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第12章 スペードの女王と道化師
メディチ家のお抱え芸術家
しおりを挟むフランスで人々の注目を浴びている書物と著者について記したところだが、同時期のイタリア、フィレンツェでも話題になっている書物があった。『芸術家列伝』(Le Vite delle più eccellenti pittori, scultori, e architettori)である。
1550年に刊行された第一版は、シエナ奪取に意欲を燃やすコジモ・ディ・メディチに捧げられた。かつてマキアヴェッリが『君主論』をカトリーヌの父親ロレンツォ・ディ・メディチに捧げたのと同様である。
本が彼らを象徴するひとつと見るのも一興だろう。読んでいたかもしれないが、コジモに君主論は必要なかったのかもしれない。
ジョルジョ・ヴァザーリについてはフィレンツェ包囲(1529~30)の辺りまで本編に現れているが、また登場してもらう。
ヴァザーリはアレッツォに生まれ、幼い頃にアンドレーア・デル・サルト、ミケランジェロの弟子となった。それから師匠の元を離れてローマに遊学し、数々の絵画彫刻を見聞して回った。とは言っても、この時期は芸術にとってまったく不幸なものだったといえる。
1527年にローマ刧掠が神聖ローマ帝国軍によってなされ、1529年にフィレンツェ包囲戦があった。カトリーヌがカテリーナだった少女時代の悲惨な経験についても触れたが、壊滅的な打撃を受けたふたつの都は復興に専念するしかなく、芸術どころではないというのが本当のところであった。その時期にヴァザーリはフィレンツェ包囲の場面を描いているが、本来の美を希求するという趣旨からは離れたものだっただろう。
そののち彼はフィレンツェに戻り、画業と並行して著述に取り組むようになった。その結晶が『芸術家列伝』だったのだ。
『芸術家列伝』はその名が示す通り、15世紀以降の芸術家の評伝である。その数133人とそれまでに類例のない大著だった。のちに30人を追加している。
第2版まで含めて登場しているのは、チマブーエ、ジョット、シモーネ・マルティーニ、ウッチェルロ、マザッチョ、ピエーロ・デルラ・フランチェスカ、フラ・アンジェリコ、フィリッポ・リッピ、ベルリーニ、ボッティチェリ、マンテーニャ、ジョルジョーネ、ラファエロ、アンドレーア・デル・サルト、ティツィアーノ、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロなどである。特に、師匠だったアンドレーア・デル・サルトとミケランジェロについては多く記述されている。
画家の仕事としては桁外れだが、彼にとっては筆よりもペンの方が馴染みがよかったのかもしれない。この著作は、彼をイタリア最初の美術史家として歴史に残す大きな役割を果たしたのだ。
もちろん、献呈された本はコジモも見た。隅々まで読んだのかは分からないが、大著であるのは事実である。そこで彼はヴァザーリを自邸に招いて話を聞くことにしたのである。時はシエナで間欠的に戦闘が起こっている最中で、スペイン軍(こちらも神聖ローマ帝国の所管である)もまだ多く駐留している。
「あなたがジョルジョか。このたびはたいへんな労作を献呈いただいた。感謝を伝えたいと思ってな」
ジョルジョ・ヴァザーリはコジモの前に膝まづいている。ヴァザーリの方が年長だが、まだ30代半ばのコジモはムチのようにしなやかで筋肉がほどよく乗った、見るからに強靭な体躯の男だった。
勝利の凱旋(Trionfo=Triumph)の先頭に立つにふさわしい……とヴァザーリは感じていた。絵の題材にぴったりである。
「いいえ、コジモさま。メディチ家の当主であるあなたさまにこの本を献呈したいと、そればかり考えて書き続けてまいりました」
「それは光栄だ、ありがとう。さて、本を見て感じたことを述べてもよいか」
「はい、何なりと仰ってください」
「いや、批評ではないので心配する必要はない。私は大ロレンツォを初め、メディチの先祖がどれほど芸術を大切にしてきたのか、ほとんど顧みることがなかった。フィレンツェ包囲のとき、私は避難していて無事だったが、あれで市内の風景も一変してしまった。花の都も儚く散らされたのだ。おまえの師匠だったミケランジェロもそれ以降はフィレンツェを去ってしまった」
「はい」とヴァザーリはうなずく。
「しかし、本を読んで、私はこれこそが望ましいフィレンツェの姿だと思った。聖も俗も、栄誉も醜聞も引っくるめて、ここには『人間』がいる。それらがこの街の繁栄の源だった。そのような都を私は再び築きたいのだ」
「素晴らしいご見識でございます。わたくしもそのように思っております」とヴァザーリは力強くうなずいた。
コジモはふっと微笑む。
「今はまだ、シエナのことに片がついていない。まあ、ハプスブルグのスペインとフランスの局地的な代理戦争だが、それを無駄に使う気はない。シエナは必ずフィレンツェのものにする。それと同時に、フィレンツェの真の復興にも手を付けていきたいと考えている。そこでだ、ジョルジョ、メディチのもとに来る気はないか」
ヴァザーリは肚の底から喜びが湧き上がってくるのを感じる。その目は輝いて、夜空の星と並び立つほどである。
「はい、どうぞ何なりとわが身をお使い下さいませ。この上なき幸せにございます」
彼はこの機会を待っていたのだ。
彼の心情を推し量るには、この時代の芸術なり文芸の事情に思いを馳せる必要がある。
いくら民衆に支持されて本が売れたとしても、王侯貴族の『お墨付き』にならなければ、真の成功とはいえない。もし、その内容に為政者にとって不都合なものがあれば一気に『異端』であるとか『不敬』、『堕落』という烙印を押されてしまう。そのような批判を浴びたフランソワ・ラブレーが著述活動を続けられたのは、ひとえに王家に近い強力な庇護者がいたからである。
ヴァザーリの書いたものは評伝なので、ラブレーによる諧謔の英雄譚と同列にはできない。ただ、フィレンツェの芸術家を総動員した著書をかの地の僭主が承認しなければ、本の価値はずるずると下がってしまう。『芸術家列伝』の第一版はフィレンツェの芸術家を主に取り上げている。それによって、フィレンツェの繁栄とメディチ家の偉大さを讃えるという趣旨にもなっているのだ。コジモに献呈したのはおべっかでしているわけでなく、暗に『お墨付き』を求めていたのである。
これを見てヴァザーリが打算的だとするのはやや皮相的である。誰もが自分の成し遂げた仕事を高く評価されたいと願うのは自然なことだ。
ひとつ概観できるのは、ミケランジェロはそのようなことをしてこなかった、結果メディチ家から離れたのは自然だったのかもしれないーーというほどである。
このとき題材の一人になったミケランジェロは78歳、ローマのヴェネツィア広場の側に暮らしているが、ヴァザーリの本を読んだかは定かでない。ただ、ローマで長くミケランジェロの助手を務めていたアスカニオ・コンディヴィがこの年にミケランジェロの伝記を書いて上梓している。これはヴァザーリの書に対するひとつの批評ともいえるのではないだろうか。
フランスとイタリアの、それぞれ1冊の本の話である。1冊の本にも権力という力が影響しているのだと気づかされる例でもある。
さて、コジモはヴァザーリ以外にも芸術家を何人も見立てていた。もっとも早くに専属画家になったのはアーニョロ・ブロンズィーノだ。元々は教会や貴族の礼拝堂の装飾を手掛ける工房で働いていたが、1539年、コジモとエレオノーラ・ディ・トレドの結婚祝宴の装飾に関わったのちメディチ家の専属画家となった。現在まで残るコジモ一家の肖像画の多くがブロンズィーノによるものである。また、コジモの命で設立されたタペストリー工場のために多くの下絵を描いている。
コジモには十人の子どもがいる。二人は夭逝したが、他の子どもはすくすくと育っている。
フランス王妃のカトリーヌも次々と子を産んでいる。今は敵味方の状態だが、いっときは困難に陥ったメディチ一族全体としては安泰の状態だった。
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