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第12章 スペードの女王と道化師
ルネッサンスの人
しおりを挟む一五四六年にエクサン・プロヴァンスを襲ったペスト禍は、皮肉にもミシェルの社会的立場を確立するのに大きく貢献した。確かにペストと戦うのは、それが完全な勝利を得られなくとも、騎士並みに勇敢な心がないとできないことではある。彼は地元の人が褒め称えるのを純粋に有難いことだと受け止めた。そして度々去らざるを得なかったプロヴァンスに落ち着こうと決めたのである。
一五四七年の晩秋に、彼はアンヌ・ポンサルドという女性と結婚し、サロン・ド・プロヴァンスに居を構えた。ミシェルの弟ベルトランの勧めによる。アンヌは未亡人だったが、公証人の娘であり持参金も十分に用意できた。申し分のない話だったが、ミシェルには腰を落ち着ける前にひとつだけ叶えたいことがあった。イタリア旅行である。
なぜイタリアなのかという点については様々な解釈ができるだろう。国としてひとつになっていない長靴の半島(イタリア)はフランスから見れば政治的には学ぶところが少なかったかもしれないが、学問や文化については素晴らしいとしか言いようがなかった。もちろん、本当に行きたかったのが周辺の別の国だったとしても、ほぼ神聖ローマ帝国領となっているので、気軽に行くわけにもいかなかった。
妻になるアンヌにイタリア行きを認めてもらう際に、ミシェルはこう説明した。
「人の病と戦っていると、薬草をはじめ植物の力に感嘆することがあるんだ。もちろん、アビニョンやモンペリエでも十分学んだのだけれど、土地の言い伝えや他の医師の見識にしばしば圧倒されたよ。言うまでもないが、イタリアは万事学ぶことの多い土地だ。文学も、音楽も、美術も、薬学もだ。きみも知っていると思うけれど、王妃さまの実家メディチ家は薬物商から身代を興したという。それはもう二百年も前のことなんだ」
アンナはふくれ顔でつぶやく。
「そうなの、でもあなたが長い間出かけてしまうのは、やっぱり嫌なの。淋しいし、いろいろ心配になってしまうわ。もうそんなに若くないし」
「おいおい、きみの方が心配だよ。でも約束するよ。帰ったらずっときみの側にいる」
アンナは納得したようにうなずく。
「本当に、約束よ」
「きみも約束して。ぼく以外の男と仲良くしないで」
「ええ、努力するわ」
「それと……ペスト患者が出たら、家に籠ってしばらく外には出ないで」
一五四八年、無事に新妻の許可を得てミシェルはイタリアに旅立った。ヴェネツィア、ジェノヴァ、サヴォーナなど主に半島の北部を回って、ミラノにも滞在している。妻に語った目的を違えることなく、医師として薬について見聞して回ったようだ。アントニオ・ヴィゲルティオという高名な薬剤師にも面会した。薔薇由来の緩下剤シロップを調剤・販売した人である。そのシロップは貴族の間でたいへんな人気商品となっていた。
この頃、専売特許というものがあったかは定かでないが、それに近い概念はあっただろうと思われる。それでも、ヴィゲルティオは訪ねてきたフランス人を無下に扱うようなことはしなかった。ペストの治療を行っていたというミシェルの行為への称賛も隠さず、寛大に自身の調剤方法を伝えた。当時はラテン語が学者の共通言語だったので、意志疎通に齟齬をきたすこともなかっただろう。話をしただけで、イタリアの薬剤師はミシェルの博覧強記ぶりを容易に知ることができたし、「ルネッサンスの人」だと感じただろう。
ルネッサンスとはどのようなものか、と定義するのはなかなか難しい。文化刷新運動だと見なすことが多いが、皆が集まって拳を振り上げるようなものではなかった。古代ギリシア、ローマの芸術に範を取ったとは言えるがそればかりではない。何か定義できるものがあるとすれば、それは「人」である。
この時代の傑出した人びとは何かと何かを兼ねていることが多い。ミケランジェロは彫刻・絵画から装飾・建築設計までしている。ミケランジェロの弟子だったジョルジョ・ヴァザーリは画家として師匠を超えることはなかったが、フィレンツェのいわゆる『ヴァザーリの回廊』を設計したほか、同時代の芸術家の生涯をまとめ『芸術家列伝』という書物にした。フィレンツェが共和制だった頃の官吏だったマキアヴェッリは政治学者であり、歴史家でもあった。有名な『君主論』をはじめ、『ディスコルシ(ローマ史論)』や『フィレンツェ史』などの大作を著している。
あのチェーザレ・ボルジアにしても枢機卿を返上して教皇軍司令官に転じた(聖職者と軍人ばかりはさすがに兼務できない)。
最も有名な人を挙げていなかった。
レオナルド・ダ・ヴィンチはその最たる人である。画家のみならず、建築設計や都市設計に携わったほか、数学、幾何学、天文学、植物学、動物学、土木工学、軍事技術、解剖学、航空力学、光学などについて膨大な手稿を書いている。
レオナルドの例を見ると、ルネッサンスを象徴する人は、開放と越境を常としていたように思う。そこには芸術とか科学といった区分けはない。
すべてが開かれていて、境目はない。
思考をあらゆる方向に飛ばし、縦横無尽に考える。
そして創っていく。
最も究極の形を表現するならば、そのようなことだろうか。
ただ、素養のない人が同じことをしようとしても上手くはいかない。ずば抜けた才能ーーという表現も陳腐だがーーそれがなければまず無理だろう。
一方でこの世紀の人文主義者たち、エラスムスやトマス・モアは国の境目を軽々と越えたという意味で、開放と越境の人である。彼らは絵を描いたり設計したりはしなかったが、社会の矛盾を冷静にとらえ風刺小説として書き起こした。その作品群はフランスでラブレーを奮起させ、のちのセルバンテスにも影響を与える。
話が逸れたので元に戻す。
ミシェルはヴェネツィアでもミラノでも、参考になる書物がないかと探して歩いた。これはと思うものを見つけると嬉々として手に入れる。帰路の荷物が重くなるだろうという算段はしていないようだ。子どもの頃から時祷書を借りて読むのがことのほか好きだったミシェルには天国にいるような時間だったかもしれない。
彼は時祷書が好きだった。
時祷書とは中世後期以降に流布した祈祷のための書物である。現代でいう暦や歳時記にあたる。聖人の日や1年の行事、祈祷の文言が記されており、美麗な絵の装丁や挿絵が添えられていた。ただ、貴族や裕福な人が個人で作らせるものだったので庶民にとっては見ることも難しかった。なのでミシェルも頻繁手に取ることはできなかった。
その代わり、この頃にはアルマナックという暦が流通しはじめていた。現代でいえば来年の占い本である。安価であったので庶民にも広く知られるようになっていた。
時祷書、アルマナック、四行詩の本が今後のミシェルにとって大きな鍵となっていく。
さて、薬と同じかそれ以上に、ミシェルはイタリアの食生活に大いに興味を持っていたようだ。旅でどのようなものを食べたかこと細かに書き付けていたし、類する書物も探していた。特にミラノで見つけた書物に記されていた貴族の晩餐のメニューに目が釘付けになっていた。
そこではありとあらゆるものが供されていた。アーモンドと砂糖のパン、野鳥の心臓、肝臓、胃、鹿のロースト、若い雄牛の頭、ゆでた皮つきの子牛、去勢した雄鶏、鳩、牛舌、雌豚のハム、レモンの実のソース、子山羊の丸焼きサクランボのソース、雉、キジバト、ウズラ、ヨシキリなどの野鳥、オリーブ、薔薇水と砂糖で煮た雄鶏、小豚、孔雀のロースト、マルメロのシナモン砂糖煮、西洋アザミ、ウイキョウやアーモンドとアニスとコリアンダーのボンボン……などなど。
ミシェルが想像できるようなものもあれば、目を丸くするものもあった。食事というのは奥深いものだと感心するばかりだった。
「これはなかなか有用な内容だ。みんな知りたいと思うかもしれない」
ミシェルにとっては、薬の調合も料理のレシピも同じだった。人の身体に入り、影響を与えるものである。もちろん、実地でもいろいろな料理に舌鼓を打ったことはいうまでもない。
なお、彼が感心していた貴族の献立はトリヴルツィオ家のもので、ミラノで有数の名家である。
またかつて、1487年から90年にかけてレオナルド・ダ・ヴィンチがこの地で書いた手稿がある。『トリヴルツィオ手稿』と呼ばれるそれは、一部散逸しているものの、現代ミラノのスフォルツァ城トリヴルツィーナ図書館に保管されている。ミシェルがそれを知っていたかは定かではないが、ルネッサンス人のかすかなつながりを感じられる言葉でもあるように思う。
これより後の清朝に生まれた満漢全席、18世紀フランスのサヴァランのような食へのこだわりというのはこの時代にすでにあった。その方面へ開放・越境するのもまた、ルネッサンス的であったといえるかもしれない。
いずれにしてもミシェルは大きな収穫を得て、約束通り妻のもとに帰っていった。以降はサロン・ド・プロヴァンスに腰を落ち着けて、妻や生まれてくる子どものために大車輪で働くようになる。第一には医者として。次いで占星術をはじめとする著述業に着手することになるのだ。
その中で生まれたのが、王妃カトリーヌも目にした『1553年の暦と占い』だったのである。占星術については、その歴史を語るだけでも説明に骨が折れるところなので、折々のくだりで一般的な内容について触れていきたいと思う。
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