35 / 480
第2章 海の巡礼路(西洋編) フランシスコ・ザビエル
瓦礫になったシャビエル城 1516年~ ナヴァーラ(現在のスペイン・ハビエル)
しおりを挟む
<フランシスコ・ザビエル、「おじいさま」、マリア・アスピルクエタ、マルティン・アスピルクエタ、新スペイン王カルロス1世、教皇レオ10世>
ナヴァーラがこのような状態に陥ったのには、西ヨーロッパの各国の情勢が激動しつつあったことと無縁ではない。このことを語るのは少々骨が折れることではあるが、その後のことを考えるとやはり説明しておかなければならない。
私の父、ホアン・デ・ハスが亡くなってから3ヶ月後の1516年1月、今度はナヴァーラを併合した張本人、スペイン王フェルナンドがこの世を去った。
彼は婚姻と武器を持って、レコンキスタ(国土回復運動)を実現し、アラゴンとカスティーリャ、イタリア半島の一部、そしてナヴァーラをその支配下におさめて人生の結末とした。その跡はカルロス1世が継ぐことになる。狂女王と呼ばれたファナと美王フィリペの子である。
ファナはまだこのとき存命でカスティーリャ女王の称号を持っていたが、父フェルナンドを継いでアラゴン女王も兼ねることになった。ただ、それが名ばかりのものだったことは言うまでもない。彼女は父フェルナンド王に幽閉されて久しく、名称以外何の力も与えられてはいなかった。
そして、ファナの子であるカルロスにスペインの王座が与えられたのだ。新王カルロス1世は(ファナが存命の間は正式な王ではなく代行という形だったが)1516年、父フィリペのお膝元ブリュッセルでスペイン王であると宣言し、実質的な国王であると西欧に広く認められた。
美王フィリペの父は神聖ローマ帝国(ドイツ)の皇帝マクシミリアン1世である。
そして、1519年、今度はマクシミリアン1世が亡くなった。
カルロスはスペイン王に加え、神聖ローマ帝国皇帝の嫡孫としても脚光を浴びることになったのだ。
神聖ローマ皇帝は選挙で選ばれる慣わしとなっている。
マクシミリアン1世の次を決める選挙でカルロス王はフランスのフランソワ1世と皇帝の座を巡って争うことになった。カルロス側には、マクシミリアン1世の出自であるハプスブルグ家と懇意の、豪商フッガー家が付き全面的に支援を行なった。結果、カルロスが勝利する。ここに神聖ローマ帝国皇帝カール5世が誕生することとなった。
スペイン王としてはカルロス1世で、神聖ローマ帝国皇帝としてはカール5世ということになる。兼務の国王・皇帝ということだ。
ここで、神聖ローマ帝国、スペイン、フランス、教皇領を中心とするイタリア半島の諸国、さらにはアドリア海の向こう側に強大な帝国を築いているオスマン・トルコを中心とするヨーロッパの勢力地図が変わっていくこととなる。神聖ローマ帝国はスペインと手を結び、フランスをはさんでいる。そして、フランスは両側を注意深く守りつつも、南のイタリア半島に手を伸ばすことをあきらめていない。
このとき、ローマ教皇はレオ10世となっていた。先の教皇ジュリオ2世は1513年に亡くなったのだ。その前のアレクサンデル6世が亡くなったのが1503年だったから、約10年教皇をつとめたことになる。
アレクサンデル6世は巷間いろいろと言われる人物だが、少なくとも教皇領の地盤を堅固にしようとした点は評価しなければならないと私は考えている。なぜならば、その後を継いだジュリオ2世はフランスの助力、いや兵力に頼り過ぎたために、その後フランスの介入を強く受けることとなったからである。その頃には教皇領の軍事的な基盤は空ろなものになってしまっていた。その負の遺産はレオ10世に受け継がれた。
レオ10世、フィレンツェのメディチ家出身、栄光の時代を築いたロレンツォ・デ・メディチの子供である彼は、その出自にふさわしい特徴を持つ教皇となった。「金」である。その発端は前教皇から託されたサン・ピエトロ大聖堂の大修復である。もともと豪奢な生活をしていた教皇はさらに莫大な金をのどから手がでるほど欲しかった。倹約するという発想はない。
その金策の手段が新たな、後世にまで残る分裂を生むきっかけだったのだ。
この時すでに、ローマ教皇と神聖ローマ帝国にある教会の間で、たいへんなできごとが起こっていた。今の私にもつながってくる話だが、この話はまた後でしよう。
そういえば、「おじいさま」がラテン語を教えてくれている時にふっとつぶやいたことがある。
「メディチ家の御曹司が教皇になったか。ちょっとした見物だな」
皮肉めいた口調の「おじいさま」は、マントのほこりを軽くはたいている。
「私も、教皇様は無理でも、パンプローナ司祭を目指せるほどにがんばらなければ」
そういうと、「おじいさま」は目を細くして微笑んだ。いや、少し困惑していたのかもしれない。
「教皇を目指してみたらどうだ? おまえならできるぞ」
「無理です。司祭に叙階されるのだって簡単ではありません。その先さらに司教になって、大司教になって枢機卿にならないといけないのです。後ろだてなしでなれるはずはありません」
すると、「おじいさま」は静かに、はき捨てるようにつぶやいた。
「おまえは貴族の嫡子だ。あとはどうとでもなる」
そのときの、彼の様子は強く印象に残った。
「おじいさま」は嫡子ではなかったのだろうか。
きっとそれでたいへんな苦労をしたのだ。こんなに知識を持っていて、人を惹きつける力を持っているのに。これからはあまり嫡子であるとか庶子であるという話は彼の前でしないようにしようと思った。
とは言っても、そんな話をわざわざする機会もなかったのだが。
いずれにしても、そのような大きな流れの中にあっては、私たちのナヴァーラも吹けば飛ぶような存在としか思われていなかっただろう。しかし、この機を捉えてナヴァーラを取り戻すために蜂起しようという動きは、フェルナンド王の死去からすぐに現れたのだ。
スペイン全土でも、「カルロス王となれば神聖ローマ帝国の介入は避けられない。すぐに属国とされてしまう」と不安を抱いた者たちが、それぞれ反乱の準備をすすめていた。何しろカルロス王はフランドルの宮廷に入りびたりで、スペイン語も話せなかったのだから不安を抱かれるのも仕方ない。私たちナヴァーラの民にとっては、まさに好機だった。シャビエル城でも私の兄ホアンやミゲルのもとに同志が集まりどう戦っていくか話し合っていた。
しかし、その動きがスペイン側に知られてしまった。
そこで新しい王からは、反乱軍の巣窟であるシャビエル城を破壊せよとの命令が下された。
スペイン兵たちが大挙して押し寄せ、是非もなくシャビエル城を破壊していく。
高い塔からまっさきにうち砕かれ、美しかった城がどんどん形を失っていく。
離れたところから母とそれを見ている私は、泣きたいのをこらえて固く唇を噛んでいた。
私が泣いたら、母はどうすればいいのだ。
誰よりも悲しいのは母ではないのか。
私が泣くまいとしたのはそれだけの理由からだ。
城がほぼ破壊されるまでに11日かかった。
11日間、私たちはその様子をただただ見ていた。
最後に、小さな一区画だけが、家族の居住用として残された。
巨大な瓦礫の山に埋もれた、ひとつの塊のようにしか、私たちには見えなかった。
私たちの城はついに破壊されてしまった。
殺伐とした環境に突如落とされた私たちにはこれまでと全く異なる生活が待っていた。母は気鬱のようになり、あまり話をしなくなってしまった。兄ミゲルが懸命に母をはげましていた。私はまだ10歳だったが、あのすばらしい書斎の本たちのほとんどが打ち捨てられたことに落胆した。こればかりは本当に残念だった。
そして、「おじいさま」の姿がいつからか見えなくなっていた。
その11日の間にいなくなっていた。
城を破壊されているときはその衝撃に耐えるばかりで、彼がいないことに気がついていなかったのだ。
「おじいさまは? どうしたの?」
そう問いかけた私に対して、母は静かに答えた。
「おじいさまは他の所に行きましたよ」
わたしたち家族の重荷になると思って去っていったのか、それとも追い出されたのか、誰かに連れていかれたのか、母もそれ以上は何も語ろうとしなかった。
一方、城が壊されても、ナヴァーラ王国を取り戻すための戦いの火はまだ消えてはいなかった。
2人の兄ミゲルとホアンも反乱を起こすための中心メンバーとして、秘密裏に綿密なやりとりを重ねていた。そこにフランスの支援を得ることとなり、みな虎視眈々と何年もその機会を待っていた。
城を破壊されたときには10歳だった私も、その頃には14歳を迎えていた。
もちろん、蜂起の暁にはそこに加わるつもりでいたのだ。
1520年5月、カルロス王は神聖ローマ帝国(ドイツ)に向けて旅立った。
神聖ローマ皇帝を戴冠するので長期の不在となった。
その長い不在が続く1521年5月10日、ナヴァーラの義勇軍に呼応したフランス軍が先陣を切った。
5月20日、フランスとナヴァーラの連合軍がパンプローナの王宮を攻撃した。ここには守備軍が常駐していて、大半はバスク地方の貴族が中心だった。バスクの民同士が戦うことになった。バスク人は数多の戦いを経て、敵から自らの土地を守り通してきた歴史がある。したがって守備軍のバスク人も大層手ごわかった。弓矢や投石器の使い方も上手く、戦争には馴れているはずのフランス軍もいったん退いて体勢を立て直さなければいけなかったほどだ。この戦いは6時間に及んだ。
そこから15日間、フランス軍が立てこもる王宮の守備軍に対して砲撃を繰り返し、疲弊した城内に突入をかけた。
王宮はナヴァーラの手に戻った。
しかし、それはつかの間のことだった。
すぐさまスペインの援軍が大量に投入され、たった3日間でナヴァーラ・フランス連合軍は手にした城を逃げ出さなければならなかった。そしてパンプローナ南方のノアインで敗北を喫し、兄たちは捕虜となって捕えられた。
カルロス王は自分の不在中に不穏な動きが起こることを想定していたのだろう。
常に十分すぎる数の兵力を置き、ことが起こったときにはすぐに鎮圧するように命じていた。それは忠実に守られた。この王不在の時期にイベリア半島で発生した反乱の大半はまたたく間に鎮圧されている。
私はこの戦いには出なかった。
城の一角で母たちと暮らしながら、捕虜になった兄たちが戻ってくるよう、必死に祈るだけだった。兄たちにしてみれば、弟まで出陣してしまうと母を守る人間がいなくなる。
「私も義勇軍に加わりたい」と言った私に残るよう説得したのは長兄ミゲルだった。
このようなときに、「おじいさま」がいなくなってしまったのが本当に悲しかった。
私はよくシャビエル城の書斎と「おじいさま」の姿を思い出していた。もうこのときにいなくなって4年が経っていた。ラテン語はすでにほぼ習得していたが、しばしば彼のことを懐かしく思い出した。
もしかしたら、「おじいさま」はイベリア半島のどこかの城にキュクロープスのように住みついているのかもしれない。そして、私のように好奇心旺盛な子どもに楽しい話でも聞かせているのかもしれない。そう考えることで、自分の気持ちを納得させるようにつとめた。
カルロス王は反乱をくわだてたナヴァーラ義勇軍の何人かに恩赦を与えた。
その中には私の兄、ミゲルとホアンも含まれていた。
母は泣いて喜び(本当に涙もろいのだ)、私も母に続いてがっしりと、戻って来た兄を抱きしめた。
家族が揃うということは本当に心強いものだ。
また瓦礫のようなシャビエル城にも一筋の光が差し込んできたような気がしていた。
そして、私にも旅立つ時がやってきた。
以前に「おじいさま」に告げた通り、私は父の道を辿ることに決めていた。
まず大学に学び教授と聖職者の資格を得る。そしてできるだけ母の近くで職に就くことである。「おじいさま」の言うとおり、貴族の子弟(嫡子ということだが)には聖職者への道が開かれていた。母の従兄弟マルティンはサラマンカ大学の法学教授をしていて、将来的には司教に叙階される見込みだった。マルティンのいるサラマンカ大学に行けば、有利なことに間違いはなかった。
そんな大きな後ろ盾があったが、私はさきの戦いがあったため、スペインで学ぶ気にはどうしてもなれなかった。父と同じボローニャ大学も考えてはみたものの、イタリア半島は治安がよくないと言う母の忠告を聞いた結果、パリ大学に進学することに決めたのである。
もともと、ナヴァーラ国王のホアン3世(ジャン・ダルブレ)はフランス王家とも近い貴族だったし、パンプローナの蜂起にフランスが同盟を組んでいたということで好感を持っていたのだ。
そこにピレネーを越えた向こう側を見てみたい。パリという大都会に行ってみたい。そのような若者らしい憧れがなかったと言えば嘘になる。
子どもの頃、「おじいさま」に言ったことと同じだ。サンティアゴ・デ・コンポステーラよりローマやパリがいいと。まったく、この頃20歳になろうかというのに、私はまだまだ外を知らない子どもだったのだ。
ナヴァーラがこのような状態に陥ったのには、西ヨーロッパの各国の情勢が激動しつつあったことと無縁ではない。このことを語るのは少々骨が折れることではあるが、その後のことを考えるとやはり説明しておかなければならない。
私の父、ホアン・デ・ハスが亡くなってから3ヶ月後の1516年1月、今度はナヴァーラを併合した張本人、スペイン王フェルナンドがこの世を去った。
彼は婚姻と武器を持って、レコンキスタ(国土回復運動)を実現し、アラゴンとカスティーリャ、イタリア半島の一部、そしてナヴァーラをその支配下におさめて人生の結末とした。その跡はカルロス1世が継ぐことになる。狂女王と呼ばれたファナと美王フィリペの子である。
ファナはまだこのとき存命でカスティーリャ女王の称号を持っていたが、父フェルナンドを継いでアラゴン女王も兼ねることになった。ただ、それが名ばかりのものだったことは言うまでもない。彼女は父フェルナンド王に幽閉されて久しく、名称以外何の力も与えられてはいなかった。
そして、ファナの子であるカルロスにスペインの王座が与えられたのだ。新王カルロス1世は(ファナが存命の間は正式な王ではなく代行という形だったが)1516年、父フィリペのお膝元ブリュッセルでスペイン王であると宣言し、実質的な国王であると西欧に広く認められた。
美王フィリペの父は神聖ローマ帝国(ドイツ)の皇帝マクシミリアン1世である。
そして、1519年、今度はマクシミリアン1世が亡くなった。
カルロスはスペイン王に加え、神聖ローマ帝国皇帝の嫡孫としても脚光を浴びることになったのだ。
神聖ローマ皇帝は選挙で選ばれる慣わしとなっている。
マクシミリアン1世の次を決める選挙でカルロス王はフランスのフランソワ1世と皇帝の座を巡って争うことになった。カルロス側には、マクシミリアン1世の出自であるハプスブルグ家と懇意の、豪商フッガー家が付き全面的に支援を行なった。結果、カルロスが勝利する。ここに神聖ローマ帝国皇帝カール5世が誕生することとなった。
スペイン王としてはカルロス1世で、神聖ローマ帝国皇帝としてはカール5世ということになる。兼務の国王・皇帝ということだ。
ここで、神聖ローマ帝国、スペイン、フランス、教皇領を中心とするイタリア半島の諸国、さらにはアドリア海の向こう側に強大な帝国を築いているオスマン・トルコを中心とするヨーロッパの勢力地図が変わっていくこととなる。神聖ローマ帝国はスペインと手を結び、フランスをはさんでいる。そして、フランスは両側を注意深く守りつつも、南のイタリア半島に手を伸ばすことをあきらめていない。
このとき、ローマ教皇はレオ10世となっていた。先の教皇ジュリオ2世は1513年に亡くなったのだ。その前のアレクサンデル6世が亡くなったのが1503年だったから、約10年教皇をつとめたことになる。
アレクサンデル6世は巷間いろいろと言われる人物だが、少なくとも教皇領の地盤を堅固にしようとした点は評価しなければならないと私は考えている。なぜならば、その後を継いだジュリオ2世はフランスの助力、いや兵力に頼り過ぎたために、その後フランスの介入を強く受けることとなったからである。その頃には教皇領の軍事的な基盤は空ろなものになってしまっていた。その負の遺産はレオ10世に受け継がれた。
レオ10世、フィレンツェのメディチ家出身、栄光の時代を築いたロレンツォ・デ・メディチの子供である彼は、その出自にふさわしい特徴を持つ教皇となった。「金」である。その発端は前教皇から託されたサン・ピエトロ大聖堂の大修復である。もともと豪奢な生活をしていた教皇はさらに莫大な金をのどから手がでるほど欲しかった。倹約するという発想はない。
その金策の手段が新たな、後世にまで残る分裂を生むきっかけだったのだ。
この時すでに、ローマ教皇と神聖ローマ帝国にある教会の間で、たいへんなできごとが起こっていた。今の私にもつながってくる話だが、この話はまた後でしよう。
そういえば、「おじいさま」がラテン語を教えてくれている時にふっとつぶやいたことがある。
「メディチ家の御曹司が教皇になったか。ちょっとした見物だな」
皮肉めいた口調の「おじいさま」は、マントのほこりを軽くはたいている。
「私も、教皇様は無理でも、パンプローナ司祭を目指せるほどにがんばらなければ」
そういうと、「おじいさま」は目を細くして微笑んだ。いや、少し困惑していたのかもしれない。
「教皇を目指してみたらどうだ? おまえならできるぞ」
「無理です。司祭に叙階されるのだって簡単ではありません。その先さらに司教になって、大司教になって枢機卿にならないといけないのです。後ろだてなしでなれるはずはありません」
すると、「おじいさま」は静かに、はき捨てるようにつぶやいた。
「おまえは貴族の嫡子だ。あとはどうとでもなる」
そのときの、彼の様子は強く印象に残った。
「おじいさま」は嫡子ではなかったのだろうか。
きっとそれでたいへんな苦労をしたのだ。こんなに知識を持っていて、人を惹きつける力を持っているのに。これからはあまり嫡子であるとか庶子であるという話は彼の前でしないようにしようと思った。
とは言っても、そんな話をわざわざする機会もなかったのだが。
いずれにしても、そのような大きな流れの中にあっては、私たちのナヴァーラも吹けば飛ぶような存在としか思われていなかっただろう。しかし、この機を捉えてナヴァーラを取り戻すために蜂起しようという動きは、フェルナンド王の死去からすぐに現れたのだ。
スペイン全土でも、「カルロス王となれば神聖ローマ帝国の介入は避けられない。すぐに属国とされてしまう」と不安を抱いた者たちが、それぞれ反乱の準備をすすめていた。何しろカルロス王はフランドルの宮廷に入りびたりで、スペイン語も話せなかったのだから不安を抱かれるのも仕方ない。私たちナヴァーラの民にとっては、まさに好機だった。シャビエル城でも私の兄ホアンやミゲルのもとに同志が集まりどう戦っていくか話し合っていた。
しかし、その動きがスペイン側に知られてしまった。
そこで新しい王からは、反乱軍の巣窟であるシャビエル城を破壊せよとの命令が下された。
スペイン兵たちが大挙して押し寄せ、是非もなくシャビエル城を破壊していく。
高い塔からまっさきにうち砕かれ、美しかった城がどんどん形を失っていく。
離れたところから母とそれを見ている私は、泣きたいのをこらえて固く唇を噛んでいた。
私が泣いたら、母はどうすればいいのだ。
誰よりも悲しいのは母ではないのか。
私が泣くまいとしたのはそれだけの理由からだ。
城がほぼ破壊されるまでに11日かかった。
11日間、私たちはその様子をただただ見ていた。
最後に、小さな一区画だけが、家族の居住用として残された。
巨大な瓦礫の山に埋もれた、ひとつの塊のようにしか、私たちには見えなかった。
私たちの城はついに破壊されてしまった。
殺伐とした環境に突如落とされた私たちにはこれまでと全く異なる生活が待っていた。母は気鬱のようになり、あまり話をしなくなってしまった。兄ミゲルが懸命に母をはげましていた。私はまだ10歳だったが、あのすばらしい書斎の本たちのほとんどが打ち捨てられたことに落胆した。こればかりは本当に残念だった。
そして、「おじいさま」の姿がいつからか見えなくなっていた。
その11日の間にいなくなっていた。
城を破壊されているときはその衝撃に耐えるばかりで、彼がいないことに気がついていなかったのだ。
「おじいさまは? どうしたの?」
そう問いかけた私に対して、母は静かに答えた。
「おじいさまは他の所に行きましたよ」
わたしたち家族の重荷になると思って去っていったのか、それとも追い出されたのか、誰かに連れていかれたのか、母もそれ以上は何も語ろうとしなかった。
一方、城が壊されても、ナヴァーラ王国を取り戻すための戦いの火はまだ消えてはいなかった。
2人の兄ミゲルとホアンも反乱を起こすための中心メンバーとして、秘密裏に綿密なやりとりを重ねていた。そこにフランスの支援を得ることとなり、みな虎視眈々と何年もその機会を待っていた。
城を破壊されたときには10歳だった私も、その頃には14歳を迎えていた。
もちろん、蜂起の暁にはそこに加わるつもりでいたのだ。
1520年5月、カルロス王は神聖ローマ帝国(ドイツ)に向けて旅立った。
神聖ローマ皇帝を戴冠するので長期の不在となった。
その長い不在が続く1521年5月10日、ナヴァーラの義勇軍に呼応したフランス軍が先陣を切った。
5月20日、フランスとナヴァーラの連合軍がパンプローナの王宮を攻撃した。ここには守備軍が常駐していて、大半はバスク地方の貴族が中心だった。バスクの民同士が戦うことになった。バスク人は数多の戦いを経て、敵から自らの土地を守り通してきた歴史がある。したがって守備軍のバスク人も大層手ごわかった。弓矢や投石器の使い方も上手く、戦争には馴れているはずのフランス軍もいったん退いて体勢を立て直さなければいけなかったほどだ。この戦いは6時間に及んだ。
そこから15日間、フランス軍が立てこもる王宮の守備軍に対して砲撃を繰り返し、疲弊した城内に突入をかけた。
王宮はナヴァーラの手に戻った。
しかし、それはつかの間のことだった。
すぐさまスペインの援軍が大量に投入され、たった3日間でナヴァーラ・フランス連合軍は手にした城を逃げ出さなければならなかった。そしてパンプローナ南方のノアインで敗北を喫し、兄たちは捕虜となって捕えられた。
カルロス王は自分の不在中に不穏な動きが起こることを想定していたのだろう。
常に十分すぎる数の兵力を置き、ことが起こったときにはすぐに鎮圧するように命じていた。それは忠実に守られた。この王不在の時期にイベリア半島で発生した反乱の大半はまたたく間に鎮圧されている。
私はこの戦いには出なかった。
城の一角で母たちと暮らしながら、捕虜になった兄たちが戻ってくるよう、必死に祈るだけだった。兄たちにしてみれば、弟まで出陣してしまうと母を守る人間がいなくなる。
「私も義勇軍に加わりたい」と言った私に残るよう説得したのは長兄ミゲルだった。
このようなときに、「おじいさま」がいなくなってしまったのが本当に悲しかった。
私はよくシャビエル城の書斎と「おじいさま」の姿を思い出していた。もうこのときにいなくなって4年が経っていた。ラテン語はすでにほぼ習得していたが、しばしば彼のことを懐かしく思い出した。
もしかしたら、「おじいさま」はイベリア半島のどこかの城にキュクロープスのように住みついているのかもしれない。そして、私のように好奇心旺盛な子どもに楽しい話でも聞かせているのかもしれない。そう考えることで、自分の気持ちを納得させるようにつとめた。
カルロス王は反乱をくわだてたナヴァーラ義勇軍の何人かに恩赦を与えた。
その中には私の兄、ミゲルとホアンも含まれていた。
母は泣いて喜び(本当に涙もろいのだ)、私も母に続いてがっしりと、戻って来た兄を抱きしめた。
家族が揃うということは本当に心強いものだ。
また瓦礫のようなシャビエル城にも一筋の光が差し込んできたような気がしていた。
そして、私にも旅立つ時がやってきた。
以前に「おじいさま」に告げた通り、私は父の道を辿ることに決めていた。
まず大学に学び教授と聖職者の資格を得る。そしてできるだけ母の近くで職に就くことである。「おじいさま」の言うとおり、貴族の子弟(嫡子ということだが)には聖職者への道が開かれていた。母の従兄弟マルティンはサラマンカ大学の法学教授をしていて、将来的には司教に叙階される見込みだった。マルティンのいるサラマンカ大学に行けば、有利なことに間違いはなかった。
そんな大きな後ろ盾があったが、私はさきの戦いがあったため、スペインで学ぶ気にはどうしてもなれなかった。父と同じボローニャ大学も考えてはみたものの、イタリア半島は治安がよくないと言う母の忠告を聞いた結果、パリ大学に進学することに決めたのである。
もともと、ナヴァーラ国王のホアン3世(ジャン・ダルブレ)はフランス王家とも近い貴族だったし、パンプローナの蜂起にフランスが同盟を組んでいたということで好感を持っていたのだ。
そこにピレネーを越えた向こう側を見てみたい。パリという大都会に行ってみたい。そのような若者らしい憧れがなかったと言えば嘘になる。
子どもの頃、「おじいさま」に言ったことと同じだ。サンティアゴ・デ・コンポステーラよりローマやパリがいいと。まったく、この頃20歳になろうかというのに、私はまだまだ外を知らない子どもだったのだ。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
四代目 豊臣秀勝
克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。
読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。
史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。
秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。
小牧長久手で秀吉は勝てるのか?
朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか?
朝鮮征伐は行われるのか?
秀頼は生まれるのか。
秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?
甲斐ノ副将、八幡原ニテ散……ラズ
朽縄咲良
歴史・時代
【第8回歴史時代小説大賞奨励賞受賞作品】
戦国の雄武田信玄の次弟にして、“稀代の副将”として、同時代の戦国武将たちはもちろん、後代の歴史家の間でも評価の高い武将、武田典厩信繁。
永禄四年、武田信玄と強敵上杉輝虎とが雌雄を決する“第四次川中島合戦”に於いて討ち死にするはずだった彼は、家臣の必死の奮闘により、その命を拾う。
信繁の生存によって、甲斐武田家と日本が辿るべき歴史の流れは徐々にずれてゆく――。
この作品は、武田信繁というひとりの武将の生存によって、史実とは異なっていく戦国時代を書いた、大河if戦記である。
*ノベルアッププラス・小説家になろうにも、同内容の作品を掲載しております(一部差異あり)。
滝川家の人びと
卯花月影
歴史・時代
勝利のために走るのではない。
生きるために走る者は、
傷を負いながらも、歩みを止めない。
戦国という時代の只中で、
彼らは何を失い、
走り続けたのか。
滝川一益と、その郎党。
これは、勝者の物語ではない。
生き延びた者たちの記録である。
電子の帝国
Flight_kj
歴史・時代
少しだけ電子技術が早く技術が進歩した帝国はどのように戦うか
明治期の工業化が少し早く進展したおかげで、日本の電子技術や精密機械工業は順調に進歩した。世界規模の戦争に巻き込まれた日本は、そんな技術をもとにしてどんな戦いを繰り広げるのか? わずかに早くレーダーやコンピューターなどの電子機器が登場することにより、戦場の様相は大きく変わってゆく。
もし石田三成が島津義弘の意見に耳を傾けていたら
俣彦
歴史・時代
慶長5年9月14日。
赤坂に到着した徳川家康を狙うべく夜襲を提案する宇喜多秀家と島津義弘。
史実では、これを退けた石田三成でありましたが……。
もしここで彼らの意見に耳を傾けていたら……。
If太平洋戦争 日本が懸命な判断をしていたら
みにみ
歴史・時代
もし、あの戦争で日本が異なる選択をしていたら?
国力の差を直視し、無謀な拡大を避け、戦略と外交で活路を開く。
真珠湾、ミッドウェー、ガダルカナル…分水嶺で下された「if」の決断。
破滅回避し、国家存続をかけたもう一つの終戦を描く架空戦記。
現在1945年夏まで執筆
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる

