16世紀のオデュッセイア

尾方佐羽

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第12章 スペードの女王と道化師

夫婦を構成しているもの

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 王妃カトリーヌが再び懐妊したことを知ると、夫のアンリ2世は喜び、妻の体調を気遣って頻繁に様子伺いにやって来る。1553年の年が明けると、王の指示で彼女の部屋の調度品が取り替えられ侍女の数も増やされた。
「毎年のように出産していますから、それほど気を使われなくともよろしいのに」とカトリーヌは夫に言う。
 アンリはカトリーヌのふっくらしたお腹にそっと触れる。
「次から次へと自分の子を産んでくれる女性に敬意を表して。慣れたのだろうが7回目ともなると身体に負担もかかっていると思う。くれぐれも大事にして安全に過ごしてほしい。あなたは王妃なのだから」
 カトリーヌはドレスの裾をつまんでお辞儀をする。それはどことなく型通りの儀式のようで、夫婦のそれとしてはぎこちないものだった。そのぎこちなさは長い間に芯まで染み付いてしまって、そうそう落とせなくなっていた。
「陛下、お伺いしたいことが」
「何かあったか」とアンリは問う。
「シエナへの派兵は続くのですか」
「ああ、そのつもりだ」と国王は答える。
「止めることはないのですか」
 アンリは目を天井に向けて、思案して答える。
「止める、というのはこちらの決定でということか。ちょっと違うな。シエナ共和国の主権をフィレンツェが脅かしているから、その独立を支援するために派兵しているんだ。フランスだけが派兵する、ということではない。指揮官はイタリアから迎えている」
「イッポーリト・デステ様ですね」
 アンリはうなずく。
「そうだ、アンナから耳にしたか。彼女はデステ家の出だからな」
 イッポーリト、という言葉の響きはカトリーヌに甘い感情と憧憬を抱かせる。結婚する前、愛した人の名であるから。しかし、それは一切表面には出ない。
「ええ、そうですわ。ただ、お伺いしたいのは、陛下はシエナが欲しいのかということです」
「うむ、イタリア半島に拠点を持つことは大切だ。それは先代の王から変わっていない。最も欲しいのはシエナではないが、フィレンツェ君主の、きみの分家筋の男(コジモ・ディ・メディチ)は筋金入りの軍人だ。ここでその勢いを削いでおかねば脅威になるのは間違いない。気に入らないか」
「いえ、仕方のないことかと思います。コジモにはコジモの野望や思惑があると存じます。それは征服による拡大を旨としておりますので、フランスに限らず、他とぶつかるのも厭わないでしょう」とカトリーヌは落ち着いて答える。
 アンリ2世はニコッと笑う。
「妃よ、おまえのその賢さは比類なきものだ。私がいなくとも、国王を十分に代行できるだろう」
「いえ、今の私のお務めは子を無事に産むことにございます」とカトリーヌは微笑んだ。

 彼女が産んだ子は1552年の時点で6人いる。フランソワ(1544年1月19日)、エリザベート(1545年4月2日)、クロード(1547年11月12日)、ルイ(1549年2月3日、夭逝)、シャルル(1550年6月27日)、アンリ(1551年9月19日)である。夭逝の子は残念だったが、子どもたちがどう成長するかというのは興味深いところだ。
 そして、次の子は春に生まれる予定となっている。
 カトリーヌはまだまだ子を産むつもりだ。

 この夫婦に熱烈な恋愛というのは存在しない。
 アンリにとってその対象は初めからディアンヌである。ただ、カトリーヌへの愛情がまったくないというわけではない。しばらく子に恵まれなかったのちに次々と子を産むようになった妻は王妃の役割を十分に果たしていると感じたし、時たま控えめに国政への意見を述べるのも実に的確だった。知性を備えた王妃はアンリにとって申し分ないパートナーだった。実際、王の不在中に国政について宰相と相談する場面もしばしば見られたのである。
 そうは見えないが、とうに中年の域に入っているディアンヌも立場をわきまえていて、自身が王妃に取って替わろうとは考えていなかった。愛情と贈り物があればそれでいいと考えている。感情的にはもっといろいろなものが渦巻いていたと想像できるが、表面上はそれでうまく回っている。

 カトリーヌの興味も、夫の愛情を一人占めすることから子の養育や国政の動向に変わってきている。そして、夫が今派兵しているシエナについて思いを馳せるのだった。

 フィレンツェの僭主の座を得たコジモ・ディ・メディチはシエナを手中にしようと狙っている。近縁のアレッサンドロの跡を継いだ彼は、フィレンツェの統治を足掛かりにイタリアに領地を広げようとしているのだ。
「コジモはこれまでメディチにいなかった型の男だ」とカトリーヌはかねてから感じていた。
 薬商、金融業と「商人」として名を上げてきたメディチの家の中で、コジモは名誉ある傭兵隊長、コンドッティアーレの血を受け継いでいた。
 コジモの父、ジョヴァンニは教皇の精鋭軍『黒隊』の隊長だった。それだけではない。ジョヴァンニの父親はメディチの傍流だが、母親のカテリーナ・スフォルツァは自ら剣を手に戦ったイタリアの女傑である。そして、スフォルツァ家はミラノの僭主でもあったコンドッティアーレの家系である。言い換えれば武家の最高峰にあたる家だろう。
 複数の家系がひとつの結婚で結びつき、子どもにその血を継ぐ例は多々ある。たいていは政略結婚になるが、コジモの祖父母のように自由恋愛の場合もある。いずれにしてもコジモはイタリア半島の名家ふたつの血を引いているのだ。

「コジモはきっと、自身をマルス(軍神)の化身だと思っているのね。あるいはマキアヴェッリが書いていたチェーザレ・ボルジアかしら。それはある意味正しいのかもしれないけれど、彼は戦争でひどい目に遭った子どもでなかったから……アンリや私とは違うようだわ」とカトリーヌはつぶやく。
 
 早くに両親を亡くしたカトリーヌがどのような子ども時代を送っていたのかはさきに書いたが(第8章に詳しい)、アンリにもそれに通ずる経験があった。



「王妃さまは体調もよろしいのですね。それは何よりです」
 侍女が軽い食事とワインを運んでくると、城の女主人はそれらがテーブルに綺麗に並べられるのを逐一確かめた。すべて整うと、彼女は国王を椅子に座らせ自身も席につく。
「この部屋もずいぶん明るいしつらえになった」とアンリは感心して眺めている。
「ええ、それは。陛下をお招きするためのお部屋ですもの。とびっきりのしつらえをいたしませんと」
 ディアンヌ・ド・ポワティエは時たま訪れる国王アンリ2世のために、与えられたシュノンソー城を綺麗に整えていた。それは調度品はじめ部屋のしつらえにとどまらない。城沿いに流れる川と向こう岸にアーチ型の橋を築かせ、庭園を造らせている。まだ完成していないが、完璧に刈られた芝生、植え込み、通路が美しい幾何学模様を成す美しく広大な庭園である。建造や手入れには多くの人の手と費用がかかっていて、すべては王の金庫から出ているのだった。「与えられた」といってもこのときは王の所有物である。なので道義的見地はともかく、王の金庫から費用が出るのは道理でもあった。
 いずれにしても、王は変わらずディアンヌを愛している。それはいつからかと問われたら、「子どもの頃から」と答えるだろう。

「皇太子さま、皇女さまの教育係にお暇をいただきましたので、最近は私も庭の手入れをよくしますのよ。いつこちらを追い出されるかと思っていましたから」とディアンヌがため息をついて言う。
「そんなわけはないだろう。教育係の件は、子もどんどん増えていくしあなたの手に負えないと考えたからだ」とアンリはすぐさま否定する。
「王妃さまのご意向もおありでしょう」
「それは否定しない。まあ、夫を取られた上に子どもまで取られたくないと思うのだろうな」とアンリは苦笑する。
「まあ、取るなんて!わたくし、そのようなことはしていませんわ。陛下がわたくしに飽きてしまわれないかといつも不安な気持ちで過ごしておりますのよ」
「そんなことはない。よく知っているくせに」とアンリはワインを飲み干す。

 アンリより20歳上のディアンヌはルイ・ド・プレゼという貴族の妻だったが、1533年に夫と死別した。それ以前から前国王フランソワ1世の宮廷に務めていた。小さいアンリにとっては侍女の一人に過ぎなかったのだが、それが劇的に変わるきっかけがあった。
 イタリア戦争における戦闘のひとつ、『パヴィアの戦い』(1525年)でフランスは神聖ローマ皇帝カール5世軍に大敗を喫した。あろうことか、フランソワ1世自身が捕らえられスペインに連行されてしまったのだ。国王が虜囚になってしまったのである。窮地に追い込まれたフランソワ1世だが、身代金の支払いと皇太子を人質とする条件で解放された(マドリッド条約)。
 しかし今度は皇太子のきょうだい二人が父親と交換でスペインに送られる。弟のアンリはこのときまだ7歳だった。国王の子として生まれたのに、敵国の捕虜として異国に送られるのである。場合によっては殺されるかもしれない。
 付き従う者は百を越えるほどいるが、それで安心できるはずはなかった。兄のフランソワは次期国王であるという自覚があるので屈辱感はより強かっただろう。アンリには不安ばかりがあった。

 引き渡しは1526年の春の盛りだった。
 場所はスペイン(旧ナヴァーラ)とフランスの国境にあるビダソア川だった。皇太子を送る宮廷の人びとの列が延々と国境に続いた。短い道のりではない。ブロアからトゥール、ポワティエ、ボルドーと進み、ピレネー山麓のビダソア川に至る。600kmほどの道のりだ。葬列のような一団は黙々と道を進んだ。
 ビダソア川に着くと、すでに対岸には皇太子二人とお付きを連れていく船が何艘も見えた。別れの余韻に浸る間もなく、淡々と引き渡しが始まる。皇太子のうち世継ぎであるフランソワの回りには人が取り囲み、
「どうかご無事で」、
「すぐに戻れます。お気を強くお持ちください」
などという声が聞こえる。しかし、次男のアンリの回りには人が集まらなかった。特に王や貴族にとって、長男と次男の扱いというのは天と地ほど変わるものである。アンリはそれまでも扱いの違いを見てきたので、「ここでもそうなのか。送られる子なのは同じなのに」と思いつつ、船に乗ろうとした。
 そのとき、見送る宮廷の侍女の列から一人の女性が飛び出し、幼いアンリを抱きしめた。
「お可哀想、お可哀想に。どうかご無事で……」
 そう言って、彼女はアンリにキスをした。

 アンリはそのことをずっと忘れなかった。
船の中でも忘れなかったし、マドリッドに付いてもずっと覚えていた。
 当初幽閉されたビラルバ城での生活はそれほど苦ではなかった。フランスから人が多く付き添ってきたし、スペイン人も丁重に扱ってくれた。しかし、父フランソワ1世とカール5世の間で身代金なりの条件が整わないまま時間は過ぎていく。じきにビラルバ城からビラルバンド城に皇太子二人の身柄は移される。そのとき、お付きの大半はビラルバ城に留め置かれた。2年ほど経つとさらに環境は悪くなった。お付きは一人だけ、そしてフランス語で話すことを禁止されたのだ。その後ビラルバンド城から二度城を移ったが環境はさらに悪く、窓もろくにない独房と変わらなくなった。
 余談だが、さきの章で虜囚の身になった人がふたり登場した。スペインで虜囚になったチェーザレ・ボルジアとカスタル・サンタンジェロの地下牢に入れられたミケーレ・ダ・コレーリアである。ミケーレは拷問にも屈せず真っ暗な地下牢で耐え抜きマキアヴェッリによって解放された。しかし、チェーザレの場合は転々と城を移され、解放されることはなかった。彼は決死の覚悟で塔から飛び降りて大ケガをし、ようやく逃げ延びたのだ。スペインのこのやり方が常套手段かは定かではないが、人を孤独に陥らせるという点では通じているように思う。

 この状況を見過ごしておけなかったのがフランソワ1世の母・ルイーズ・ド・サヴォワである。交渉の場を持とうとしない息子に代わって、カール5世の叔母であるマルグリット大公女と連絡を取り、和解の途を探ったのである。そこでは侃々諤々の議論となったが、結果和議が結ばれることとなった。両者がカンブレーで会見したことから、『カンブレー条約』あるいは『貴婦人の和約』と呼ばれる。これが1529年のことになるが、皇太子ふたりが故国に戻れたのはさらに後の1530年になってからだった。
 4年の人質生活は皇太子の、特にアンリの性格を変えてしまった。彼は陰鬱な表情が貼り付いたようになり、故国に戻っても容易に人に心を許さなくなった。彼のたったひとつの救いはディアンヌだった。異国の慣れない土地で、母国語を話すのも禁じられ、しまいには独房のような部屋に閉じ込められている間じゅう、アンリの心の支えはディアンヌだけだった。自身を心から心配し、抱擁とキスを与えてくれたのは彼女だった。それは母親の温もりであり男性の本能に転じていくものでもあった。アンリの中でディアンヌへの思慕の念は抑えきれないほど膨れ上がっていた。

 新たに教育係を命じられた彼女がアンリの部屋を訪れると、生徒は堰を切ったように彼女への執心を打ち明けた。じっくり口説くような余裕はない。ディアンヌは微笑み、生徒をぎゅうと抱きしめることでその思いに応えた。
 甘い香り、柔らかい肌、豊かな胸の膨らみ、繰り返し自分に差し出される唇……すべてがアンリに陶酔をもたらした。

 それがアンリとディアンヌの馴れ初めである。
 この話は宮廷の誰もが知っている「公然の秘密」だったので、じきにカトリーヌの耳にも自然に入ってきた。面白い話ではなかったが、アンリの経験を思うと、ディアンヌへの執心は分からないでもないように思った。そして、アンリも自分に負けず劣らず、戦争がもたらす悲惨を十分に経験していたのだと気づく。
 内心に渦巻く感情が消えたわけではなかったが、それ以降アンリとどのような関係を結んでいったらよいのかと迷うことはなくなった。
「さて、アンリが攻略したいのはシエナの方ではなさそうね。おそらく、もっと国境沿いだわ」

 そのとき、カトリーヌのお腹で鈍い動きが感じられた。
「まあ、あなたもそう思うのね」とつぶやいて、彼女はお腹をゆっくり撫でた。



 
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