16世紀のオデュッセイア

尾方佐羽

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第2章 海の巡礼路(西洋編) フランシスコ・ザビエル

とびきり欲深い者に対する論題 1517年~ ヴィッテンベルグ(現在のドイツ)

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<フランシスコ・ザビエル、マルティン・ルター、マインツ大司教アルブレヒト、教皇レオ10世>

 そうだ。私がシャビエル城の破壊を見ながら母と悲しみに暮れていたのと前後して、もう一つ、たいへん大きなできごとが神聖ローマ帝国(現在のドイツ)の中で起こっていた。そのことだけは少し長い話になるが、あらかじめ言っておかなければならないだろう。でなければ、なぜ私たちが築いたイエズス会という新しい修道会がすぐさまローマ教皇庁や国主に認可されたのか理解されないはずだから。

 1517年、神聖ローマ帝国ヴィッテンベルグ大学の神学博士、司祭でもあるマルティン・ルターが投げかけた質問がすべてのきっかけである。この「贖宥(しょくゆう)の効力を明らかにするための討論」という95の論題からなるラテン語の文書が――始めは緩やかに、次第に激しく――ヨーロッパにおける根幹の宗教、キリスト教を揺るがすことになるのだ。

 ルターがそのような質問を投げかけることになる原因から話そう。本質は単純なのだが、いきさつはやや複雑だ。それは贖宥状(しょくゆうじょう)にまつわる利害絡みの話だ。

 人間の欲というのはなかなか制御できるものではないが、その典型的な、そして壮大な例といえるかもしれない。聖職者たちによってそれがなされるというところがちょっとした喜劇でもあり、悲劇でもある。当時は私もそんなふうに皮肉めいた見方をしていた。

 私が回ってきたアジア地域では贖宥状の販売などしていない。胡椒を代わりに引き受けることはあるかもしれないが、それは個人的な利害とはまた異なる話だ。この地の民は知らないだろうが、贖宥状というのは一般のキリスト教の信徒が「自らの罪の赦(ゆる)し」のために買い求めるものである。「金銭で罪が赦されるのか」というとそういうことではない。信徒の罪を、聖職者が代わりに担う証明書と理解してもらうといいだろう。聖職にあるものは清貧につとめ、一般の信徒の分も徳を積むのでそのようなことができるという趣旨である。したがって贖宥状に対して支払う金銭は「布施(ふせ)」ということになる。

 贖宥状はこれまでにも挙げたらきりがないほど発行されてきた。最初は十字軍遠征に参加できない代わりに贖宥状を買うという趣旨だった。兵役か税かということだ。比較的近年でいえば1500年の聖年に教皇アレクサンデル6世が発行したものなどは有名だろう。あれは聖地巡礼に行けない信徒に対して聖地巡礼と同じ意味を持つということで発行された。そのように何か大きな目的か区切りがあるときに発行されるのが常である。そして贖宥状の発行を決定できるのは教皇だけである。
 誰も彼もが発行していたら、貴重なものではなくなってしまうだろう。

 ルターははじめ贖宥状のすべてを否定していたわけではなかった。当時の神聖ローマ帝国領内における贖宥状の大量販売について指摘したのである。

 そこで贖宥状を大量に販売した――表現が悪いが――元締(もとじめ)がいた。マインツ大司教のアルブレヒトだ。この地の有力な貴族ホーエンツォレルン家の出身である。アルブレヒトは他の教区の大司教座(地位)をふたつ持っていたが、マインツ大司教は神聖ローマ帝国で最高の位置にあったので、さらにその地位が欲しかったのだ。
 なぜそんなに大司教になりたいのか、不思議に思うかもしれない。神聖ローマ帝国ではマインツ、トリーア、ケルン大司教がイコール選帝侯、連邦の大領主とされていたのだ。そして他の役職を担う者を加えても選帝侯の座は7つしかない。皇帝の側近であり政治も宗教もつかさどる。
 それを同時に為すのは難しいことだと私は思うが、神聖ローマ帝国はそのような仕組みで動いていたのだ。

 これで、なぜアルブレヒトがマインツ大司教になりたいと思ったかは分かってもらえるだろう。

 領内ではすんなりと通ったが、問題はローマである。大司教座は一人ひとつという取り決めがある。それは当然なような気もするのだが、とにかくアルブレヒトは複数の司教座を一人が持てるようローマに働きかけることにしたのだ。教皇レオ10世はどう答えたか? 金銭である。

 もともと、教皇庁では新任の枢機卿から多額の献金を得ることが通例となっていたが、三つの大司教座に対する見返りは目を剥くほど高額であった。マインツ大司教座が最も高く、3万デュカートとか、金貨1万2300枚だったとかいう話がある。いずれにしても一国の年間予算を超えるほどの額だ。そこでアルブレヒトは考えた。地元の富豪フッガー家に金を借り、教皇に対し費用(皮肉で言っているのだが)を支払う。教皇にはかの地における贖宥状の独占発行・販売を認めてもらい、自身と協力者(聖職者)が神聖ローマ帝国領内で大量に販売する。その販売益で教皇に寄付した金をフッガー家に返済し、自らの方にもいくらか寄せつつ、贖宥状本来の目的である「サン・ピエトロ大聖堂修築」にも寄付をする。




 教皇レオ10世は自身も富豪メディチ家の出身なので、このようなやり方に違和感を持たなかった。それはたいへん残念なことだったが、ローマも認めた形で、マインツ大司教アルブレヒトが中心となって発行し、ドメニコ会の演説が上手な修道士が販売をし、贖宥状は売れに売れたのである。貴族と官吏とその他の民衆では販売する価格も異なっていたというからよく考えたものである。

 この地だけで、これだけ大量の贖宥状が販売されていることに疑念を持つ者はいた。ザクセン選帝侯フリードリヒ3世がその筆頭である。結果的に帝国の金がイタリア(ローマ教皇庁)に大量に流出するのである。民衆が自主的に購入しているとはいえ、これは見過ごすことができないと考えた。そこで彼はザクセンでの贖宥状販売を禁止したのだが、効果はなかった。禁止されれば、その目的がどうであれ遠くに赴いてでも欲しくなる。民衆とはそういう性格を持つものである。

 そんな中で、ザクセン領ヴィッテンベルグの神学博士が登場するのだ。

 マルティン・ルターはこのことに疑義を申し出た。大学で聖書解釈を熱心に講義する傍らで、贖宥状が大量に売られているのを見て、ただ「おかしい」と思ったのだ。そこで、彼はまずアルブレヒトを含む聖職者たちにこの問題について討論しようという文章をラテン語で書いた。それからドイツ語に訳したものも大量に印刷して広く配布した。
 活版印刷の技術を発明したのは、前世紀のグーテンベルグだが、この頃はまだ古典書などの印刷が中心であった。ここで、ルターがこの文書を大量に印刷し、続く文書や書物も同様に印刷を重ねたことで、全ヨーロッパにこの問題を知らしめることとなったのである。

<真理への愛、そしてその真理を探究したいという熱情から、これから記す事柄について、文学と神学の修士であり、この地の神学正教授である司祭マルティン・ルターが司会をしてヴィッテンベルクで討論を行いたい。これに参加して直接見解を述べることができないなら、不在者として、書面で参加してほしいと願っている。私たちの主イエス・キリストの名によって、アーメン>
(引用「贖宥の効力を明らかにするための討論」冒頭 「宗教改革三大文書」マルティン・ルター 深井智朗訳 講談社学術文庫)

 このような呼びかけではじまるこの文書は、「罪の悔い改め」とはどのようなことか聖書の文言を引きながら繰り返し、贖宥状のありかたに対して問いかける。はっきり批判している部分も少なくない。

<また、なぜ教皇は、財政的に今日では〔ローマの大富豪である〕クラッススより富を得ているのに、貧しい信徒たちのお金ではなく、自らのお金でこの聖ペドロ(サン・ピエトロ)大聖堂だけでも建ててみようと思わないのか>
(引用 前出と同じ 通算86条)

 これは教皇、贖宥状販売で莫大な利益を得ているアルブレヒト大司教に対する痛烈な批判だった。それまでもローマ・カトリック、ひいてはその代表である教皇に対する批判というのは少なからずあったし、痛烈に批判した者が罰せられることもあった。前世紀のことになるが、フィレンツェのドメニコ会修道士サヴォナローラは教皇に破門された上、最後は火刑に処せられた。教皇庁に反する者は異端とされ、破門される道筋を辿るのが普通だった。

 おそらく、マインツ大司教から報告を受けた当初は、教皇レオ10世もルターの行動をそれほど大したことだとは思っていなかったと思われる。すぐ消し止められる程度の火だと。

 しかし、火は小さいうちに正しく消さなければならない。
 それをあなどっているうちに、ろうそくほどの火が大火事になったのだ。
 ローマ・カトリックが危機に瀕し、ヨーロッパの列強を二分するほどの大火事に。

 スペイン、ナヴァーラも含めてイベリア半島はかたくななほどにカトリックの信仰を守り続けてきた。かつてフェルナンド王とイザベラ女王が「カトリック両王」と呼ばれたように。その功罪は種々あるかと思う。しかし、貴族の次男が聖職者になることはあっても、聖職者が直接権力を振るうことはなかったし、贖宥状の販売で莫大な利益を得るような例も見られなかったのは事実だ。少なくとも、私の父ならば決してこのようなことはしないだろう。私はパリでルターのこの論題を知ることとなったが、神聖ローマ帝国における贖宥状の問題については、やはり疑義を持たざるを得なかった。




 ルターの出した論題はまたたく間に神聖ローマ帝国全土に広がった。そして、アルブレヒトの贖宥状販売という小さな話にとどまらず、民衆を巻き込んだ政治運動にまで発展していったのである。論題の翌年、ルターは1518年にはアウグスブルグで異端審問を受け、1519年にはハイデルベルグやライプツィヒで教皇庁の特使との間で討論を行なった。翌1520年、ルターは自身の考えをより明確に表明するために、「キリスト教界の改善について」、「教会のバビロン捕囚について」、「キリスト者の自由について」の著作を次々と印刷した。この中でルターは聖書をすべてのもとにすること、そこにない新たな秘蹟や習慣は廃するべきであることなど、その後の方向を決定付ける重要な説を書いている。

 そして翌1921年、ルターは教皇から破門され、帝国領内から追放された。

 しかし、ルターに同調した者たちは民衆を率いて教会の打ちこわしをはじめるなど現実的で、かつ暴力的な行動に出るようになった。世の動きはルターが当初想定していなかった方向に向かっていくのである。

 私がパリに向かったのはそのような時期だった。

 神聖ローマ帝国領内では、ルターの同調者であったカール・ミュンツァーが指揮を取る形で、農民戦争がはじまっていた。動乱であった。ルターの訴えた贖宥状批判は10年も経たないうちに戦争まで起こすようになっていたのである。いかに既存の教会のありかたに不満を持つ人が多かったかという見方もできる。

 そして、それを収拾するのがスペイン国王カルロス1世(かの地ではカール5世)なのである。言うまでもないことなのだが、私は少し奇妙な気持ちがした。離れた国の王を兼ねるというのは難しいことだろうと、つい考えてもみた。私は19歳のときにパリに向かうことになったが、カルロス王もまだ25歳だったのだ。

 ずいぶん、ルターの話が長くなってしまった。

 彼の論題は結果的にローマ・カトリックではない新しいキリスト教を築くきっかけとなる。それは西ヨーロッパ各国の利害とも絡み合い、ローマ・カトリック教会が思っていたよりずっと早く広がっていった。今もまだその渦中にある。

 その話はまた後でするだろう。
 ただ、私たちの活動も、対抗勢力としてのルターの論題がなければ、これほど早く発展させることができなかっただろう。あるいは存在していなかったかもしれない。

 私が大きな転機を迎えようとしているそのときに、ルターの運動がはじまっていた。それは運命ともいえるだろうし、神の意思であるともいえる。


 さて、私は1525年の冬にナヴァーラのシャビエル城を出た。

 パリでの大学生活は、すなわち私の人生の転機だったと言ってもいい。いや、転機では軽すぎるかもしれない。その後の人生すべてがひっくり返ってしまったのだから。
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