16世紀のオデュッセイア

尾方佐羽

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第2章 海の巡礼路(西洋編) フランシスコ・ザビエル

「フランス人の道」を行く 1525年 パンプローナからパリ

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<フランシスコ・ザビエル、母マリア・アスピルクエタ、「おじいさま」、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ジャンヌ・ダルク>


 私は19歳ではじめて故郷のナヴァーラから外に出ることになった。行き先はフランス・パリだ。かつて「おじいさま」に語ったように、私がはじめて旅立ったのは当時最も栄えていた都市だった。母の従姉妹のマルティン・アスピルクエタは自身が教授をしているカスティーリャのサラマンカ大学に来ないかとずっと言っていたのだが、あえてパリを選んだ。その理由はさきに話した通りだ。

 旅立つ先がどこにせよ、私の長い長い旅の起点はここだった。

 パリへの旅は私にとっては未知なるものへの挑戦、いや冒険だった。雄大なピレネーを越えて向こう側に行くと考えただけで、心臓の高鳴りが止まらなくなったほどだ。
 出発のとき、母マリア、兄ミゲルとホアンがパンプローナへ続く街道に出るまで見送りに来てくれた。すべての手続きは万全に済ませていたが、母はずっと心配そうに私を見ていた。それでも最後には自分の揺れる心を振り切るように笑顔で言った。

「あなたが帰ってくる場所はここなのです。いつでもあなたのことを思っていますよ、かわいいフランシスコ。神のご加護がありますように」

 そう言って私を強く抱きしめた。もう母の背を越えてどれぐらい経つだろうか。それほど大きくなった息子でも、この母は赤子のときと変わらない、大きな慈しみの心で抱擁してくれたのだ。

 それなのにこのときの私は、親の心を軽く考えていた。新しい世界に出て行く期待だけで胸がいっぱいになって、涙を拭き、笑顔を無理にこしらえた母にすっと背を向けて、私は歩き出してしまったのだ。隣国とはいえ、言葉も違う異国に出ていく末っ子の私をどれほどの思いで送り出してくれたのか。もう少し、何か思いやる言葉が、もう少し、母とゆっくり語り合う時間が持てたら、どれほどお互いの慰藉(いしゃ)になったことか。

 それを思うと今でも私の胸がぎゅっと締め付けられるような心地がする。

 母とその後、再び会うことはなかったのだ。


 パリに向かうために、私はパンプローナに出てからロンセスバージェスの方へ通じる細い道を進んだ。パリに至るにはどの町を通っていくか、距離はどれぐらいか、事前に私は暗誦ができるほど繰り返していた。今でもよく覚えている。
 ロンセスバージェスからピレネーの山中にある国境を越えてフランスに。サン・ジャン・ピエ・ド・ポー、ボルドー、サント、ポワティエ、トゥール、ブロア、オルレアン、そしてパリに至る。その道はローマ時代に開かれた古いものだ。ピレネー越えで険しい箇所があるが、フランスに入ってしまえば平坦な道が続く。その距離は180レグワ(実際は約880㎞)ほどではなかったかと記憶している。もちろん徒歩でいくのだ。

 冬のことだったので、行程のはじめはたいそうきついものだった。そうだ、山の寒さというのは格別に厳しい。若いから耐えられるのだろう。パンプローナから9レグア(約45km)ほど進んだロンセスバージェス(標高950m)以降、国境を越えるまでの道のりが一番の難所だった。

 ロンセスバージェスがナヴァーラ側の最後の村になる。ピレネーの向こう側もナヴァーラと同様バスク地域(バス・ナヴァール……低ナヴァール)ではあるが、フランス領となっている。

 ロンセスバージェスはかつてのシャルルマーニュ(カール)大帝とその重臣ローランゆかりの地として有名なところだ。本当に小さな村であるが、ピレネーを越えてくる巡礼や旅人にとって、イベリア半島の入口にあたる場所にあるため、宿や教会、修道院など必要なものは全てある。もちろん、山越えの旅をするために必要な杖なども備えている。

 私が一人で宿屋に泊まったのは、ここが初めてだったことを告白しなければならないだろう。馴れてしまえばどうということもないのだが、やはり初めてというのはどことなく緊張するものだ。そのせいか、どことなく気取ったような、生意気な口調になってしまったりする。食堂でもその調子で酒を頼んでみた。それをまた先方の店主も見抜いてニヤニヤしたりしているのだ。今思い出しても恥ずかしく、おかしい。ただ、小さな村の宿屋であるから、そこはバスク人らしい、同胞に対する人懐っこさが溢れていたと思う。

 ここで旅人は山の風景や石造りの聖堂でも眺めてゆるりと過ごしたくなるが、そういうわけにもいかない。パンプローナに行くにも、ピレネーを越えてフランスに行くのもまるまる1日かかる。皆そそくさと朝早く発っていく。
 ロンセスバージェス村の背後に広がる森を過ぎると、急な坂となり、一気に標高が上がる。ナヴァーラ寄りのイバニェタ峠を越えるまでには2時間ほどだがそこは通過点、その先にあるレポエデール峠(標高1430m)までは一気に越えなければならない。私はよい天候に感謝した。ここは雪が降ってしまったら容易に通り抜けることができない。

 ここで一心不乱に進まなければ、暖かい宿で眠ることができないのだ。気が急くばかりだった。

 私は寒さに震えながらも、重い荷物を抱えて必死に峠までの道を登った。
 ようやくレポエデール峠まで着いたとき、私はふと来た方角を振り返った。重たい空は灰白色に染まっていたが、眼下には冬の枯れた色に染まった広大なナヴァーラの大地が広がっていた。
 そのとき私ははじめて、自分が故郷を離れたのだということを痛いほど感じた。頬を凍らせるほどの寒風のせいもあったのだろうか。ここからならまだ戻ることもできる、という考えがふと頭をよぎったりもしたのだ。

 私はまた故郷に背を向けて歩き出した。
 そのとき、ふっと「おじいさま」のことが頭に浮かんだ。

 私がパリに行くこの道は、まさにサンティアゴ・デ・コンポステーラに向かうための「星の巡礼路」だったのだ。ロンセスバージェスでは何人かの帆立貝をぶら下げた巡礼者に出会ったが、それはパンプローナでも見慣れた姿であったので、特に気に留めていなかった。ここでふっと、私は幼い頃「おじいさま」が私に尋ねたことを思い出した。

「フランシスコ、この先の広い道は巡礼の人々がよく通るようだが、あれはサンティアゴ・デ・コンポステーラに行く道なのか」

 そうだ、ここは“フランス人の道”。
 私が訳知り顔で「おじいさま」に語ったのだ。歩いたこともないのに。

 私はもう一度ナヴァーラの方を振り返った。西方に在って、ここからは見えない遠い聖地のことを思いながら。

 「おじいさま」はサンティアゴに行ったことがない。巡礼路を通り過ぎただけだと言って、遠くを見つめていた。彼はサンティアゴに行きたいという切なる希望を持っていたのではないか。私の城の客としていたときもずっとそれを欲していたのではないか。

 今、彼はどこにいるのだろう。

「もしかすると、おじいさまは星の巡礼をしているのかもしれない」と私はつぶやいた。

 私もその巡礼路のほど近くに住んでいたにも関わらず、一度も巡礼をしていない。それどころか、サンティアゴとはまるきり反対のパリの方角に向かうのだ。行ってもいないのに、まるで帰りの巡礼者ではないか。

 私は峠を歩きながら考えていた。おじいさまはなぜ巡礼をしたいと思ったのだろうか。「おじいさま」が跪いて祈る姿を私は見たことがない。敬虔なキリスト教徒だとは思っていなかったのだが、もしかすると人目のないところでひたすら祈る日々を送っていたのかもしれない。
 彼が城からいなくなってもう9年も経つ。印象的ないくつかの会話や出来事のほかは私の記憶もだいぶ曖昧になっていた。幼少の頃キュクロープスのようだと思っていた「おじいさま」の顔もはっきりとは思い出せなくなっていた。
「おじいさまにキュクロープスの話をしたら、不愉快にさせただろうな」
 私は回想に耽りながら、国境を越えようとしていた。

 そこには雨風にさらされて古びた看板が据えられていた。
「サンティアゴまで160レグア」(約800km)

 ああ、ここが分岐点なのだ。

 数多の旅人たちがここを通り、サンティアゴに向かう。ピレネーを越えて、カンタブリア山脈を縫うように歩く星の巡礼たち。いつか私も学を修めて戻ったら、巡礼の旅に出てみたい。
 そして私は国境を過ぎ、巡礼者が集うフランスの村、サン・ジャン・ピエ・ド・ポーへの道を急いだのだ。




 サン・ジャン・ピエ・ド・ポーに至ると、当たり前のことだが、行きかう人々の中にフランス語がちらほら聞こえるようになる。ここはバスクの土地なので、バスク語はまだまだ健在なのだが、それでも異国の雰囲気がここであらわれてきたように思う。私は、ラテン語、スペイン語、フランス語については20歳になるまでにあらかた習得していたので、人々の言っていることは理解できる。そこで戸惑うことはなかった。しかし、ピレネーの山を越えただけで、私の知らない世界が目の前に現れるということは大変な発見だった。

 自分がこれまでいかに狭い場所にいたのか、世界はどれほど広いのか。まだ19歳の私にとって、その感覚は畏怖を覚えるほどのものだった。

 アントニオ、正直に言うが、その感覚はその後もずっと自分の中に留まっている気がするのだ。ただ、このとき私はまだ若かったので畏怖の心を飼いならすのに時間はかからなかった。

 ピレネーの山々が遠ざかるにつれ、フランス語で道行く人と話をすることも自然と身につくようになる。そしてボルドーが近づくにつれ、馬の姿が頻繁に見られるようになる。ナヴァーラに馬がいないわけではないが、やはり住む人間が増えるに従い、馬も比例して増えるものなのだろう。目的地であるパリに一刻も早く到着したいと気がはやるばかりになる。しかし、ボルドーからパリはまだまだ遠い。距離を示すリュー(1Rueはおよそ4km)という表示を見てすぐに頭の中で計算できるようになった。

 背にしたピレネーの山々はもうはるか彼方になった。

 アントニオ、あなたはトゥールとポワティエの戦いを知らないだろう。

 イベリア半島がイスラム国家の後ウマイヤ朝に侵略された頃、彼らはピレネーを越えてこの場所まで攻め込んできたのだ。ここでそれを食い止めたのが、フランク王国のカール・マルテルだ。ポワティエでの戦闘でフランク王国軍は圧倒的な優位に立ち、司令官を失ったウマイヤ軍は一夜で撤退していった。それはもう、800年ほど前のことになる。
 イベリア半島からイスラム勢力を追い払った、いわゆるレコンキスタ(国土回復運動)が終わったのは私が生まれる10年前のことだ。だから、私も父に話を聞いたぐらいで昔話ぐらいに考え、あまり自身の問題として考えたことはなかった。ナヴァーラがイスラム教徒との戦いで大きな影響を受けなかったこともある。

 しかし、レコンキスタ後、影のように現れた問題があることを、私は大分後になってこの身で知ることになる。

 レコンキスタの頃のような荒々しい城砦都市を想像していた私は、ブロアに至る道筋で目を見張った。

 悠々と流れるロワール川のほとりに、今まで見たこともないほど豪奢な新しい城を見たのだ。フランス王、フランソワ1世の居城アンボワーズ城である。そしてその周囲に宮殿と同様に新しく美しい街並みが広がっていた。ここがパリなのかと一瞬疑ったほどだ。いや、パリはもっともっと大きな街だったのだが。

 ブロアに辿りついてから、私はあの宮殿についての話を宿の食堂で尋ねてみた。食堂の給仕は肉と野菜の煮込みを私の前にどかっと置いて、立て板に水とばかり語り始めた。私はうなずくばかりだった。

 あの城は何代ものフランス王の居城であったこと。そしてイタリア人の建築家や技師を招いて建築したことなどである。言うなれば、フランス王はイタリア風が好みだったということらしい。今日に至るまで、フランスはイタリア半島に繰り返し進攻しているが、領土が欲しいという単純な理由だけではないように思えた。高慢で蓮っ葉(はすっぱ)な女を何とか篭絡(ろうらく)しようとしている優男(やさおとこ)のような……それは給仕が言っていたことだ。確かに例えは悪いが、イタリア風にするのはそのような憧れなのだろう。

 現在のフランソワ1世は1516年、この地にレオナルド・ダ・ヴィンチを招いた。フィレンツェ出身の大芸術家はそれまでフランスの治世下であるミラノにいた。だからフランス王が堂々と招くことができたのだ。

 イタリア半島はずっと混乱の中にある。

 ダ・ヴィンチはその中で転々と暮らすことがいやになったのかもしれない。それはまた給仕の言っていたことだから、本当のことは分からない。フランソワ1世は彼を大層篤くもてなした。アンボワーズ城の近くに小さな城を用意してダ・ヴィンチに提供し、多額の年金を与えた。

 彼はそこで、壁画や肖像画を描くことはなかった。

 そのかわり、アンボワーズ城を取り巻く街にさまざまな改善が施せるのではないかと提案した。目の前のロワール川を利用して新たな水路を築くことに始まり、そこから貨物の運搬のために街道を整備すること、戦時には大量の兵士が宿営できる場を作るなど、それまでこの地について誰も考えたことのないような提案ばかりだった。

 フランソワ1世はそれを喜んで受け、大いに尊重するとともに、彼の建築に対する知識をフランス人に伝えてほしいと依頼した。古くからイタリア半島を美しく彩る建築技術、その手段や方法を習得できるならば願ってもない。その最も優秀な教師がいるのだ。
 一国の王でなくとも、ぜひ育てたい大輪の花だっただろう。

 ダ・ヴィンチはここで3年を過ごして、1519年に亡くなった。私がここを通りかかる7年前のことだ。
 この大芸術家、大建築家のことを私は直接知らない。だが、アンボワーズ城とそれを取り巻く街の美しさ、そしてレオナルド・ダ・ヴィンチの最期の数年についてはこの時に知ることができた。

 後年、その話を、今のように、思い出としてある人に話したことがある。
 アントニオ、その人は涙を流した。
 ダ・ヴィンチのことを知っていたのだ。
 そしてアンボワーズ城も。
 
 ダ・ヴィンチがどのような思いを抱き、ロワール川のほとりで最後の3年を過ごしたのか。彼は分かったのだと思う。
 彼しか分からなかったのかもしれない。

 さて、ブロアから進もう。
 その後でオルレアンを通った私はフランスを救った一人の少女についても思いを馳せた。
 ジャンヌ・ダルクだ。

 フランス、イギリス間の100年戦争のさなか、フランスの辺鄙(へんぴ)な田舎であるドン・レミ村出身のジャンヌ・ダルクは12歳のときに、「イギリス軍を追い払い、フランス王太子を戴冠させなさい」というお告げを得た。彼女は周りの人間や聖職者が嘲笑するのも厭わず、一心にそれを求め自身の理解者を増やしていった。そしていよいよ、彼女自身が甲冑を身に付けて戦いに身を投じることになる。

 この男装の乙女は数々の目覚しい役割を果たしたあと、19歳で異端者として火刑になった。それから25年ほど後、彼女の母親からの懇請を受けて「復権裁判」が行われ、異端であるとされたことは覆った。その背景を見れば宗教というよりも戦争の犠牲者である彼女に、私は同情を禁じえなかった。

 もし、自身の住む場所や故郷にどかどかと攻め入ってくる軍勢があったら、身を挺しても守らなければと思うことは自然な感情である。自身もそのような場にいたのだから。

 私はシャビエル城が打ち壊されるのをただ見ていた日々を思った。あの城を建て直せるほどの身分になる。それが私がパリに行く目的なのだ、とこの乙女に密かな誓いを立てたのだ。

 パリに着きたいとはやる心が大半で思索が少々、あとはわずかな郷愁を友にして私の初めての長旅は過ぎていく。

 このような街道沿いにもさまざまな歴史がある。さまざまな背景を持つ人々がいる。それを知っているか知らないかで、そこに思いを馳せられるかどうかで見える景色も考えることも異なってくるものだ。何も考えずに見る景色も素晴らしいものではあるのだが。

 そのことは後で訪れるたくさんの場所を見るたびに、私が繰り返し何度も思ったことだ。ポルトガルにしても、インドにしても、日本にしても。

 しかし、戦うジャンヌ・ダルクと同じ年頃だった私には、すべてがまだ「兆し」でしかなかった。目に見るもの、耳で聞くもののすべてが後の自分にどのようにつながっていくかなどということは皆目分かるはずもない。私の頭の中にはパリのことしかなかった。

 パリ、何と魅惑的な響き。そこには私が過ごす大きな大きな学舎(まなびや)があるだけではない。何十万もの人々が暮らす大都市だったのだから。
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