16世紀のオデュッセイア

尾方佐羽

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第11章 ふたりのルイスと魔王2

高野聖と老婆の握り飯 1564年 宇治辺り

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〈雪沙、又助、孫介、老婆〉

 雪沙の一行は山を脇に見る平坦な道を進んでいた。宇治近辺を西に折れ、枚方方面に向かう道である。往来に人は多いが、僧衣をまとった姿が目立つ。一人だったり、集団だったりするが、同じ方に向かっている。
「高野聖(こうやひじり)ですな」と又助がいう。
「高野山といえば、紀州の大きな寺院のことか」と雪沙が尋ねる。
 そこで又助が説明を始める。
 仏教にもいろいろな宗派があり、比叡山は天台宗、京の天龍寺、大徳寺は臨済宗、紀州の高野山は真言宗とそれぞれ成り立ちや開祖が異なる。また、先頃三河で起こった一向一揆の一向宗は浄土宗の一派、他にも日蓮宗などがある。おおまかにいえば、貴族や武家に信仰される宗派と民衆に信仰される宗派があるーーなどである。

「私たちが初めに話した薩摩の高僧・忍室は確か曹洞宗だった。あれも臨済宗と同じ、禅の教えを尊ぶのだったな」と雪沙が回想する。
「武家では禅の教えが重んじられますな。浄土宗や浄土真宗、日蓮宗などは衆生の救済や世直しを説くところから興っておりますので、民の信心が篤い。ただ、釈尊から始まったという点では同じ仏教でございます」

 紀州高野山は空海が開いた寺院があり、真言宗(密教)の本拠地で修行の場でもある。その規模は出入りも多いため正確に分からないが、数百では済まないのではないか。そこに至るのは山をいくつも越えなければならないため、おいそれと行ける場所ではない。それも超然と存在している理由だろう。また仏教だけではなく、山岳信仰の修験者にとっても重要な場所であるーー云々。

「そうか、修行の地だからあれだけ僧形の者が集まるのか」と雪沙はうなずいている。
「ただ、中には怪しい者もそれなりにいるようです。修験者はいわゆる山伏のなりをすれば資質を問われることもないですし、敗軍の兵やならず者が転じる例も少なくはない」と孫介が補足する。

 たまに出くわしてしまう果心居士もその口だろうと雪沙は思う。異国の呪術を仕込んだ妖しい幻術使いだ。ただし雪沙は騙されなかった。

 異端というのはあのような人間だと当の異端審問所に教えてやりたいものだ。今頃どこかの太守に取り入っているのだろうか。あのような者がうじゃうじゃといるなら厄介だが、インドで会ったのは果心だけだったし、他に噂も聞かなかったから大丈夫なのだろう。
 もっとも、今もいないという保証はない。

 インドは今、どうなっているのだろうか。
 あの国は大きいので、すべてをポルトガルが占領するのは難しいと思うが、時の力はあなどれない。
 そうだ、私をこれほど老いさせてしまうのだから。

 雪沙が思案している様子を見て、又助がいう。
「ただし、いくら怪しい者がいようと、ここはわが国でも有数の聖地にございます。深い深い山や滝に南端の海、伊勢のお社もあります。帝もたびたび行幸されるほどですので」
「聖地……」と雪沙は遠い目をする。

 往来には笠を被り杖をついて歩く老婆がいた。笠の下で顔は分からないが、長い白髪をひとつに束ねてゆっくり、ゆっくりと歩いている。
 雪沙はドキリとして、彼女を見守る。
 ゆっくり、ゆっくりと歩いているが足取りはしっかりしている。そのうち雪沙の視線に気がついたのか、笠を少し上げて近寄ってきた。
「お坊さま、暑くて難儀ですのにお疲れさまですなあ。これ、少しですが召し上がれ」
 そういって雪沙に微笑み、竹皮の包みを孫介に手渡した。握り飯のようだった。
「あなたが食されるものでは」と雪沙が尋ねる。
「いえいえ、ちょっと使いに出たところで、天気がええから外でいただこうと思っただけで。うちに帰れば他にもあるのですんや」
 一行はありがたく厚意を受け取って、休憩を取ろうと木陰に向かった。

 雪沙はずっと微笑んでいた。
 孫介が包みを開けると、大きめの握り飯が三つ入っている。一同はごくりと唾を飲む。
「うわあ、これはうまそうだ」
「ありがてえこと、ありがてえこと。さ、さ、雪沙さま、お取りくだせえ」と又助がすすめる。
「私はあまり食べられないのだ。二人で食べたらよい」と雪沙はいう。それを聞いた又助は断固とした口調になる。
「分かっとります。雪沙さまは道中進むにつれ、どんどん食が細くなられました。お疲れなのです。それは自然なことでございます。できるだけ休み休み行きますし、堺はもうすぐにございます。ひとくちずつ、どれほどゆっくりでも構いませんで、とにかく召し上がってちょうでえませ」
 雪沙は微笑んでいる。
 そして握り飯を手にすると、一口かじった。
「うまい、うまいな」
 少しづつ食する雪沙を見て、又助も孫介もほっとする。結局全部は食べられなかったが、雪沙はそれをまた竹皮の包みに戻して、二人を見た。
「またちょっと、昔話を聞いてもらえるだろうか」

 雪沙が切り出したのは輝かしい英雄譚などではなかった。
 彼がまだ若かった頃。
 栄光に向けてめざましい進軍をしているさなか、彼と父親は病に倒れ、父親はほどなく天に召された。三日ごと、四日ごとの熱(マラリア)だったといわれる。彼も長い間寝込まざるを得なかったのだが、その少しの間に全てが変わった。彼は父親の政敵にたばかられ、ナポリに幽閉され、しまいにはスペインへと追放されたのだ。
 彼は武勇を誇った人だったので、逃げ出せないよう厳重な監視のもと、極度に孤立した環境に置かれた。極度に孤立した、とは小さな窓がひとつしかない高い塔の天辺という場所である。足場になるようなものもないし、飛び降りれば石に叩きつけられ、生きてはいられないだろう。普通ならここで精神が参ってしまうところだ。しかし、彼は強靭だった。時折やってくる鷹を伴にして、ひたすら時を待ったのだ。
 人と離された孤独と、先の知れない不安は敵のうちに入らなかった。

 彼は何度か場を移されたが、どこもそのような場所だった。しかし、ついに脱出に手を貸そうという人物が現れたのだ。ただし、高い脱出に必要な綱が手渡され、下で補助する人を潜ませるという危険極まりない手段しか提供されなかった。

 脱出は辛うじて成功した。ただ、彼の従者は石に叩きつけられてこと切れ、彼自身も腕を折る重傷を追った。その状態で手当てもろくに受けられず、手を貸した人物(ペナヴェンテ伯という)の部下に支えられながら、辛いつらい冬の逃避行が始まった。すでにスペイン王フェルナンドからは追っ手が出されている。目立たぬように、名も偽って一行は進む。
 義兄の国であるナヴァーラへ生きてたどり着く。それだけを繰り返して一行はひたすら北東へ進んだ。

 逃避行が始まったばかりの頃、一行は十字路で盲目の老婆と出会った。その老婆が石につまづいて転んだので、彼は痛む身体をおして手を貸した。盲目の老婆にはそれも見えない。ただ、丁寧に礼をいうのだった。十字路の一方はナヴァーラの方へ、向かいの一方はキリスト教の聖地サンティアゴ・デ・コンポステーラに向かって伸びていた。老婆は巡礼だった。

「ああ、お手をわずらわせましたね、シニョール。もう目がほとんど見えないのですよ。何とか方向だけは分かりますから」
「どちらへ? シニョーラ」

「サンティアゴ・デ・コンポステーラへ」

「あなたは、一人で? 」
 老婆はうなずいた。立ち上がってゆっくりとパン、パンと服をはたいている。そしてゆっくりと言った。
「人生はすべて……巡礼の旅ですよ、シニョール。だから一人で行くのでしょう。寂しくはありません。長く苦しい旅であればあるほど、誰かが関わってくれます。あなたのように」

 老婆の言葉を繰り返しながら、雪沙はふっと遠い目になった。

「なるほど、巡礼の道で出会った老婆とは……まことに奇遇ですな」と又助が感じ入っている。
「それがわしの母でしたら、おぶわずにはいられません」と孫介は力を込める。

 雪沙はまだ微笑んだままだ。
「私ももう人に手を借りなければ自由に動くこともできなくなった。それでも巡礼のような旅が続けられる。まことにありがたいことだ」

 いつもの雪沙とはいささか違う趣である。
 狐につままれたような気分になって、伴の二人はしばらく何とも言葉を発することができなかった。
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