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第2章 海の巡礼路(西洋編) フランシスコ・ザビエル
ピエールとアリストテレス 1526年~ パリ
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<フランシスコ・ザビエル、ピエール・ファーブル、アリストテレス、イグナティウス・ロヨラ>
そして、わたしはパンプローナからパリにたどいついた。
パリ大学バルバラ学院、ここから私の新しい生活が始まった。
当時のパリ大学について、少し説明したほうがいいだろう。
パリのセーヌ川左岸にある、カルチェ・ラタン(フランス語でラテン語の地区の意味、文教地区に相当する)にはパリ大学に属する50ほどの学院(コレッジョ、カレッジと同じ意)があり、それぞれ学科などに特色を持っていた。この地区には30万人ほどが住んでおり、ヨーロッパ各地から4千人ほどの若者が集まってきていた。その50の学院の中で私が入学を希望していたのは聖バルバラ学院だった。
1460年創立のこの学院にはイベリア半島(スペイン、ポルトガル)出身者が多く、進歩的な気風の学校だった。50も林立しているのだから、個々の学院はそれほど広いものではない。バルバラは大きな建屋が2つ学舎として向かい合い、その奥に寮の建屋などがこじんまりと配置されている。隣には聖モンタギュー学院があったと記憶している。
パリ大学の履修内容は人文・雄弁術を学ぶ基礎科目(準備期間、日本の大学で言う一般教養)が2年あり、その後3年間哲学を学んで修士(2年目で学士資格を得られる)となる。そこからさらに専門課程である神学・法学・医学・哲学の各課に進んで、全部で7年学問を修めたのちに博士となる。
私は1526年の早春にパリに着いてから、入学のための準備を始めた。試験はラテン語で行われるので、ラテン語を徹底的に勉強しなければならない。私はさきにも述べたが、優秀な家庭教師――「おじいさま」のことだが――がいたので不安にはならなかったものの一生懸命に勉強し、フランス語にもさらに通暁(つうぎょう)するべく書物を読み漁った。古典はおしなべてラテン語で残されている。
ラテン語はその中でも特に、キリスト教の聖職者には必須の言語だった。聖書もすべてラテン語だったのだよ、アントニオ。何人であろうがラテン語で覚えたのだ。市井の人々には意味が分からないので、説明をつけなければならなかったとしても。その点では日本のボンズ(僧侶)が朗誦していた仏教の経典も同じだろう。あれはもともと、インドからはじまったものが中国を経て日本に伝わったのだから。
皆が同じ言葉でそれを聴き、読むことが大切だという考え方だ。
自国のものではない言葉を繰り返し書き写し、それを音にして皆が読むことで、尊さを表すということになるだろうか。
キリスト教においてそれを変えた一人が、さきに話したマルティン・ルターだ。
彼はそれまで誰もしていなかったことに手をつけた。
聖書をドイツ語に訳したのだ。彼が最初に発した「論題」についても、最初はラテン語だったが、そののちの著作はドイツ語で印刷するようになった。どんな身分の人間でも、あまねく読めるものにする。それがどれほど画期的なことであるか。贖宥状の話でも言ったが、グーテンベルグが発明した活版印刷を使って、ルターはドイツ語の聖書を大量に印刷した。それは彼が主張していたこと、つまり聖書をすべての基準にするという趣旨に沿ったものだったのだ。
考え方が行動を決める。そして、受け取る側がまた行動する。それにより波のように広がるものがあるのだ。言葉はこの場合、軽やかな水のように働く。
ルターの場合はそう、アジアの海でいうなら大時化(おおしけ)のようなものだったかもしれない。
1526年10月1日、晴れて私は聖バルバラ学院に入学した。
この新しい学期のスタートに、学生たちは胸を躍らせて集っていたのだが、皆一見ではどこの国の出身か分からないこともあり、緊張した空気が流れていたのだった。学舎(まなびや)と学生寮は同じ敷地にあったので、学院自体が大きな家のようなものだ。そのうちに気楽に誰とでも話を交わせるようになった。
大学の1日の生活は基礎科目と修士の期間で多少異なっていたものの、おおまかに記憶している時間割をあげてみよう。
4:00 起床 朝の祈り
5:00 第一授業
6:00 ミサ後朝食(パンと水、時々ぶどう酒)
8:00~10:00 授業、復習
11:00 昼食(肉食、小斎の際は魚)、野菜、果物
12:00 忠告など、復習、テスト、その他
15:00~17:00 授業、復習
18:00 夕食、その日の復習など
20:00 夕べの祈り(聖堂にて)
21:00 消灯
なかなか規則正しい生活だろう。
寮で私と同室になったのはピエール・ファーブルである。イタリア半島の左側の根っこにあたるサヴォイア公国の出身である。生まれ年が私と同じなのは珍しくもないが、誕生日が1週間しか変わらない。彼は4月13日生まれだ。それを知ってピエールは大層興奮していた。
「まるで、君と僕はふたごの兄弟のようなものだね。何となく他人のような気がしなかったんだよ」
私は少しきょとんとしながらも、ピエールの生まれつきのものに違いない、素直な人の好さを大層気に入った。あまりおしゃべりはどうかと思うが、一言も喋らずむっつりしている人間が同室になることを考えたら、ずいぶん気が楽ではないか。
サヴォイアはイタリア語とフランス語を使っていたが、ピエールはフランス語が自分の言葉だった。アルプスの麓にある彼の故郷はもともとフランスの影響が強い地域らしい。したがってパリでの生活には苦労がない。
彼の両親は農民で、ピエールもそのままならば農業に就くはずだったのだが、幼少から学問に秀でていたので、遠く離れた学校に通わせてもらい、さらに頭角を現した。そして、彼の能力を十分に生かせて、かつ貴族の出でない者にも門戸が開かれている職業を検討したのだ。
その結果彼も、司教になるべくパリにやってきた。
ピエールは私に素直な賞賛の目を向けて言った。
「実は、10歳の頃から習っているのだが、僕はそれほどラテン語が得意というわけじゃないんだ。不自由はしなくなったけれど。フランシスコは完璧にラテン語を習得しているから授業で困ることはないだろう。よほどいい先生についていたんだね」
「ああ、そうだ。本当にいい先生だった。お金もとらなかったし」
「ただでラテン語を教わったのかい? すごいね」
「そう、うちに住んでいたキュクロープスに」
「キュクロープス!? きみのうちはメテオラのてっぺんだったのかい?」
そう言ってピエールは笑った。
メテオラはギリシア・セサリア(テッサリア)にある。絶壁といっても差し支えないほど、高い高い岩山の上に建つ修道院群が特異な光景を見せている。これを見た人は、あの絶壁にどうやって建物を建てたのか必ず不思議がる。背負子(しょいこ)に木材を少しずつ積んで、修道士が岩山を這い登ったのだろうが、これほど運搬に手間をかけた建築物はあまりないと思う。世間から隔絶した環境で瞑想するためにそのような立地を選んだのだが、確かにこれほど隔絶された場所もないだろう。それは正解だったかもしれない。この当時、ギリシアを制圧していたオスマン・トルコもメテオラには手を出せず、容認していたのだから。修道士たちを追い出そうとすれば、逆に岩山から突き落とされるだけではないか。そんなことはしないと思うが。
そのような途絶された場所ならば、キュクロープスの一人や二人、住んでいても不思議はない。
私は彼の、そのような想像力豊かなところも気に入った。
そして、彼は地中海の美しさについてよく話した。彼の生国サヴォイアは小さいながら山もあり海もある。彼は山育ちだが海が好きで、地中海を見るためだけにしばしば馬を借りて遠乗りに出たという。
「地中海の色は紺碧(Azure)だと言われているけれど、僕はもっと青いように思っているよ。ナポリまで行くとまた違うのだろうね。あの海に小船を出して、のんびりと旅をするのが僕の夢だ。学生のうちにぜひしておきたい」
「今は少し物騒なように思うけど」と私が付け加える。
ピエールは眉を真ん中に寄せてうなずいた。
「まったくだ。イタリアは今、どうなるかわからないぐらい不安定だ。地中海はあんなに美しいのに、人の心はそうではないようだ。フランシスコは地中海を見たことがあるかい?」
「あいにくと。山の民だから」と私は肩をすくめた。いや、正確には盆地の民なのだが。山間(やまあい)の民だと言えばよかったかもしれない。
ピエールは目を輝かせて、「それなら休暇のときにうちに遊びに来るといい。一緒に地中海を見に行こう。君にはぜひ見てほしいな」と誘ってくれた。
私はこの時、鼻っ柱の強い性格だったと思う。
それを山間の民(バスク人)の特徴のせいにしては失礼にあたるので、述べておこう。この大学で優秀な成績を修めて高位聖職者、はっきり言うなら司教になることを初めから目的にしていた私は、他のことに無駄に時間を使いたくないと思っていた。そのような態度は表に出るものだ。他の人から見れば、さぞかし険(けん)ある人だっただろう。しかし、ピエールの存在は私の頑なな部分をほぐしてくれたと感謝している。彼が陽気に語り、素直に人の話を聞く人間でなかったら、私は頑ななまま学位を修め、頑なな聖職者になっていただろうと思う。
私たちの部屋はそれなりに古ぼけていて、貴族の邸宅のように豪華ではなかったが十分に温かい時間を過ごすことができた。
ピエールがそのような人物だったので、彼を通じた友人が何人もできた。私がラテン語を先生並みに操れるとピエールが宣伝して回ったようだ。授業の後で質問しに来る人間が増えた。そもそも教授に聞くべきであるが、その際に手厳しい指摘を受けるのは誰しも躊躇するものだ。
担当のペニャ教授に指導を受け、基礎科目を修めた私は次の修士課程で哲学を専攻し、アリストテレスについて熱心に学んだ。
基礎科目の弁論については特にアリストテレスに拠る部分が多かったので、学生にとっては馴染みがある。それゆえによく選ばれるのだが、彼についてすべて網羅しようとすれば、それはたいへん厳しい道だった。それぞれの論題について検討するのにも時間が必要なのに、彼の著作が、思考がどれほど幅広い分野に及ぶことか。逆に、それを丸ごと習得し、その後の継承者に至る流れをつかむことができれば、専攻を超えて立派な教授になれるだろう。それほど大きな存在なのだ。
この「万学の祖」と言われる、ギリシアの哲学、倫理、政治、自然科学者について、私には特別な思い入れがあった。どのような思い入れか、分かるだろうか。
アリストテレスはアレクサンドロス大王の家庭教師だった、ということである。
私は講義を受けながら紀元前300年のギリシアを中心とした世界に思いを馳せることができた。そして、今も全く色褪せることのない輝きを放つ二人の偉大な人物の姿も思い浮かべることができた。傑出した哲学者、それまでに例のない大帝国を築いた王、その二人が言葉を交わし、教え、学んでいる姿を思い浮かべたのだ。それを運命の出会いととらえずにはいられなかった。アレクサンドロス大王はアリストテレスにものの考え方を学んだのだ。そして時には偉大な教師に異を唱え議論することもあったという。
なんという素晴らしい人間の交流だろう。それを私も肌で感じたい。そのような気持ちでことさら熱心にアリストテレスについて学んだのだ。
アントニオ、誤解されると困るのだが、私は幼い頃から憧れていたアレクサンドロス大王の幻影を追い求めようとしたのではないのだよ。今さら軍を率いる将軍になろうとは少しも思っていなかった。ただ、アレクサンドロス大王のことを思うとき、私は「おじいさま」のことを常に思い出していたのだ。
それは私の幼少時の幸せな時期、シャビエル城があって、父母もきょうだいも皆揃っていて、「おじいさま」と書斎で話していた大切な時に結びつくものだった。私はしばしば、それに浸っては学問の励みとしていた。
学生、というより若者には楽しみがたくさんある。それはアントニオ、あなたにも分かるだろう。私的な賭け事をする輩(やから)もいたし、外に遊びに出て、酒を飲んだり女性と夜を過ごしたりする輩もいた。そのような、若者らしい楽しみに全く興味がなかったといえば嘘になる。実際、そのようなことに誘われる機会も増えた。
それでも、アリストテレスを学んでいるときは、誰よりも熱心な生徒だったと自負しているのだよ。そんなこともあり、学士(修士コースの2年を終了した段階)を得てからアリストテレスを講義する立場にもなった。
この頃までには郷里にも変化があった。
上の兄ミゲルと下の兄ホアンが相次いで結婚したことだ。上の兄は1527年に、下の兄は翌年に結婚した。破壊されたシャビエル城の損害賠償がいくらか受けられることとなり、貴族としての名誉回復も叶うこととなった。それを受けて相次いで兄たちが結婚することとなったのだ。特に次兄のホアンの妻ファナ・デ・アルビツはオバノス城という城と領地を持っており、裕福な女性だった。
郷里ナヴァーラの家族も皆変化を迎えて、明るい兆しが出てきたのだ。パリに届いた兄からの手紙を見て、私は胸をなでおろした。遠い大学に家族をやるというのは、たいへん費用がかかる。学んでいる間に働くことはかなわない。仕送りだけが収入となる。裕福な貴族の子弟ならばともかく、私の家はお世辞にもそうだとはいえなかったから、心苦しく思っていたのだ。次兄が城を持つ女性と結婚することになって、実家にも多少の余裕ができるのではないかと思ったのである。
私が修士コースで学んでいた1529年9月、一人の学生が私とピエール・ファーブルの部屋に加わることとなった。新たな同室者(ルームメイト)は38歳の学生だった。
その名をイグナティウス・ロヨラ、通称イニゴという。
分かるだろう、アントニオ、彼こそが私の人生を変えた人である。
そして、わたしはパンプローナからパリにたどいついた。
パリ大学バルバラ学院、ここから私の新しい生活が始まった。
当時のパリ大学について、少し説明したほうがいいだろう。
パリのセーヌ川左岸にある、カルチェ・ラタン(フランス語でラテン語の地区の意味、文教地区に相当する)にはパリ大学に属する50ほどの学院(コレッジョ、カレッジと同じ意)があり、それぞれ学科などに特色を持っていた。この地区には30万人ほどが住んでおり、ヨーロッパ各地から4千人ほどの若者が集まってきていた。その50の学院の中で私が入学を希望していたのは聖バルバラ学院だった。
1460年創立のこの学院にはイベリア半島(スペイン、ポルトガル)出身者が多く、進歩的な気風の学校だった。50も林立しているのだから、個々の学院はそれほど広いものではない。バルバラは大きな建屋が2つ学舎として向かい合い、その奥に寮の建屋などがこじんまりと配置されている。隣には聖モンタギュー学院があったと記憶している。
パリ大学の履修内容は人文・雄弁術を学ぶ基礎科目(準備期間、日本の大学で言う一般教養)が2年あり、その後3年間哲学を学んで修士(2年目で学士資格を得られる)となる。そこからさらに専門課程である神学・法学・医学・哲学の各課に進んで、全部で7年学問を修めたのちに博士となる。
私は1526年の早春にパリに着いてから、入学のための準備を始めた。試験はラテン語で行われるので、ラテン語を徹底的に勉強しなければならない。私はさきにも述べたが、優秀な家庭教師――「おじいさま」のことだが――がいたので不安にはならなかったものの一生懸命に勉強し、フランス語にもさらに通暁(つうぎょう)するべく書物を読み漁った。古典はおしなべてラテン語で残されている。
ラテン語はその中でも特に、キリスト教の聖職者には必須の言語だった。聖書もすべてラテン語だったのだよ、アントニオ。何人であろうがラテン語で覚えたのだ。市井の人々には意味が分からないので、説明をつけなければならなかったとしても。その点では日本のボンズ(僧侶)が朗誦していた仏教の経典も同じだろう。あれはもともと、インドからはじまったものが中国を経て日本に伝わったのだから。
皆が同じ言葉でそれを聴き、読むことが大切だという考え方だ。
自国のものではない言葉を繰り返し書き写し、それを音にして皆が読むことで、尊さを表すということになるだろうか。
キリスト教においてそれを変えた一人が、さきに話したマルティン・ルターだ。
彼はそれまで誰もしていなかったことに手をつけた。
聖書をドイツ語に訳したのだ。彼が最初に発した「論題」についても、最初はラテン語だったが、そののちの著作はドイツ語で印刷するようになった。どんな身分の人間でも、あまねく読めるものにする。それがどれほど画期的なことであるか。贖宥状の話でも言ったが、グーテンベルグが発明した活版印刷を使って、ルターはドイツ語の聖書を大量に印刷した。それは彼が主張していたこと、つまり聖書をすべての基準にするという趣旨に沿ったものだったのだ。
考え方が行動を決める。そして、受け取る側がまた行動する。それにより波のように広がるものがあるのだ。言葉はこの場合、軽やかな水のように働く。
ルターの場合はそう、アジアの海でいうなら大時化(おおしけ)のようなものだったかもしれない。
1526年10月1日、晴れて私は聖バルバラ学院に入学した。
この新しい学期のスタートに、学生たちは胸を躍らせて集っていたのだが、皆一見ではどこの国の出身か分からないこともあり、緊張した空気が流れていたのだった。学舎(まなびや)と学生寮は同じ敷地にあったので、学院自体が大きな家のようなものだ。そのうちに気楽に誰とでも話を交わせるようになった。
大学の1日の生活は基礎科目と修士の期間で多少異なっていたものの、おおまかに記憶している時間割をあげてみよう。
4:00 起床 朝の祈り
5:00 第一授業
6:00 ミサ後朝食(パンと水、時々ぶどう酒)
8:00~10:00 授業、復習
11:00 昼食(肉食、小斎の際は魚)、野菜、果物
12:00 忠告など、復習、テスト、その他
15:00~17:00 授業、復習
18:00 夕食、その日の復習など
20:00 夕べの祈り(聖堂にて)
21:00 消灯
なかなか規則正しい生活だろう。
寮で私と同室になったのはピエール・ファーブルである。イタリア半島の左側の根っこにあたるサヴォイア公国の出身である。生まれ年が私と同じなのは珍しくもないが、誕生日が1週間しか変わらない。彼は4月13日生まれだ。それを知ってピエールは大層興奮していた。
「まるで、君と僕はふたごの兄弟のようなものだね。何となく他人のような気がしなかったんだよ」
私は少しきょとんとしながらも、ピエールの生まれつきのものに違いない、素直な人の好さを大層気に入った。あまりおしゃべりはどうかと思うが、一言も喋らずむっつりしている人間が同室になることを考えたら、ずいぶん気が楽ではないか。
サヴォイアはイタリア語とフランス語を使っていたが、ピエールはフランス語が自分の言葉だった。アルプスの麓にある彼の故郷はもともとフランスの影響が強い地域らしい。したがってパリでの生活には苦労がない。
彼の両親は農民で、ピエールもそのままならば農業に就くはずだったのだが、幼少から学問に秀でていたので、遠く離れた学校に通わせてもらい、さらに頭角を現した。そして、彼の能力を十分に生かせて、かつ貴族の出でない者にも門戸が開かれている職業を検討したのだ。
その結果彼も、司教になるべくパリにやってきた。
ピエールは私に素直な賞賛の目を向けて言った。
「実は、10歳の頃から習っているのだが、僕はそれほどラテン語が得意というわけじゃないんだ。不自由はしなくなったけれど。フランシスコは完璧にラテン語を習得しているから授業で困ることはないだろう。よほどいい先生についていたんだね」
「ああ、そうだ。本当にいい先生だった。お金もとらなかったし」
「ただでラテン語を教わったのかい? すごいね」
「そう、うちに住んでいたキュクロープスに」
「キュクロープス!? きみのうちはメテオラのてっぺんだったのかい?」
そう言ってピエールは笑った。
メテオラはギリシア・セサリア(テッサリア)にある。絶壁といっても差し支えないほど、高い高い岩山の上に建つ修道院群が特異な光景を見せている。これを見た人は、あの絶壁にどうやって建物を建てたのか必ず不思議がる。背負子(しょいこ)に木材を少しずつ積んで、修道士が岩山を這い登ったのだろうが、これほど運搬に手間をかけた建築物はあまりないと思う。世間から隔絶した環境で瞑想するためにそのような立地を選んだのだが、確かにこれほど隔絶された場所もないだろう。それは正解だったかもしれない。この当時、ギリシアを制圧していたオスマン・トルコもメテオラには手を出せず、容認していたのだから。修道士たちを追い出そうとすれば、逆に岩山から突き落とされるだけではないか。そんなことはしないと思うが。
そのような途絶された場所ならば、キュクロープスの一人や二人、住んでいても不思議はない。
私は彼の、そのような想像力豊かなところも気に入った。
そして、彼は地中海の美しさについてよく話した。彼の生国サヴォイアは小さいながら山もあり海もある。彼は山育ちだが海が好きで、地中海を見るためだけにしばしば馬を借りて遠乗りに出たという。
「地中海の色は紺碧(Azure)だと言われているけれど、僕はもっと青いように思っているよ。ナポリまで行くとまた違うのだろうね。あの海に小船を出して、のんびりと旅をするのが僕の夢だ。学生のうちにぜひしておきたい」
「今は少し物騒なように思うけど」と私が付け加える。
ピエールは眉を真ん中に寄せてうなずいた。
「まったくだ。イタリアは今、どうなるかわからないぐらい不安定だ。地中海はあんなに美しいのに、人の心はそうではないようだ。フランシスコは地中海を見たことがあるかい?」
「あいにくと。山の民だから」と私は肩をすくめた。いや、正確には盆地の民なのだが。山間(やまあい)の民だと言えばよかったかもしれない。
ピエールは目を輝かせて、「それなら休暇のときにうちに遊びに来るといい。一緒に地中海を見に行こう。君にはぜひ見てほしいな」と誘ってくれた。
私はこの時、鼻っ柱の強い性格だったと思う。
それを山間の民(バスク人)の特徴のせいにしては失礼にあたるので、述べておこう。この大学で優秀な成績を修めて高位聖職者、はっきり言うなら司教になることを初めから目的にしていた私は、他のことに無駄に時間を使いたくないと思っていた。そのような態度は表に出るものだ。他の人から見れば、さぞかし険(けん)ある人だっただろう。しかし、ピエールの存在は私の頑なな部分をほぐしてくれたと感謝している。彼が陽気に語り、素直に人の話を聞く人間でなかったら、私は頑ななまま学位を修め、頑なな聖職者になっていただろうと思う。
私たちの部屋はそれなりに古ぼけていて、貴族の邸宅のように豪華ではなかったが十分に温かい時間を過ごすことができた。
ピエールがそのような人物だったので、彼を通じた友人が何人もできた。私がラテン語を先生並みに操れるとピエールが宣伝して回ったようだ。授業の後で質問しに来る人間が増えた。そもそも教授に聞くべきであるが、その際に手厳しい指摘を受けるのは誰しも躊躇するものだ。
担当のペニャ教授に指導を受け、基礎科目を修めた私は次の修士課程で哲学を専攻し、アリストテレスについて熱心に学んだ。
基礎科目の弁論については特にアリストテレスに拠る部分が多かったので、学生にとっては馴染みがある。それゆえによく選ばれるのだが、彼についてすべて網羅しようとすれば、それはたいへん厳しい道だった。それぞれの論題について検討するのにも時間が必要なのに、彼の著作が、思考がどれほど幅広い分野に及ぶことか。逆に、それを丸ごと習得し、その後の継承者に至る流れをつかむことができれば、専攻を超えて立派な教授になれるだろう。それほど大きな存在なのだ。
この「万学の祖」と言われる、ギリシアの哲学、倫理、政治、自然科学者について、私には特別な思い入れがあった。どのような思い入れか、分かるだろうか。
アリストテレスはアレクサンドロス大王の家庭教師だった、ということである。
私は講義を受けながら紀元前300年のギリシアを中心とした世界に思いを馳せることができた。そして、今も全く色褪せることのない輝きを放つ二人の偉大な人物の姿も思い浮かべることができた。傑出した哲学者、それまでに例のない大帝国を築いた王、その二人が言葉を交わし、教え、学んでいる姿を思い浮かべたのだ。それを運命の出会いととらえずにはいられなかった。アレクサンドロス大王はアリストテレスにものの考え方を学んだのだ。そして時には偉大な教師に異を唱え議論することもあったという。
なんという素晴らしい人間の交流だろう。それを私も肌で感じたい。そのような気持ちでことさら熱心にアリストテレスについて学んだのだ。
アントニオ、誤解されると困るのだが、私は幼い頃から憧れていたアレクサンドロス大王の幻影を追い求めようとしたのではないのだよ。今さら軍を率いる将軍になろうとは少しも思っていなかった。ただ、アレクサンドロス大王のことを思うとき、私は「おじいさま」のことを常に思い出していたのだ。
それは私の幼少時の幸せな時期、シャビエル城があって、父母もきょうだいも皆揃っていて、「おじいさま」と書斎で話していた大切な時に結びつくものだった。私はしばしば、それに浸っては学問の励みとしていた。
学生、というより若者には楽しみがたくさんある。それはアントニオ、あなたにも分かるだろう。私的な賭け事をする輩(やから)もいたし、外に遊びに出て、酒を飲んだり女性と夜を過ごしたりする輩もいた。そのような、若者らしい楽しみに全く興味がなかったといえば嘘になる。実際、そのようなことに誘われる機会も増えた。
それでも、アリストテレスを学んでいるときは、誰よりも熱心な生徒だったと自負しているのだよ。そんなこともあり、学士(修士コースの2年を終了した段階)を得てからアリストテレスを講義する立場にもなった。
この頃までには郷里にも変化があった。
上の兄ミゲルと下の兄ホアンが相次いで結婚したことだ。上の兄は1527年に、下の兄は翌年に結婚した。破壊されたシャビエル城の損害賠償がいくらか受けられることとなり、貴族としての名誉回復も叶うこととなった。それを受けて相次いで兄たちが結婚することとなったのだ。特に次兄のホアンの妻ファナ・デ・アルビツはオバノス城という城と領地を持っており、裕福な女性だった。
郷里ナヴァーラの家族も皆変化を迎えて、明るい兆しが出てきたのだ。パリに届いた兄からの手紙を見て、私は胸をなでおろした。遠い大学に家族をやるというのは、たいへん費用がかかる。学んでいる間に働くことはかなわない。仕送りだけが収入となる。裕福な貴族の子弟ならばともかく、私の家はお世辞にもそうだとはいえなかったから、心苦しく思っていたのだ。次兄が城を持つ女性と結婚することになって、実家にも多少の余裕ができるのではないかと思ったのである。
私が修士コースで学んでいた1529年9月、一人の学生が私とピエール・ファーブルの部屋に加わることとなった。新たな同室者(ルームメイト)は38歳の学生だった。
その名をイグナティウス・ロヨラ、通称イニゴという。
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