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第11章 ふたりのルイスと魔王2
九州から出られるのだろうか 1564年 九州
しおりを挟む〈ルイス・デ・アルメイダ、ルイス・フロイス〉
いきなりだが、発問から始めよう。
平戸(長崎)から京都に行くにはどのような手段を取ったらいいだろうか。空路を考慮に入れなければ、まず佐世保に出て博多に向かい、関門海峡を越えて山口、広島、岡山、兵庫、大阪と進むだろうと私たちは考える。
しかし、16世紀には車も鉄道もない。街道があるので馬を何頭か使って行くことも考えられるが、馬に向いていない箇所もあるだろう。そうすると歩くしかない。上に書いた道ならば鉄道の専用軌道で七五〇kmある。それだけを歩くのに何日かかるだろうか。一日十里(約四〇km)まっしぐらに歩くとしても十九日かかる。
ただ、戦が絶えないこの時期に、勝手も知らずに歩いていったらどこで流れ弾、流れ矢、石つぶてに遭うか分からない。戦がなければ安全か。いや、野盗に身ぐるみ剥がされて命を奪われるのは珍しいことではない。敗軍の兵が行き場をなくし身を落としてしまう例も多かった。勝者がいるなら敗者もいる。治安が悪い場所が増えるのも道理だった。
ただ、この時代には船があった。
特に瀬戸内海は船の往来がいにしえよりたいへん多く、実質的に海を治めている勢力もあった。したがって、西国から京に向かうには船を使うのが一般的だった。
しかし、船には難点もある。
平戸で落ち合って京に赴くルイス・デ・アルメイダとルイス・フロイスも同じであった。そして彼らはこの時代の旅の苦味とでもいうものを味わうことになるのだ。
さて前回も、アルメイダの活動をフロイスが聞き取っている話を書いたが、そのきっかけはアルメイダが平戸へ向かう間の話を聞いたからだった。少し前後するが、その場面を見てみよう。
旅の指示は1564年(永禄七)の夏には出ていた。ただ、それですぐに出発というわけにはいかない。アルメイダがフロイスのいる平戸に到着するまでにも一ヶ月待たなければならなかった。
「九州の宣教師」の旅は、派遣されていた豊後府内(現在の大分市)から起算するが、信徒になった人々に会ったり、仏教徒が待ち構えているという噂を聞けば手前で待機を余儀なくされたりと、一筋縄ではいかないものだったのだ。とにかく、彼は博多近郊の姪浜で船を待ちつつ宣教活動にいそしんだ。一週間船を待った後、唐津近くの名護屋へと至り、ここでも人々から温かく迎えられた。
ちなみに、豊臣秀吉がこの地に城を築くのは三〇年ほど後の話になる。
いわば、道行きすべてが彼の活動の場で、ただ通りすぎるということがなかったわけである。平戸へ行くという目的がなければ、彼は数ヶ月かかっても移動を終えられなかったかもしれない。平戸にいたってもいったんファン・フェルナンデス修士のいる度島に渡って、ようやくフロイスのところにたどり着くという行程だった。
フロイスとゆっくり語れるのはそれからになるが、フロイスはアルメイダの行程を聞きながら懸命に覚え書きを起こし、一区切りつくとほうと息を吐いた。
「あなたは、このような活動を何年か……ずっと続けているのですね。記録するにはうってつけの題材ですが、網羅するのは至難の技だ。豊後から平戸に来る一ヶ月だけでも長い報告書になるでしょう。そう思われませんか」
フロイスの問いかけにアルメイダは苦笑する。
「そうですね、行った場所は覚えていますし、会った人も覚えています。ただ、いつだったかとか順番は覚えていられませんね。最初は診療の記録のように簡単に書き付けていましたが、あまりにも膨大すぎて、残しているのは土地と人ぐらいです。洗礼を授けた人はもちろん記録していますが……どうも人が私の物差しらしい」
フロイスはふと、インドのゴアで読んだフランシスコ・ザビエルの南インド宣教の記述を思い出した。ポルトガルの城塞の外に出て、南インドの現地語しか通じない村々を通訳一人を連れて精力的に回っていたという内容なのだが、その姿が思い浮かんだのである。眼前にいる人がまさにそれを実行している。ザビエルは文筆に長けていたので、その様子を自分で生き生きと書き起こすことができたが、アルメイダはそうではないようだ。
それならば、この人の活動はもっと書き起こしてゴアに、ローマに報せなければならない。
もともと筆達者なところを大いに買われていたフロイスが、日本宣教のすべてを書き起こそうと思った原点もここにあるのかもしれない。
書き物をする余裕があったのは、待ち時間があったからでもある。結局、地元の信徒や宣教師に見送られて平戸を出航したのは一一月だった。そして、彼らはまっすぐ京に向かったわけではない。この節の初めにわざわざ経路に関する問いを投げたのは、彼らの行程と比べてもらうためである。
彼らは平戸から口之津(島原半島)、それから高瀬(熊本)に向かった。口之津には日本の宣教責任者のトーレス司祭が滞在しているので、あいさつをしてからということになるのだろうが、地理的には南下していることになる。それには理由があった。
高瀬から豊後まで彼らは陸路を取ったのである。九州の山を横切る道のりである。平戸から博多に出て関門海峡に進むわけにはいかなかったのだろうか。潮流が合っていなかったのだろうか。海路ではなく陸路を取るにしても、アルメイダはそのように平戸まで来たのだから、よく分かっているはずである。
同じ道はすぐに通らないということかもしれないが。
なぜこのようなことを口を酸っぱくして述べるかというと、季節がもう冬になっていたからだ。冬に九州の高峰が連なる山あいを行くのがどのようなものか、避ける方がよいのではないかーーということである。この道は最低で4日間かかると言われていた。
アルメイダとフロイスはそこを歩いていく。
フロイスはこの京行きの話を仔細に残しているが、豊後までの道のことも記している。
「寒さはたいそう厳しく、道は困難であった。すなわち、たいそう険しい山を越えていく道ででこぼこであった。その頃降っていた豪雨、降雪のために道はいっそう厄介であった。その上、この国の宿はきわめて貧しく、そこでは万事に事欠いた。……府内から9レグア(およそ45km、実際の距離は約100km)離れた朽網(くたみ)という所に着いて、ここで一夜泊まった……」
朽網に立ち寄ったということは、久留米(福岡)を通って福岡県側から南下して府内に着いたということになるが、迂回し過ぎているようにも思う。朽網には信仰篤い信徒がいるので迂回したのかもしれない。また、フロイスはこの区間を1日で進んだとも書いているが、100kmを1日で進むというのはなかなか難しい。もっと南の日田を経由する方が合理的だが、その辺りは書いていることに頼るしかない。
いずれにしてもここでフロイスの書いた行程を検証するのが主眼ではない。久留米経由でも九州の山の険しいところを進んでいったということだけ理解すればよいのかもしれない。
府内はもともとキリスト教宣教の本拠地であったので、在住している宣教師たちもいた。メルキオール・デ・フィゲレイドやジョヴァンニ・バッティスタ司祭である。二人は在地の信徒や宣教師らに温かく迎えられ、七日間滞在した。それから、国主の大友義鎮(宗麟)がいる臼杵(うすき)に向かった。二人が京に向かうことを報告するためである。義鎮は府内病院の設立を許可した人でもあるので、たいへんな恩義があっただろう。義鎮は懐かしいアルメイダとの再会を喜び、京の大身(将軍の伝手か知古の公卿と思われる)宛に推薦状を書いてくれた。
そこから府内に戻り、さあ出航と話を進めたいのだがそうは問屋が下ろさない。今度は風向きが悪くなってきた。彼らは足留めをくらってしまうのだ。
さて、彼らは九州から出られるのだろうか。
アルメイダは平戸から豊後までの旅で寒さに身を蝕まれはじめていた。
本格的な冬はこれから、永禄七年もあっという間に暮れようとしていた。
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