16世紀のオデュッセイア

尾方佐羽

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第2章 海の巡礼路(西洋編) フランシスコ・ザビエル

心の中の軋轢(あつれき) 1529年~ パリ

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<フランシスコ・ザビエル、ピエール・ファーブル、イグナティウス・ロヨラ>

 アントニオ、あなたはイグナティウス・ロヨラの名前を聞いたことがあるだろう。そう、ローマにいる私たちイエズス会の総長だ。

 私たちは学生時代に同志となった。軋轢(あつれき)があったのだが、それは主に私に起因するものだった。イエズス会の他の会員とイニゴ(ロヨラのこと)の間では見られなかったものだ。そのことについて、私は多くを語っていないし、語る気もなかった。軋轢を克服して同志となった後の道のりのほうがもっと重要なものだったからだ。

 しかし、今は私の最後の告白になる。私が来た道をすべて語るという点において、このことも省みられるべきだろう。私が最も心を閉ざしていた時期のことを。

 アントニオ、私はこの頃、母マリア・アスピルクエタを失ったのだよ。

 私に兄ミゲルからの手紙が届けられたのは1529年8月のことだった。修士コースに進んで1年目、新しい学期を前にバタバタしていたときだ。アリストテレスを本格的に学ぶことで私の頭はいっぱいになっていたが、しばらくそれが消し飛んでしまうほどのできごとだった。

 私の母、マリア・アスピルクエタがシャビエル城で亡くなったのは知らせが来た前月のことだった。もう葬儀も終えたという。母はしばらく体調を崩していたらしいが。私は全く知らなかった。きっと心配をかけまいと知らせてこなかったのだろう。
 私は部屋で兄からの手紙を握り締めて、泣いた。
 ピエールが隣に立って、ずっとそのままでいてくれた。
 このようなときに、一人でないことがどれほど心強かったことか。

 パンプローナに至る道で、最後に見た母の姿が脳裏にこびりついていた。涙を拭いて、無理に笑って見送ってくれた母の姿。体調を崩していると知らせてくれたら、私はまっさきにシャビエル城に戻ったのに。

 私は母を亡くしたことで、それまで堅く心に決めていた目的が揺らぎ出すのを感じていた。

 司教職を目指すのは、その名誉にふさわしい収入が得られるからでもあった。そしてその収入で、破壊されたシャビエル城を再建し母に安心して日々を送ってほしいと考えていた。もちろん大司教、枢機卿と進むという野望もなかったわけではないが、とにかくナヴァーラ王国枢密院議長だった父に匹敵する地位を得ることを求めていたのだ。そのために、父と同じように大学に進んだのだ。

 その目的が揺らいできた。もう母はいない。シャビエル城も――元通りにはならないにしても――賠償金が入れば必要な修繕ができる。兄たちも結婚して新しい暮らしを送っている。それならば、自分は故郷に戻って何をしたらよいのか、今何を目指したらよいのか、それが分からなくなってきたのである。


 そしてそれからほどなくして、バルバラ学院寮の、私とピエール・ファーブルの部屋に新たな寮生がやってきた。


 イグナティウス・ロヨラだ。私はずっとイニゴと呼んでいるので、ここではそれを使わせてもらおう。
 彼は私より15歳上で、バルバラ学院に入ってきたのは38歳のときだった。すでに頭髪も自然の成り行きで薄くなっていた。学院にそれだけ年長の学生はいなかったので、どこでも目立っていた。

 彼は物静かで穏和な風貌で、常に祈っていた。朝の祈りや夕べの祈りは皆がそれぞれ行うのだが、部屋でも同様に祈っていた。そして誰よりも長く祈っていた。彼がたいへん敬虔(けいけん)な信徒であることはすぐに誰もが認めるところとなった。

 しかし、私の抱いた感情は複雑だった……正直に言えば、私はピエール・ファーブルとの二人部屋をたいへん気に入っていたので、新たな老学生の登場を快くは思わなかったのだ。イニゴがバスク地方のアスペイティア出身だと知っても、その地がナヴァーラではなくカスティーリャにあたることもあって、それ以上話をしたいとは思わなかった。
 しかし、ピエールにとっては違った。

 母を喪って目的が揺らいできた私と同様に、司祭を目指してパリに出てきたピエールもこの頃ちょうど迷いの時期にあった。若者らしく他の事柄にも広く興味を抱いていた彼は、一生聖職者として生きていけるのか不安になっていたのである。彼は新しく同室になったイニゴに興味を持ち、その話を熱心に聞くようになった。ピエールは素直な性格の持ち主だったので、迷いがあったとしても私のように他の人間に対して構えることはなかった。イニゴも丁寧に受け答えをしていた。

 そのかたわらで、同室の私はピエールの熱中ぶりを醒めた目で見ながら、いや、ほとんどは嫉妬の感情だったが、二人の会話には入らないようにしていたし、耳にしないようにした。

 そう、イニゴにピエールを奪われたと思ったのだ。

 そんなふうにイニゴを半ば敵視していた私は、当然ながら彼の生い立ちや来た道についてもあまり興味を抱かなかった。それを聞いたのはずいぶん後になってからのことだ。


 かつて、父ホアン・デ・ハスは私に対して、「おまえの心は明るく開かれている」と褒めてくれたのに、それはどこに行ってしまったのか。


 私はそうして、自分の心をみずから傷つけていたのだ。
 そして、イニゴとピエールは信仰についての対話を深めていく。ピエールからは迷いが消え、司祭になるための学問に一層励むようになった。さらに、1931年の春の休暇にイニゴとピエールは、二人で聖地ローマへの旅に出かけていった。
 その間私は一人の部屋で懸命に勉強するしかなかった。この時には学士としてアリストテレスを学生に講義するようになっていたので、それだけの準備が必要だったのだ。

 しかし、その心の内には言いようのない寂寥感が広がっていた。

 イニゴはピエールとの旅を終えてからも、休みになると一人で旅に出かけるようになった。フランドル地方やイギリスにも渡っていた。すべて、その旅は自身の信仰に基づく行乞(ぎょうこつ)の旅であった。

 托鉢(たくはつ)と言ったほうがよいのかもしれないが、世には托鉢修道会があり、イニゴは個人で行っていたのだからそのように表現しよう。

 そして、彼は少なくない額の布施を得て、パリに戻ってくるのである。

 一方、私は母が亡くなったあと、仕送りを減らされるようになっていた。
 学院で人並みの暮らしをするにはかなりの金額が必要となるが、郷里のナヴァーラでは段々それだけの送金をするのが厳しくなっていたのだ。金をパリまで託すのにも費用がかかるのだから。正直に言えば、学業を中断して戻るようにという懇願の手紙もたびたび届いた。

 それがますます私の心を曇らせていた。

 そのような兄の様子を聞き、「フランシスコに学を修めさせるべきだ」と擁護してくれていたのは、意外なことに、早くに城を出て修道院に入った長姉マグダレナだった。主は思わぬ味方を私に与えてくださったようだ。それで仕送りは減ったものの、何とか学業を続けることができたのだ。

 さらに思わぬ味方が近くにいた。イニゴだった。

 彼は行乞の旅で得た布施を困窮した学生に与えていたが、それを私にも与えたのだ。イニゴとは相変わらず部屋で話すこともなかったのだが、さりげなく布施を置いていくのだ。ピエールにだけ自身の困窮をこぼしていたので、私を刺激しないようにしていたのだろう。

 しかし、私はそれで余計に心を開くことができなくなってしまったのだ。
 貴族なのに施しを受けるなど、屈辱に等しい。
 そのような尊大さがあった。

 ピエールへの態度もこれで硬化してしまったのだ。意固地も度を過ぎると暴走する馬のようなもので、常識だの倫理だのはもちろん、筋道正しい論理でも蹴り飛ばされるばかりだ。相当の巧者が扱わないと危険極まりないだろう。


 アントニオ、マラッカのアタイデを見たあなたには分かるだろう。だから私はアタイデを責める気にはなれないのだよ。今このような状況を与えられていることについても。


 そう、本当はさりげない喜捨(きしゃ)に心から感謝していたし、イニゴやピエールが意固地な私を気遣っていることも十分に理解していた。それでも私の心は太古の地層のように圧迫され堅固になるばかりだった。生活費の援助をしてくれたことには感謝していたので、さすがに最低限の会話はしていたが、あくまでも表面的な付き合いで済むように通した。その状態は1533年になるまで続いた。

 意固地な人間の典型的な見本だ。自分で話していても恥ずかしいし、滑稽(こっけい)だ。しかし、それも私で、そんな愚かな自分ももう受け入れ、愛せるようになった。自分を愛せない人間は他人を愛することもできない。

 それはアントニオ、あなたにも伝えたことがあるだろう。

 そんな中で私は博士の資格を得た後のことを考えはじめた。郷里の聖職に就くための身分証明を要請し、自分がはじめに立てた計画を実行しようと準備していた。

 1533年の3月、イニゴは哲学の学士を得た。巡礼や行乞の旅を続けていたにも関わらず、所定の学業をきちんと修めたのである。私は正直に言えば、もう40をとうに越えているイニゴが、他の活動にも注力しているイニゴが、哲学士を得られるとは思っていなかったのである。その迷いのない態度に、努力に私は圧倒された。

 さすがにこれまでの態度を反省し、自らの道を改めて考えたほうがいいだろうかと思うようにもなったのだ。

 そして、その年の6月、イニゴと信仰に関する対話を重ねていたピエールも司祭に叙階されることがほぼ確実になった。そして彼は長期の休みを取ってサヴォイアに帰郷した。半年以上の長期休暇である。私は気が重くなった。その間、イニゴと二人同室で過ごさなければならない。

 ピエールはサヴォイアに出発する前、私を食堂の片隅に呼んで二人で話をした。
「フランシスコ、怒らないで聞いてほしい。君は一度、イニゴと腹を割って話したほうがいいと思うんだ」とピエールが切り出した。
「それは、僕もそうするべきだと思っている」
 ピエールはうなずきながら続ける。
「そうだね。きみはいろいろなことをよく分かっている。僕も悪かったんだよ。イニゴに悩みを相談しているときに、君を外すようなそぶりを続けてしまった。それを許してほしいんだ」

 ピエールは、やはり素直な男だった。おそらくそれをずっと気に病んでいたのだろう。本当に申し訳なさそうに私の目を見て、涙をためた目で……謝ったのだ。

「ピエール、君のせいじゃない。それはたまたま、そうだったというだけのことだ。僕も失礼な態度を取り続けたことを謝る」

 ピエールは、「謝らないでほしい」とつぶやいてなお、切々と訴え続けた。

「イニゴと君が相容れない人間だとは、僕は思っていない。しかし、人間の心の糸は大層複雑なものだから、交流がはかれない結果に終わる場合もあるだろう。それでも、一度でいいから、思っていることをお互いにきちんと話してほしい。それをしてなお、やはり付き合うべき人間でないと君が判断するのなら、僕はその判断を全面的に支持するよ。君は今でも、僕にとってはふたごのきょうだいと同じなんだよ。僕たちがバルバラ学院にいられる時間はもう残り少ない。イニゴと君がじっくり話せる、これが最初で最後の機会だと思う。僕がいない間、一度でいい。お互いのことをよく知る機会を作ってほしい。それが僕からのお願いなんだ」

 ピエールの篤実(とくじつ)さを痛いほど感じた瞬間だった。
 彼はあえて長期の休暇を取ったのだ。
 私が心の壁を破ってイニゴと交流を深める最後の機会を作らなければ、と考えたからそうしたのである。イニゴにもそう話しただろう。私はピエールの言うことにうん、うんとうなずきながらも、どこか逃げ出したいような気持ちになっていた。

 とはいえ、すぐさま私とイニゴの会話が弾んだわけではない。ピエールがいなくなってしばらくは、これまでのようにほとんど言葉を交わさない日々が続いていた。

 静寂を破ったのはイニゴだった。

 イニゴは本を読んでいる私を見ながら、話しかけてきた。
 それは故郷を後にして以来、まったく話すことのなかったバスク語だった。

「フランシスコ、私の話を聞いてほしい。そしてあなたも自身の考えを知らせてほしい。バスク語で話そう。それならば、口論になってもバスク人にしか内容を解することができない。幸い、この周りにはそれに該当する人間はいない。あなたと私だけだ。たまには故郷の言葉を使ったほうがいいとは思わないか。お互いに十分思うところを述べた上で、あなたが私を受け入れがたいと思うのならば、そのときはそうすればいい」

 私はうなずいた。
 そして、彼はまず自身の生い立ちを話しはじめた。おかしな話だが、もう4年も同じ部屋で暮らしながら、私は彼の個人的な情報をほとんど何も知らないままで済ませてきたのだ。



 イニゴはスペイン・バスクのギブスコア地方にあるアスペイティアの出である。(※地図ではドノスティアよりやや西の内陸)
 彼はその地のロヨラ城で1491年に生まれた。かのレコンキスタが終了する前の年だ。ギブスコアはナヴァーラ王国ではなくカスティーリャに属する地域になる。貴族の嫡子、末子だったイニゴは大事に育てられ成長した。バスクの貴族の嫡子、しかも末子だということは私と同じだった。
 長じて彼はナヴァーラ王国とカスティーリャの争いにおいて、カスティーリャ側の兵士として戦うことになる。そう、カスティーリャとアラゴンを手中にしたフェルナンド王がナヴァーラ王国をも手中にし、続くカルロス王が神聖ローマ皇帝を兼ねるようになった頃だ。

 フランスとナヴァーラの義勇兵たちが連合を組み、カスティーリャ(スペイン)に奪われたパンプローナを取り返そうとした話は覚えているだろうか。私の兄、ミゲルとホアンが従軍した戦いだ。フランスとナヴァーラの連合軍がいっときは王城を制圧したがその後でカスティーリャに奪回された。1521年のことだ。

 イニゴはそこで、パンプローナの宮殿守備の任務についていた。
 そして、その戦いで右足に砲弾を受けて大怪我をしたのだ。

 そこまでイニゴが話をしたとき、私はぎょっとして彼を見た。
 バスク人の彼は敵だったのか。私の兄たちはその後ノアインの戦いで敗れて捕虜になった。イニゴが怪我をしたことについては同情するものの、敵だったことは事実である。

 私の脳裏に瓦礫(がれき)のシャビエル城が浮かんだ。瓦礫の片隅にほんの少しばかり残された一画で、母と心細い気持ちで過ごした日々が蘇ってきた。そして、この男とは決して相容れることはないと思った。

 今思えば、それはイニゴに負わせるべき責ではないことは明白だ。それならば、イニゴだって私のことを同じように憎むことができるだろう。原因はそのようなところにはない。イニゴはカスティーリャに従ってパンプローナの王宮に詰めていただけなのだ。

 バスク語で話していたからだろうか。私は拒否をせず、イニゴと真正面から向き合う気になっていた。そして、私の意思をイニゴに正直に告げたほうがいいと思った。

「イニゴ、私たちの兄は、あなたに大怪我をさせた側で戦っていた。それは申し訳なくも不幸なことだったと思う。しかし私は、祖国ナヴァーラがカスティーリャに制圧されたことを忘れてはいない。私の父はその心痛で倒れ、じきに亡くなった。そして居城は打ち壊され、兄たちもしばらく捕虜となっていた。母はそれで気鬱のようになってしまったのだ。その過去が私の記憶から消えることはないだろう。あなたに罪があるわけではない。しかし私とあなたは、おそらく相容れない人間なのだと思う。どうだろう、私がパンプローナの王宮を攻めてあなたに砲弾を浴びせた側の人間だと知れば、あなたも同じように考えるのではないか」

 イニゴは私の言葉を、黙ってうなずきながら聞いていた。大分間があって、イニゴはようやく口を開いた。

「フランシスコ、今のようにあなたの生いたちも聞かせてほしいと願っている。私は入学したときからあなたと話したいと思っていたのだ。あなたの住んでいた城は知っている。シャビエル城、ピレネーに抱かれた美しい城も見たことがある。まだ壊される前のこと。ナヴァーラの俊英であるあなたのことはバスク一帯に知られている。私はバスクの同胞、つまりあなたと同室にしてほしかった。だからそれを学院に希望したのだ」

 私は次の言葉を発することができなかった。
 知っていて同室になった?
 何も言えない私を穏やかな目で見つめたままのイニゴは言葉を続けた。

「私はあなたがたとかつて敵対した、アスペイティアの一貴族としてではなく、一人のバスク人としてあなたに会ってみたかった」

 この言葉で、私は毒気を抜かれてしまった。

 私の負けだと思った。もちろん、勝負をしていたわけではないのだよ、アントニオ。そしてまた、自分の鎧(よろい)を着けそうになってしまったのだ。

 イニゴは焦ってはいなかった。私が黙ってしまったのを見て、寝台に潜り込んだ。
「明日も早い。今日の話はここまでにしよう」
 その夜はそこまでで灯りを消すこととなった。

 イニゴの静かな寝息を耳にしながら、私はなかなか寝付くことができなかった。窓から見える夜空には星がいくつも瞬いていた。
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