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第12章 スペードの女王と道化師
ミシェルはリヨンの版元に赴く
しおりを挟むミシェル・ノートルダムは彼に手紙をくれた印刷業者ショサールに会うために、リヨンに赴くことにした。
カトリーヌ・ド・メディシスはショサール兄弟を著者かと思ったのだが、それは版元の名称だった。
「フランス王妃カトリーヌ・ド・メディシス殿下が『1553年の暦と占い』、いわゆるアルマナック(暦書)の著者に会いたいと言っている。一度相談したいので来てくれないか」とショサールの手紙には書かれていた。
ミシェルの住んでいるサロン=ド=プロヴァンス(以下、サロン)からリヨンはそこそこの距離がある。それはローマからフィレンツェまで行くよりいくらか短く、パリからノルマンディーに行くよりはいくらか長い。260kmほどなのだが、日本橋から浜松までの距離といえば理解いただけるのではないだろうか。いずれの例をとっても、鉄道も長距離馬車もないこの時代においては、ぶらりと歩いていくのにはやや遠いのだ。
とはいえ、ミシェルはこれまでの人生ではるかに長い距離を移動してきたので、困難なことはない。あるとすれば、ヴェネツィア行きで旅を終わらせると誓った相手ーー妻を納得させるぐらいだろうか。ただ、妻も商用であるのは承知しているので、比較的穏やかに夫を送り出す気持ちにはなっていた。書き物に夫が情熱をかけているのも知っていたし、本業の医師ほどではないにしても、決して少なくない報酬を得られるからだ。
1550年からミシェルが書くようになったアルマナックは読者の好評を得ていたが、ホロスコープを読み解釈するという彼の能力は本以外でも多くの人々を引き寄せている。地元のサロンでも彼に相談を求める人がしばしば訪れた。
そこには聖職者から公証人、商人、貴族の女性、ときには農民も相談に来ていた。ミシェルはサロンで一生暮らすと決めていたので、近隣とトラブルを起こすなどといった粗相はしない。皆の印象は一様に「人当たりのいい穏和な紳士」だった。
そちらの顧客のうち、農民の相談は独特だった。聞きたいのは自身の運命ではなく畑のそれだ。種の蒔きどき、刈り入れどき、天候はどうか、作況は豊作か不作かという内容だった。それにも丁寧に答えていたようだ。ソラマメの種蒔きについて忠告したところ、その年は大豊作になったという言い伝えが残っている。謝礼にソラマメを1ポワソー(約13リットル)受け取ったーーと具体的な話もある。
もともと占いというのは農業に深い関わりがある。豊穣を祈り、祝う祭りが世界中にあるのは、それが命に関わる重要なことであるからだ。天候条件や作況があらかじめ分かれば、これほど有難いことはない。それを皆に告げる託宣や「お告げ」が原初の宗教のひとつの形といえる。
また一方で、古来より天体の観察を積み重ねて「星で運命を読む」占星術もできあがっている。
ミシェルはそのふたつを兼ねた「特別な人」になりつつあった。彼は得体の知れない魔法使いではなくれっきとした医師で、現在はサロンの名士でもあった。社会的信用のある人だからこそ、人が多く相談に来るようになったのだろう。
その上に彼は「ペストの根絶に従事しながらペストにならなかった」という、一種の奇跡を体現していた。
そのような人もリヨンまで箒で飛んでいくことはできない。妻に「早く帰ってきてね」と釘を刺されつつミシェルはサロンの自宅を出たのだった。
「ああ、ノートルダムさん。わざわざリヨンまでお越しいただいて恐縮です」と印刷業者のショサールが訪問者を迎える。
「ああ、お久しぶり。リヨンは相変わらずせかせかとして賑やかですな。しかし、さすがに五十も目前ですので、旅は少しきつくなりました」とミシェルは笑いながらいう。その実、彼に疲れた様子はまったく見られない。
「本当にご足労さまです。さて、こちらが王室の女官さまからの手紙です。どうぞご覧になってください。こちらで持っておかないと後で受け取った、受け取っていないと厄介なことになりますのでね……」
商売人らしいもの言いだった。ミシェルはそれを気にもとめず、渡された手紙を見た。それはたいそう簡潔な手紙だったので、一瞬で読み終わった。
〈1553年の暦と占いの著者にカトリーヌ王妃殿下が面会されたいと希望している。ご都合を返信されたし〉
ミシェルは苦笑している。
「これは、証書のようですね。うーむ、どうしましょうか」
「もちろん、行った方がいいと思いますが」
「そうですね、実のところ、もう長旅をして家を空けないと妻に固く約束しているのですよ。今回はリヨンだからお許しを得たが、パリとなるとどうなるか」とミシェルは思案する。
「それをそのまま返信したら、不敬罪になりそうですな」とショサールは渋い顔をする。
「いや、そうは書きませんよ。ただ正直なところ、私はサロンの暮らしをとても気に入っているので華々しい名声とか王妃さまのご寵愛とかそのようなものは面倒だと感じてしまうのです」
「ご寵愛、はないと思いますが」とすかさず言葉が飛んでくる。
「ああ、見目麗しいトルバドゥール(troubadour、吟遊詩人)だったらよかったのですけれど」
「リヨンに昔はたくさん来たそうですが……あなたは歌が歌えますか」
「いや、詩はともかく歌の方はさっぱり才能はありませんな。ですから本を書くのです。まあ……こちらで返信を書いてお渡ししますので、お送りいただいてよろしいですか」
「承ります」と印刷業者は告げる。
せっかく足を伸ばしたのだからと、ミシェルはそこから今後の出版について打ち合わせに入る。1550年から刊行しているアルマナックはたいへん好評で、王室からの手紙を待つまでもなくパリでも広く読まれている。今後はもっとはっきり差別化した方がよいのではないかというのがショサールの見立てだ。最近ではミシェルの著作を真似たアルマナックがちらほら出てきているので、それと一線を画すべきだという。粗悪な偽物はミシェルの書いたものを丸写ししていることもあるらしい。
「まあ、そのようなこともあるのでしょうな。ホロスコープの作り方を覚えればいいのに」とミシェルは鷹揚に印刷業者の話を聞く。
「いやいや、ノートルダムさんのアルマナックだからという主張が大事なのです。ですので、1554年のものについては、もう少し強い主張、特徴をつけましょう」
「わかりました。今執筆中ですのでよい方策を考えて織り込みましょう」とミシェルは答える。
ショサールの建屋で紙とペンを借りてミシェルは返信を書き始める。
〈宮中 ーーー殿
謹復
お手紙拝読いたしました。拙著をお読み下さりましたことにまず、忠心より御礼申し上げます。宮廷へお呼びいただき、この上なく喜ばしく思っております。
ただ、たいへん恐縮なのですが、小生ただいま来年のアルマナックの執筆が佳境に入っており、長い旅をすることができません。ですが、アルマナックが1~2年うちに落ち着いたころを見計らって、ぜひ伺わせていただきたく存じます。その際は出発前にあらかじめお知らせ申し上げたく存じますので、引き続きお取り次ぎくださいますよう、心よりお願い申し上げます。
敬白
ミシェル・ノストラダムス〉
ミシェルは手紙を書き終えると、きれいに畳んでショサールに手渡した。ショサールは「見てもよろしいですか」と断ってからそれを広げる。
「ああ、少し後で行かれるということですか」
ミシェルはうなずく。
「いきなり剣もほろろにはできないでしょう。それに、じっくり考えるとパリには行ってみたいと思う。王妃さまの寵愛を受けるばかりではなくてね。いっぱしの著述家であれば誰しもそう考えるものでしょう。それに、その時まで王妃さまが覚えていて下さるのであれば、妻もパリ行きを認めてくれることでしょう」
ショサールはうなずいていたが、急にハッと何かを思い出した。
「そうだ、ノートルダムさん、アルマナックの大家だったラブレーさんがお亡くなりになったようです」
ミシェルはそれを聞くと、目を見開いたまましばらく動くことができなかった。ショサールはそのような反応を予想していなかったので、驚いて聞く。
「ラブレーさんとお知り合いなのですか?」
ミシェルは見開いた目をショサールの方に向ける。
「ええ、本当に古い知り合いです。私の方がだいぶ年下ですけれど。はじめはフォントネー=ル=コント村でした。次はモンペリエ大学……ただ、私が放浪しているとき手紙を実家にいただいていたのですが、返事を出せずじまいで結局疎遠になってしまいました。実は、ショサールさん、アルマナックを書こうと思ったのはラブレーさんのそれを見たからなのですよ」
ショサールも合点がいったようだ。
「ああ、そうだったのですか。ラブレーさんは他所から出版されていたので、うちとはご縁がありませんでしたが……ラブレーさんのアルマナックはもう見られない。名実ともにノートルダムさんが第一人者になりますな」
この言い方は商売としてならまったく問題はない。
しかしミシェルは軽くない憤りを覚えた。それを表情に出したとしても、ショサールには理解できないだろうと判断したので、ミシェルは話をそこで切り上げて外に出た。
「ノストラダムスとラテン語で書いたことにもまったく気づかなかったし、次は違う版元を探すようにしようか」
そうつぶやきながら、ミシェルはリヨンの町を歩き始める。賑やかな石畳の市街をソーヌ川岸に沿って進んでいく。彼は宿屋を取っていたが、少し散歩してから入ろうと思う。どうにも気持ちが落ち着かないのだ。
フランソワ・ラブレーがこの世にもういないということを考えていたかったのである。しばらく歩くと古代ローマ時代に建てられた競技場の跡が見えてきた。ミシェルはそこに入ってみる。そして、草むす石の上に座ってふうとため息をついた。
いったい、どこから思い出したらいいのだろうか。
ミシェルはぼんやりと古代の遺跡を眺めながら考えるのだった。
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