16世紀のオデュッセイア

尾方佐羽

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第11章 ふたりのルイスと魔王2

改元のない甲子の年 1564年 京

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〈雪沙、(太田)又助、(佐々)孫介、策彦周良、足利義輝、三好長慶〉

 京に滞在している雪沙の一行である。

 二日の間、雪沙は策彦周良とずいぶん長く話し込んでいた。中身を伴の二人は知らない。その間はお役放免となり、京の町を闊歩し人にあれこれ噂話を聞いて回っていた。と言っても、話しているのは年配の又助の方で、孫介はそれに付き従っている体である。しばらくするとそれにも飽きて、ぶらぶらと辺りを歩いたりもする。一回りして戻るとまだ又助は話していて、「腹が減ったので」と急かす羽目になる。
「京のお人はじっくり腰を据えんと、話の芯が出てこんでいかんがや。貴殿もお試しあれ」と又助は暑くてまくった袖をさらにたくし上げた。そしていたずらっぽい笑顔を見せる。
 孫介の腹がたいへん勇敢にも牡牛のいななきかというほどの音を立てたからである。

 町は表向き、改元の話題でもちきりだった。
 この年、永禄七年(1564)の干支は甲子(きのえね、かっし)で平安時代以降、改元することが通例となっている。中国伝来の説に辛酉と甲子の年には政変が起こるというのがあり、それに先んじて改元するのだ。厄払いの行事とも言えるが、特に甲子の改元が途絶えたことはなかった。
 しかしこの年は「改元がない」という話が広まり、異例の事態だと噂になっていたのである。
 人々が大っぴらに語ることがないが、その内実は十三代将軍足利義輝と畿内の有力者三好長慶のつばぜり合いで、主体であるはずの朝廷はそれに難渋していたのである。なぜ両者の対立が改元に絡むのかというと、三好長慶が朝廷に改元を申し入れたからである。三好は将軍に付く立場であるので、正式に将軍の名代として指名されたのならともかく、それはない。まったくの越権行為だった。
 改元は確かに重要事だが、三好の言を入れてしまったら義輝の面目は丸つぶれである。朝廷は三好の進言を黙殺することとし改元を取り止め、返答もしなかった。あからさまに断る回答にしなかったのは、三好の勢力をあまり刺激したくなかったのだろう。
 両者の対立が一触即発の状態でもあった。三好氏の力が強いともいえるし、将軍の権威が低くなったともいえる。

 応仁の乱か、さらに遡って南北朝の争乱か、語り起こせばきりがないのだが、少なくとも当代の将軍義輝は細川晴元、続いて細川の家臣で畿内の三好長慶との勢力争いに明け暮れて過ごしてきた。その間で居場所を転々としたことも一度や二度ではない。
 特に、全国各地から将軍を守護するという諸将が京に次々と訪れるようになると、三好の態度は硬化し大きな火種になった。
 京の人々の本当の心配はじきに大きな戦が起こらないかということだった。それが甲子の年に改元がなされないことと相まって不穏な空気を醸し出していたのである。


「危ういな」と又助はつぶやいた。
「甲子の改元がなされないことであろうか」と孫介は問う。
「まあ、それに至るいきさつも含めてのこと」
「うむ、何やら分かるような気もする」と孫介はあごを撫でながら同意してみせる。
「まあ、せっかく雪沙さまが下さった数刻だで、しかとお屋形さまにお伝えできるようにせんとな」
 二人は傾いてきた太陽の光に向かってゆっくりと歩いて嵯峨野の宿所に戻っていった。

 翌朝は出発である。雪沙は馬に乗るので早く進むことができそうだ。それでも二日はかけた方がよいだろう。又助と孫介は雪沙が疲れているのではないかと感じた。策彦周良と久々に再会できたことで大きな喜びを感じていたのだろうが、旅は身体に負担をかける。もう九十になろうという高齢だから疲れが出ているのは間違いない。
 去り際、策彦周良は一行の見送りに出てきたが、雪沙と見つめ会うだけでしばらく何も言わなかった。
 それから、ぽつりとつぶやいた。
「あなたの内は調和に満ちていますよ、雪沙さま、いえ……チェーザレ・ボルジアさま」
 雪沙は微笑んでうなずくと、策彦に会釈をして馬に乗った。
 又助と孫介は何度か振り返る。
 策彦はずっとそこに立って見送っていた。
 雪沙はといえば、一度も振り返らなかった。
 その瞳にわずかに光るものがあることは誰も気づかなかった。

 京から堺へはまっすぐに南下し、山の麓の平坦な道を羽曳野の方へひたすら下っていくことになる。距離は十五里(約60km)ほど、他にも海寄りに南下する道はあるが、多少山を越えなければならないので、その道を選んだのである。

「お屋形にはよい文が書けそうか」と雪沙が問う。
「はい。昨晩も大分筆が進みました。時間がたっぷりありましたで」と又助が言う。
「わしはその横でぐっすり寝入ってしまいましたが」と孫介は渋い顔をする。
 雪沙は笑う。
「沈黙も睡眠も人に必要なものだ。うまく使えばいい。いずれにしても京のこと、強い手を打たないとじきに混乱に陥るだろう。お屋形も出てくるつもりがあるだろうから、時に適した行動をとるのが何よりも大事だ」
「雪沙さまも聞かれましたか」と又助がいう。
「うむ、大まかには」
「雪沙さまは洋の東西を問わず、見識の広い方にございます。ぜひともこたびの京の状態について思うところをお知らせください」と孫介は尋ねてみた。
 率直で裏表のない人だと雪沙は思う。

「孫介どの、人の欲や感情というのはたいてい単純なものだ。それが絡み合うと醜悪で始末に負えない代物になる。そこにさらに欲や感情が絡み付く。私が感じるのはそのようなことで、世界のどこでも見られるありふれた事象だ。つかみどころのない話だったか。もう少し詳しくいうなら、堺に着いたら鉄砲のさらなる調達について懇ろに頼んでみるといいということか……」

「常に冷静に状況を見て、すぐ行動に移せるようにするというお話でしょうか」

 孫介の回答に雪沙は微笑み、又助は目を丸くする。
「孫介どの、堺でも仕事がでけたでえ」と又助がパン、パンと孫介の肩を叩いた。

 三人は南へ下る道を語りながら進んでいく。
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