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第12章 スペードの女王と道化師
王と王妃のイタリア戦争(1)
しおりを挟むパリのほど近くにあるサンジェルマン・アン・レー城の新城( le Château Neuf)はセーヌ川の景観を愛でられるよう、たいへん幅広い造りで、窓や庭園が川に開かれている。もともと前国王フランソワ1世が建てさせた城があるのだが、かつて内紛の舞台になった場所でもあるので、そのまま使うのは気が進まなかったのかもしれない。この時フランス王家の人々はここに住んでいる。
王のアンリ2世は王妃のカトリーヌ・ド・メディシスと話をしている。常に宮廷には人が多くいるので、ふたりでゆっくり話す機会はほとんどない。
盛大かつ長丁場だった結婚式の祝典からもう20年が経っていた。
「遠征されるのですか」とカトリーヌが問う。
アンリは小さく首を横に振る。
「いや、しばらくはない。シエナの方は今戦闘が止まっているし、敵が直接的な行動に出ない限りは私が赴く必要はないだろう」
敵というのは神聖ローマ帝国に属するスペイン軍とフィレンツェのコジモ・デ・メディチだ。コジモはカトリーヌの親戚になるが、アンリはそのことで妻への態度を変えることはなかった。妻も完全にコジモを敵とみなすことで、夫の信頼に応えていた。それはフランス王妃として当然の責務でもある。
「早く終わってほしい、という気持ちはずっと持っています」とカトリーヌはつぶやくように言う。
「そうだな、先代も先々代もその前も、止めないでここまで来てしまったからな」とアンリはカトリーヌを見る。
「長い戦争です」
「もうすぐ50年だ」
俗に『イタリア戦争』と呼ばれる断続的な戦争は1494年にフランスがナポリが自国の領土であると主張して進軍したのが直接のきっかけだった。その時の王はシャルル8世でアンリより3代前になる。
ナポリに進むにはイタリア半島北部・中部を通過しなければならないが、途中のフィレンツェでは市民がフランスを歓迎し、市民がメディチ家を追放するに至った。このとき権力を得たのが預言者とも呼ばれた修道士ジローラモ・サヴォナローラだった。
「最初からメディチは巻き込まれていたと小さい頃に聞きました。マリア(サルヴィアーティ)からだったと思います。後にマリアも戦争で夫を亡くしました。シャルル王の行軍のときは、フィレンツェ市民の間にメディチへの不満がもともとあったので、フランス軍が救世主のように思えたのでしょう。それにしても、ナポリが目当てだったのに、フィレンツェで大歓迎されたのでシャルル8世はさぞかし喜んだでしょうね」
ローマにもフランス軍は踏み込んだ。フランス王はナポリに侵攻・占領し年を越えたのだが、ローマの教皇アレクサンデル6世は粘り強い交渉を続け時間を稼いだ。その間に神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世、アラゴン、ヴェネツィア、ミラノが神聖同盟を組んで交渉した結果、フランスが譲歩して撤退したのである。アレクサンデル6世は破門もちらつかせたという。それはあたかも『カノッサの屈辱』を思わせるできごとだった。
「あの抗議者兼預言者はしばらくフィレンツェを支配していたのだったな。そして火刑でついえた。いずれにしてもわが国は進軍して手ぶらで帰ってきたというのが痛かった。遺恨として残ってしまったんだ。そして次のフランス王はミラノに狙いを変えた」とアンリは言う。
「ルイ12世ですね。ミラノ公の血を引いておられますので、正当な継承者だと主張されたのですね」
「まあ、そういうことだが……結局何がなんでもイタリア半島のどこかを領有したかったということだ。この戦争の多くの戦いはそこに起因する。ミラノとルイ12世の場合はいっときそれが成功した」
「けれど、ナポリはスペインのものになってしまった」
「そうだ」
1499年から始まったミラノの領有権を巡る争いでフランスは支配者だったスフォルツァ家を追い出し、しばらくミラノを領有する。レオナルド・ダ・ヴィンチがミラノで活動するようになるとフランスはパトロンとなり、生活の基盤を支えている。のちにレオナルドがフランスに移ったのもミラノの繋がりがきっかけだった。
しかし、スペインはナポリの領有を実現した。このときの教皇がアレクサンデル6世だったのも関係している。教皇はスペインの出身なので故国の利になるよう同盟国とともに調整をはかっていた。いわゆる権謀術数というものである。
「アレクサンデル6世は政治力のある方でした。いろいろな評価があるけれど、戦争を起こさせないという点では素晴らしい働きをしたと思う。あれぐらい交渉・調整能力のある君主ばかりだったら、戦争はこんなに続いていなかったはずよ。あとは……教皇軍の最高司令官が失脚しなければ、もう少しフランスに有利になっていたかもしれないけれど」とカトリーヌは夫に微笑む。
「ああ、チェーザレ・ボルジアはヴァランス公だったからな。ただ、それを警戒したスペインに幽閉されてしまった。私は子どもの頃スペインに幽閉されていたから、彼の孤独と屈辱と憤怒が手に取るように分かるよ。骨身に沁みるほど共感しているといってもいい。勇気のあることに、彼は窓から飛び降りて脱出するのに成功したが、ナヴァーラまで逃げて客死してしまった。ナヴァーラからパリまではほんの少しだったのに……」
カトリーヌがいたずらっぽい顔になる。
「元ヴァランス公はその後もずっと生きていたという噂があるわ。ナヴァーラにずっと匿われて、そこからどこかに行った……」
「ああ、その噂は私も聞いたことがある。伯母が言っていたのだったか。縁のあった教皇も探していたというし……」
「そうね、大おじさま(教皇レオ10世)と同窓だったらしいけれど、どうなったのかしら」
アンリは大きく首を振る。
「いずれにしても昔の話だ。私やあなたが生まれた年に新たな神聖ローマ皇帝が即位して、すべてが変わってしまった」
「そうね……大おじさまが許可した贖宥状とカール5世の戴冠、それが現在に至る起点になった」とカトリーヌはうなずいた。
1519年、神聖ローマ帝国の皇帝にカール5世が即位し、同時に母親の国であるスペイン国王にもなった。ハプスブルグ朝スペインの始まりである。イタリア半島を狙っていたフランスは両国に挟まれて、自国の防衛を優先しなければならなくなった。この年にアンリもカトリーヌも生まれている。そして彼らは幼少から、様相の変わった戦争に巻き込まれることになる。
一方で、教皇レオ10世が許可した神聖ローマ帝国領内における贖宥状販売は大きな嵐を引き起こす。聖職者と商人(フッガー家)が手を組んで大儲けしていたことに激しい抗議の声が上がった。ヴィッテンベルグ大学の神学教授マルティン・ルターを筆頭に、フランス出身のジャン・カルヴァンなどが次々とキリスト教の信仰に関わる著作を興しこれまでのカトリックの流れを正そうと活動しはじめたのだ。
「イタリア戦争が今動いていないから言えるのかもしれないけれど、カトリックとユグノー、あるいは改革派の争いの方が根が深いように思うわ。皇帝カールは最大規模の領土を得たけれど、何十年もこの問題には苦しめられている」とカトリーヌが一種の同情を込めて言う。
カトリックとユグノー、旧教と新教の問題はすでにフランスでも大きくなっている。大学の教授などの知識人層や貴族の間でも新教に付く人が表れ厳しく対立している。早くから問題に直面してきた神聖ローマ帝国領(ドイツ)ではさらに影響が大きくなっていた。地域の領主である選帝侯間でも新旧の対立が起こっていて、彼らで構成される帝国議会の運営にも支障をきたすほどの事態となっている。
帝国では、今や両派を等しく認めなければならないところまで来ているのだ。
「ああ、私も同感だ。すでにゆゆしき問題になっていると私も考えている。それはこのフランスにおいても同じだ。これまで伝統行事のようにイタリア半島および自国の権限を広げようとしてきたが、実際はそれどころではないのだ」とアンリが言うのを聞いて、カトリーヌははっと目を開く。 アンリはカトリーヌを見る。
「何だ、嬉しそうだな」
「ええ、私がフランスに嫁ぐことを決めた一番の理由は……この馬鹿げた戦争を終わらせたいと思ったからなの。だって、私はこの戦争に何度も辛い思いをさせられてきたわ。死ぬかと思ったこともあった。だから、フランスに来たのよ」
アンリはカトリーヌがきっぱりと言い切った姿にしばらく言葉を失っていた。そして、カトリーヌの方に寄ってきて、そっと抱きしめた。
「陛下、いかがされたのですか」とカトリーヌが驚いて夫に聞く。
「わが妃よ、私もこの戦争で心が打ち砕かれるような経験をしたのだ。知っているだろう。しかし、私はあなたの辛い経験をすべては聞いていない。今日はもう少しだけ、あなたのことを話してくれないか」
カトリーヌは目に涙を浮かべて、
「はい、陛下」とうなずいた。
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