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第11章 ふたりのルイスと魔王2
モニカになる 1565年 堺
しおりを挟む〈小桃、雪沙、アウグスティヌス、モニカ、ルイス・デ・アルメイダ、日比屋了珪〉
小桃は出発前のアルメイダと一度話をしたいと様子をみていたが、なかなか静養時のようにはいかなかった。ガスパル・ヴィレラ司祭が来てからというもの、アルメイダはそちらにかかりきりになっていた。
しまいに小桃は二番煎じとまではいかないが、膳を運ぶといって雪沙のいる離れに赴き、あれやこれやこぼす。雪沙は苦笑いしつつも、小桃の話を聞くのだった。
「それならば、夜に私の部屋に来るように言っておこう。小桃さまはまことに熱心だから、じきに洗礼を受けるのだろう」
「はい、そのつもりです。父もそうするつもりですよって、反対もしいへんですやろ」と小桃はきっぱりと言う。
「懐かしい熱だ」と雪沙はつぶやく。
「懐かしい?どすか」と小桃は首を傾げる。
「小桃さま、あなたは自身の前にある壁を自身の意志で越えられないかと思っているだろう」
小桃は静かに顔を上げて、雪沙の目をまっすぐに見る。
「ええ、そうどすな……ただうちは何もかんも取り払いたいわけやおまへん。おなごが信仰のうちに一生をおくりたいいうんは、それほど難儀なのでしょうか」
雪沙は天井を見上げてしばらく考える。
「ひとりの女性の話をしようか」
「はい、ぜひ」と小桃はいずまいをただす。
雪沙は北アフリカのタガステに生まれた女性の話をはじめる。
彼女はキリスト教徒の家に生まれ育ち信仰を大事に暮らしてきたが、異教徒の男性パトリキウスに嫁ぐこととなった。そして子どもを3人産んだ。しかし、夫はことあるごとに暴力を振るい、他の女性にうつつを抜かしてもいた。夫の不実を嘆いた彼女はいったんは酒に溺れていくが、そこから立ち直る。以降彼女は信仰を固くし日々夫の回心を祈り続け息子の養育につとめた。
夫は40歳で先立ったが、妻の祈りが届きキリスト教に改心していた。
だが期待をかけていた長子アウグスティヌスが長じて放蕩に耽るようになり、キリスト教を肯定しない哲学に熱中し、深い仲になった女性と暮らすために家を出てしまう。彼女の嘆きは増すばかりだった。
それでも彼女は諦めなかった。息子のために絶えず祈り、「悔い改めなさい。神とともに生きなさい」と信仰を持つよう諭し続けた。しだいに息子も信仰についてまじめに考え始めるようになる。ついにはイタリアに赴くアウグスティヌスに付いていく。そこでアンブロジウス司教の導きを得て、深く回心し洗礼を受けるにいたった。
「まあ、とても強い女性」と小桃は目をパッと開く。雪沙は笑う。
「女性は強いものだと思うが。それで息子の方はキリスト教の教義や基盤をつくることに邁進するのだ。もう1300年近く前の人だが、カトリック教会では教父と言われているほどだ」
「へええ、すごいどすなあ。お母はんはそれからどないしはったんですやろか」
雪沙は小桃の問いに答える。
「彼女は息子の回心をひどく喜んだ。ともにローマに留まっていたが、その翌年にローマ近郊で亡くなった。これは言い伝えだが、母は息子に言ったそうだ。私の望みはすべてかなった。これより他にすることがあるだろうかと。その5日後に病を得て息を引き取った」
雪沙がそこまで話してふっと顔を向けると、小桃はポロポロと泣いていた。母親の献身に心を動かされたようすだった。雪沙は穏やかな声で諭すように言う。
「小桃さま、彼女は修道院に入るようなことはなかった。異教徒の家に嫁ぎ、夫と息子に泣かされつつも見事に彼らを変えたのだ。息子も聖人だが母親も聖女として今でも篤く崇敬を受けている。困難を越えたからこそ光に至ったということになろう。ここに滞在したフランシスコ・ザビエルも、これから去るアルメイダも同じだ。彼らは容易い道を歩いてはいない。あなたは壁を越えることに熱を注いでいるが、自分の与えられた場で信仰を全うすることもできるのだ。それだけは知っておくとよいのではないか」
小桃は涙を拭いながら、強くうなずいた。
「雪沙さまは、きりしたんのことをよう知ってはるんどすな。どこで学ばれはったんどすか」
雪沙はまた、ゆっくり天井を見上げてつぶやく。
「私はローマの中にある、バチカンというところで成長した。そこにはこういった話を書いた本が山ほどある」
まさか修士でもなく、司祭でもなく、司教でもなく、大司教でもない、枢機卿(すうきけい、すうききょう)だったことがあるとはいえない。教皇に次ぐ、多分に当世政治的意味合いの強い「枢機卿」という役を説明するのも厄介だし、その地位を返上したというのはもっと説明しづらい。バチカンにいたという、ひどく端的な事実しか彼には言えないのだった。
ただ、小桃にそれ以上の情報は必要なさそうだった。
「雪沙さま、そのお母はんのお名前は何とおっしゃいますのん」
あどけない娘の問いに、雪沙はにっこりして答える。
「モニカ」
「へえ、モニカ、モニカ……愛らしい名前」
しばらく小桃はその名前を繰り返していた。
いよいよアルメイダが堺を去る日が来る。
結局、小桃はアルメイダとほとんど話ができないまま、一家揃って宣教師一行を見送ることになった。雪沙は表には出てこないが、さきにアルメイダが暇ごいをした。それもなく、見送りもないのは日比屋了珪の妻である。もし、日比屋家にキリスト教の反対勢力を想定するとしたら、その最先鋒は彼女だった。了桂は「無理強いするようなものでもない」と商人らしい柔軟さを見せて、店の方に専念させるのだった。
アルメイダはきれいに洗濯された黒い修道衣に黒いマントを羽織って、来たときとはまるで別人のようだった。
だんだん日差しに温もりが感じられるようになってきた。まだ水は冷たいし、風が強ければ凍えそうなときもある。それでも近所の家で植えた梅がほころんできた。次は桃、桜……春はすぐそこまで来ている。
アルメイダは小桃と話をすることができなかったのを少し気にしているようだ。小桃の前にやってくると、「小桃さま、ゆっくりお話する時間もとれず、申し訳ありませんでした」と頭を下げる。
小桃はさっぱりした様子で、「いえ、うちはずいぶんお話をしていただきましたよって、また堺に戻られたときにお願いします。ほんま、おおきに」と微笑んだ。
アルメイダは小桃の様子が少し変わったことに気がついた。彼は微笑みを返し懐から木製のロザリオを取り出す。それを小桃に手渡した。
「アルメイダさまの大切なものやないんですのん、いただけまへん」と彼女は遠慮する。
「小桃さま、これは九州の信徒が作ってくれたものです。後生大事にしまいこんでおりましたが、本当に見事な出来です。信仰に生きたいというあなたの道を祝福します。どうぞ受け取ってください」
アルメイダの言葉に小桃は少し目を潤ませる。
「おおきに、おおきに、アルメイダさま。うちな、決めましてん」
「決めたのですか、何を……」とアルメイダはおずおずと聞き返す。
「うち、モニカさまになると決めましてん」
アルメイダは目を大きく見開いた。
きっぱりと言った小桃の背中に眩しい光が見えるような気がした。アルメイダはしばらく言葉をなくして、辺りに満ちている光に包まれたような心地になっていたが、ふと我に返って大きくうなずいた。
ヴィレラ司祭一行が去っていくと、日比屋家の一同は日常の仕事に戻っていく。小桃だけはしばらく彼らが去っていった道を見ていた。
あの雰囲気の中ではとても言えへんかったけれど、アルメイダさまの顔色はまた悪うなってる。ご自身はそのような素振りをしいへんかったけれど、顔色は決してごまかせへん。私はあの方が運ばれてきてから毎日、あの方のお顔の色を見てきた。ここ数日、ヴィレラさまと日がな出かけてきつうなってはるのや。どうか、どうか、アルメイダさまのお身体がこれ以上悪うなりませんように。
神さま……。
木のロザリオを握りしめて小桃は祈っていた。
微かな風がそよそよと吹いていた。
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