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第12章 スペードの女王と道化師
石に腰かけてラブレーを思い出す
しおりを挟むリヨンの競技場の石の上にミシェルは座り込んで、ラブレーについてどこから思い出したらよいか考えていた。
François Rabelais
あれは30年以上前の、1519年か20年のことだった。ペストが発生したために、入学したばかりのアヴィニョン大学が無期限休校になってしまった。そして私は身の振りかたを考えるため、最初の長い旅に出たのだ。パリまで北上してフランス西部を回って戻ってくる道のりだったが、その途中のフォントネー・ル・コント村で初めて彼に会ったのだ。
あの頃私は旅先で美麗な時祷書を見るのを大きな愉しみとしていた。貴族の家や修道院で所蔵している場合が多かったので、私は方々で訪ねてはゆっくりとそれらを見せてもらい、心ゆくまで堪能させてもらっていた。フォントネー・ル・コント村でもそうだった。私は村にあるフランチェスコ会の修道院を訪ねていったのだが、まさにそこに、ラブレーがいたのだ。
少年の私にとって、彼は見たこともない強烈な個性を持った人だった。私は彼と出会い頭に吹っ飛ばされた。いや、彼が開けたドアの勢いでひっくり返っただけなのだが、心象として吹っ飛ばされたというのは言い過ぎではない。
初対面のラブレーは修道院に抗議の声をあげていた。
「なぜチラコー先生の所に行くことさえ止めようとするのだ。私は学徒である。学ぶことを妨げるのは罪になるぞ!」
刈り上げた頭にぎょろっとした目付きがどことなく猛禽類を思わせた。私は修道士が修道院に啖呵を切るのを初めて見たので、ただただ石のように固まっていた。こちらに火の粉が飛んできたらどうしようかと思ったのだ。
修道院との衝突はーー今だからそう思えるのだがーーフランソワ・ラブレーにとっては、一生続く保守的な勢力との闘いを象徴していたような気がしてならない。
しかし、修道院を出てきた彼は私に興味を持ったらしく、あれやこれやと話しかけてきた。実に雄弁だった。最初は厄介な人に掴まったと構えていたが、啖呵の原因がギリシア語を学ぶのを禁じられたからだと知ってから、警戒心は次第に消えていった。
「ちょっとだけ説明しておく方が、きみの今後のためになると思うのだ。私はフランソワという。ここで哲学と神学、ギリシア語を学んでいるのだ。しかし、最近どうも世の趨勢というものか、ギリシア語が外されようとしている。なぜだ! プラトンもアリストテレスもホメーロスもみなギリシア語で書いているのだぞ。それを捨ててしまったら、ひとつの偉大な文化に触れる機会を永遠に失ってしまうではないか。きみはどう思う?」
そうだ、自分もこれから学ぼうとしていたのに、学び舎がペストで閉鎖されたために旅を始めなければならなかったのだ。ラブレーの「学べない不自由」はいくらか私も共有することができたし、原典の言語を尊重するべきであるという考えにも共感した。
そこで、普段は饒舌といえない私もつい、自分の考えを彼に話したくなった。
「確かに、ダンテの『神曲』はイタリア語で書かれていて、他の言葉に翻訳するよりも原語で読む方が、よりダンテの感覚に近づけるような気もします。ダンテも意図してラテン語ではなく、トスカーナ地方のイタリア語で書いたそうですからね。ベアトリーチェをベアトリスにしてしまったら、輝きが失せて興ざめになるかもしれません。少なくともダンテ本人にとっては。そのような見方をすれば、プラトンやアリストテレスもギリシア語で読めれば、当時の空気を感じられるようにも思います」
ラブレーは激しく同意した。
「そう! そうなのだよ。私の言いたいことは!
それが核心なのだ。
ラテン語が不要だとは言わない。ラテン語を学んでおけばどの国の人間でも意志疎通がはかれるし、書物を読むこともできる。聖書も聖典も読める。それに従って、カトリックの形も作られていったからラテン語が必須になる。それはひとつの側面だ。ただ一方で、私たちは日常生活で使う言葉を持っている。ダンテならばトスカーナ語だろうし、私たちにとってはフランス語だ。アリストテレスならばギリシア語だな。自分の持っている言葉を生かし、同時に偉大なる先達の言葉を尊重する。言葉だけではない。詩などの文芸、もののあり方などの論考など書かれた内容すべてについても同様だ。この点については、ダンテ・アリギエーリとも意見が違わないと思うぞ。
何と豊穣なる挑戦であることか!
少年よ、この片田舎でダンテの名を聞けるとは思わなかった。なかなか見所があるな」
そのやり取りが、その1日が現在に至る私の人生に決定的な影響を与えたのだ。
その時は旅先のひょんな出会いに過ぎなかったし、彼の来歴など全く知らぬまま別れた。西部の小さな村での出来事だ。もう二度と会うことなどないと思っていた。
しかし運命なのだろうか。今度はモンペリエ大学で私は彼と再会した。
最初の長い旅を終えたのち、私は再開したアヴィニョン大学には戻らずに、医学を学ぶと決めてモンペリエ大学に進んだ。そこにラブレーがいたのだ。私たちは大学に学ぶ者の常として酒を酌み交わしながらいろいろな話をした。彼の経歴はそのときに知るに至った。
ラブレーは個性が強い風貌、言動によらず、高貴な家の出身だった。彼の故郷はフランス中部ロワール川沿いにある町シノンである。父親はこの町の裁判所付き弁護士アントワーヌ・ラブレー、その三男がフランソワだ。もともとラブレー家は王の任命によって法官を担っていたこともある貴族で、現在も地主である。すなわち子女を大学に通わせる余裕のある裕福な家庭だった。
しかし、ラブレー自身の修道院生活は激しく紆余曲折を重ねた。シノンのベネディクト修道院、ボーメットのフランチェスコ会修道院、フォントネー・ル・コントのフランチェスコ会ピュイ・サン・マルタン修道院、マイユゼのベネディクト会修道院、リギュジェの修道院ーーと転々と移っていった。修道院の巡礼の様相を呈しているように私には思えた。
このリギュジェの修道院で彼は人生を変える人に会う。ブーシェという詩人だ。彼は語学に秀でたラブレーの才能を生かして、詩を書いたらどうかと勧めたのだ。そこから彼は詩ではなく、物語を書き始める。
しかしリギュジェにも長く留まりはしなかった。ラブレーはパリに出て熱烈な恋に落ち、子をふたり授かった。これは普通の人ならばともかく、修道士としては致命的な禁忌である。彼はついに修道士の道を捨て、還俗(げんぞく)の司祭となった。その傍ら、ブーシェの勧めで始めた著述業に熱心に取り組んだ。ヘロドトスの『歴史』などギリシア語の書物をラテン語に訳すなどもしていたが、まだラテン語版が流布していなかったヒポクラテスの医学書を手掛けてみたいと熱望するようになった。モンペリエ大学で医学を修めようと志した直接の理由はそこである。すでにギリシア語に習熟していたラブレーは学ぶ方ではなく、教える方も大学から任されるようになった。
モンペリエの日々は彼にとって自由に学べる素晴らしい機会になったと思うし、私もそのような時期のラブレーと同じ時期に大学にいられたことを誇らしく感じている。
そこから私と彼の道は分かれてしまった。
彼は大学を出て、念願のヒポクラテスの注解などの書物を刊行した。そしてここ、リヨンの病院に内科医として勤務するようになったのだ。リヨンの版元を使っていたのはそれもあるだろう。
そう、私がリヨンの版元からアルマナックを刊行したのは彼の先例に倣ったのだ。これは告白しておかねばなるまい。
1532年頃のことだと思うが、当時シャルル・ビヨン作といわれる『ガルガンチュワ大年代記』という物語の小冊子がたいへんな人気を博していた。これは中世の民間伝承に伝わるガルガンチュワという巨人が主人公の話なのだが、それと呼応するかのごとき、伝説の小悪魔を主人公とする『第二之書パンタグリュエル物語』をラブレーが刊行したのだ。
この作品はガルガンチュワの息子がパンタグリュエルだという関連性があったために、パンタグリュエルも先行書と合わせてたいへんよく売れた。諧謔が効いていて下の話も出てくるし、読みようによっては教会批判のようにも見える部分もある。私も買い求めてずいぶん読み返した。このシリーズは『第一之書ガルガンチュワ』(本家をさらに創作したもの)、『第三之書パンタグリュエル』、『第四之書パンタグリュエル』と刊行されていった。また、ラブレーは先ほど私の版元が言っていたように毎年のアルマナックなども出していた。
彼も方々に出ていたし、私もそうだった。
もう一度会いたいと思うもののその機会は当分巡ってこないようだった。
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