしゅう)、赤母衣衆(あかほろしゅう)という近衛隊に編成し、彼らが馬廻衆・小姓の取りまとめ役にもなったと思われる。定員は常時十人で後に加わる者もいた。もちろん戦で討ち死にすれば欠員になる。
 後の史料では以下のような布陣であったと記されている。※

〈黒母衣衆〉
河尻与兵衛
後中川八郎右衛門と云
織田駿河守
後陸奥守ト云
佐々内蔵助
後津田隼人正と云
織田左馬允
毛利新助
平出久左衛門
伊藤武兵衛
水野帯刀
松岡九郎次郎
生駒正ノ助
・後に入る
蜂屋兵庫
野々村三十郎

〈赤母衣衆〉
後羽柴筑前其後加賀大納言と云
前田又左衛門
浅井新八
津田隼人正弟後木下雅楽助と云
織田薩摩守
武兵衛弟
伊藤清蔵
岩室長門守
山口飛騨守
加賀大納言舎弟後藤右衛門と云
佐脇藤八
毛利河内守
飯尾茂助
長谷川橋助
・後に入る
福富平左衛門
後原田備中守と云
塙九郎左衛門
渥美刑部丞
後刑部卿法印と云
金森五郎八
猪子次左衛門
織田越前守
加藤弥三郎

 これは後の天正期と思われる記録だが、信長が強固な軍事態勢を築く礎となったものなので引用する。他国でも同様の制度を取った例があるかもしれないが、この母衣衆の中には後に自身の軍勢を指揮して戦うようになる者もいる。
 この容赦ない敗戦は斎藤義興にとって、美濃の今後のありようを考える機会になったようである。尾張の織田信長は敵の筆頭だが、隣り合う国々とすべて戦うようなことになったらあっという間に美濃は食われてしまうだろう。二つの戦闘では武勇に秀でた家臣を何人も失ってしまった。いくら頭数がいても、勝つ戦にはならない。
 勝たなければ生き残れないのか。
 彼は悔しさに唇を噛みながら、それでも考え始めた。

 美濃を睨むように築かれた小牧山城はそれ自体が示威的なものであった。美濃攻めと小牧山城築城を経て、信長に攻め込まれるのを恐れた近隣於久地城(おぐちじょう、愛知県丹羽郡大口町)の主は城を放棄して犬山城に逃げ込んでしまった。
 尾張の反信長勢力がいなくなったわけではない。小牧山城はそのような動きに釘を刺す役目も果たしていたのである。

 さて、美濃攻めのあとにいったん戻る。
 帰参なった前田又左衛門はいったん故郷の荒子(名古屋市)に戻った。

 2年の浮き草暮らしがようやく終わることを父の墓前に報告しに向かった又左衛門は、まず自身の不孝を亡き父に詫びた。早くから信長の小姓として上がり、主君と同様に「かぶきもの」として辺りを意気がって徘徊していたこともあった。決して、父親が自慢したくなるような息子ではなかったのである。それに加えて不行跡による仕官禁止である。その間に父親は亡くなった。又左衛門にとっては、この日の姿を真っ先に報告しなければならない人だったのである。
「これからは、お屋形さまの力となり、よう務めるでよう。どうか、見守ってくれまい」

 初夏の陽射しのまぶしさに、又左衛門は目を細める。
「しかし、わしも放浪して少しばかり人として真っ当になれたような気がするが、お屋形さまの面構えも前とは変わっとったでなあ。放浪せんでああなれるとはやはり器の違いか……まあええ。立派な城とは言わんが、わしもいつか親父どのに立派な墓を建ててやるでよう」

 そうつぶやくと、手ぶらの又左衛門はひなたの道をゆっくりと歩いていった。


 前田利春(前田利家の父)夫妻の墓所は石川県七尾市の長齢寺にある。

※出典
黒母衣衆・赤母衣衆の名は下記より引用しました。
http://www1.clovernet.ne.jp/kurohoro/his/oda/horos/
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